さて。
○こちら===>>>
↑まずは『神社覈録』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
689ページです。
「椿大神神社
(略)◯祭神猿田彦大神、頭注 或云、保食神、◯山本村に在す 考証、俚諺、◯当国一宮とも云ふ、一宮記、河曲郡都波岐神社とす、
雑記に、今椿大明神といふ、又行満大明神ともいふ、保食神也、又式なる小岸大神社は、今岸大明神といふ、両社相殿に坐すなり、亀山賦に、椿嶽の下にあり、椿岸社 三重郡に在す は、俗に下椿といふ、多気窓蛍に、昔椿の社より朝廷の御祈せしこと慣例也、と云り、或人云、当社前にあやつばきとて、檜の葉に似たるものに椿の花さく也、色は赤白あり、他所になきもの也とぞ、(以下略)」
○こちら===>>>
↑公式HPでは、主祭神は「猿田彦大神」、相殿に「瓊々杵尊」、「栲幡千々姫命」を、配祀に「天之鈿女命」、「木花咲耶姫命」ということになっています。
一応、『神社覈録』の出版された大正時代に、祭神は「猿田彦大神」ということになっていたようですが、一方で「保食神」との伝承もあり、というゆらぎ。
現在の「椿岸神社」は、「椿大神社」の境内にありますが、それっぽい神社が式内社に2つありましたので、そちらも。
「小岸大神神社
(略)○祭神詳ならず○小岐須村に在す、考証
雑記の説に 椿大神社の條に云 よれば、椿大神社相殿と見ゆ、こは何の書に見ゆるか覚束なし、現在小岐須村にませば也、猶尋ぬべし、考証従ひがたし、」
一つ目は「小岸大神神社」で、同じ鈴鹿郡にあり、祭神不詳、とされています。
「椿大神社」と相殿、という伝承もあるようですが不明。
「椿岸神社
椿岸は都婆岐志と訓べし ○祭神天鈿女命、頭注 ○智積村に在す、考証、俚諺、○神鳳抄云、智積御厨、○大安寺資材帳云、三重郡河内原六十町云々、四至東椿社、南鎌山登道、西山、北牧木之限、」
もう一つは、三重郡の「椿岸神社」で、名前的にはそのまま(読み方は「つばきし」)、御祭神もどうやら「天鈿女命」のようです。
○こちら===>>>
『特選神名牒』も確認。
196ページです。
「椿大神社
祭神
(略)
所在 山本村(鈴鹿郡椿村大字山本)
今按るに椿は地名神鳳鈔に内宮椿御薗廿二町 大窪水澤山本七郷 とありて数村に亘る総称なり 今も西山に椿ヶ嶽といふあり 其東麓の山本村に社地あり故に椿の神とも椿の大神とも称せるなり 然るを椿大(ツバキダ)と訓するが如きは謬れり 然して大神はおほのかみと訓して大朝臣の祖神の義ならむ 朝明郡の太神社奄藝郡の大乃已所神社の大字と同意のおほなるにこそさるを社域に猿多く栖めると古事記に猿田毘古彦大神とあるとを附会して祭神を猿田彦神とするは受かたし 然て又本社を当国一宮とす本社別当随光院所蔵大般若経跋云奉施入一宮山本椿大明神康暦元年六月廿五日大願主比丘尼聖周と載せ諸国一宮神名帳にも椿宮伊勢国とあるを以て證すへし 然るに其後の大日本国一宮記に都波岐神社 猿田彦神也 伊勢國河曲郡と記せるは椿と都波岐と謬混せしなり 古證に據て一宮は本社に定へきなり」
祭神が空欄になっていることから、『特選神名牒』としては「猿田彦大神」とは決めがたい、なんなら「社域に猿がいっぱいいたから」って「猿田彦大神」にしちゃったのかもね、としています。
むしろ、「椿大神社」の「大」に注目すれば、これは、「多氏」系統の祖神を祀ったのだろう、と。
近辺には「太神社」や「大乃已所神社」があるのだから、これを「大いなる神」と勘違いしちゃだめなんじゃないの、と。
なかなか難しい問題ですが……式内社であることは確かで、古来からある神社の例に漏れず社殿なんかは燃えてしまっている(大抵「織田信長」のせいですが、こちらではどうだったか……)ので、なかなか追いきれません。
ただ、「椿」という珍しい名前と、「猿田彦大神」が結びつかないなぁ、というのが私の印象なもので、多分後から借りてきたんだろうな、と(それが実は、結構古い時代かもしれませんが)。
古代の神のことは詳しくわかりませんが、とにかく「椿ヶ嶽」を神体山とした信仰の中で生まれた神なのでしょう。
「小岸大神社
祭神
(略)
所在 小岐須村(鈴鹿郡椿村大字小岐須 現今同村大字山本郷社椿大神社に合併)
今按るに本社の大神社の大字も椿大神社と同義の大にて大朝臣の氏祖を奉祀するならむ 然るに椿を猿田彦神とし本社を天鈿女命とするは牽強なり 古語拾遺の強女於須志を小岸に附会し神名を塡つるは於小の音差をも辨せぬ説にて取るに足らす」
こちら「小岸大神社」もやっぱり「大いなる」ってことじゃなくて、「多氏」関係でしょう、と。
『古語拾遺』には、
「又、天鈿女命[古語に、天乃於須女といふ。其の神、強(こは)く悍(あら)く猛(たけ)く固し。故以て名と為。今の俗に、強き女を於須志(おずし)と謂ふは、此の縁なり。]」(p20)
↑という文章があり、ここから「於須志」から「小岸」に音が変化したんじゃないか、だから元々は「天鈿女命」だ、というのは「さすがに牽強付会でしょ」、と。
うーん……。
「椿岸神社
祭神
祭日
社格
所在
今按るに傍注考証以下の諸書智積村の神明社に配す 勢陽雑記獨采女村日の宮に塡つ智積村は神鳳鈔に 内宮 智積御厨 百八十町十石口入加地子廿石 とある地にして即ち神明を所奉祀なり 寛文三年元禄四年等の棟札に天照皇大神宮とも神明廟とも記したるか如し 然るに寛保二年の札に始て椿岸神社神明宮と録したり其頃の所作なるにや永禄三年十一月の札ありて云く奉再建智積七郷総社椿岸大明神御本社云々其木新しく墨痕古からす 当時のものに非る事一目瞭然たり 其同手に出つるか永禄四年正月神主近藤忠胤の撰せしといふ椿岸神社の伝記あり 旧とは河北之小山椿生と呼ぶ所に在享禄二年冬兵火に罹る故に永禄三年智積村内に再建し神明八幡をも勧請合祭して椿岸神社と号すと云へり 今の社地の形容永禄遷移の景況に非す 旧古奉祀の神明祠たる事土俗も神明と称して著明なるを主客を倒して式社に牽強するなり信受しかたし 又椿尾と呼ぶ地は智積村の管内西極の山陂にて椿神社の獅子頭の四年目毎に其坂路を越る時歌舞すと謂ふは峠神に奉楽するにて本社に関係する事に非す 勿論其地は神社のあるへき地勢にあらす 皆附会の妄談なるのみ 依りて考ふるに鈴鹿郡椿大神社略記云本社より八丁東に摂社椿岸神社有舞年八月朔日より本社の神霊を椿岸社に神幸なし奉り三日還幸の例なりと載せたり 其椿岸神社は旧と北方若干里を隔て三重郡内に在たるに舞年遠路を神幸するに風雨の煩あるを以て近く今の所に遷転すと口伝す 天平二十年大安寺資材帳に三重郡河内原六十町四至東椿社南鎌山登道西山北牧木之限とある椿社は本社を謂ふなるへし 三國地志に鎌嶽水澤薦野の上方にあり 河内原按下河内村あり此辺なるへしと云へるか如く山の坊谷村水澤等の地河内原ならむ近年まで山の坊の一村獨椿社の氏子たりし由なるを見れば本社の旧地は山之坊村にやあらむ」
まあ「椿岸神社」のほうはますますよくわからずですね、『神社覈録』ではこっちは「天鈿女命」ってことになっていたんですが、やっぱそりゃ違うでしょう、と。
元々は「神明社」だったんでしょとか、「椿大神社」の神幸する先(つまり、御旅所みたいなもんですかな)じゃないのとか、そうすると結局御祭神はなんなんだろう……とまぁこんな感じでして。
『延喜式神名帳』には、実際の神社の場所まで細かく記されていませんので、よくわからない(だから論社がある)んです。
しかし、ただの御旅所が式内社、ってこともなさそう……同じ「椿」を関する辺り、何らかの関連があるのだと思ったり、単純に「椿ヶ嶽」の周りにあるからって理由かもしれませんし……ううむ。
いかん、考え出したら頭痛くなってきた……。
◯こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大神宮叢書. 第3 後篇
前回も確認した、『大神宮叢書』にも記事があります。
314ページです。
「◯椿大神社
此社ハ従古不易ノ旧祠ニシテ、椿カ嶽ノ東ノ山本村ニ在リ。(略)然シテ本社ノ祭神ヲ猿田彦神ト云フハ、社頭ニ猿多クシテ人ニ馴ル、ヲ以テ云フナリ。又蹴鞠神ナト云フハ社後ニ鞠倉ノ大山アリ、其山本ニ坐スヲ以テナリ。皆信受スヘカラス。社号ノ椿ハ地名ナリ。社頭ヲ始メ都テ此地ニ椿樹多キニ據テ名トス。大神ハ太朝臣ノ祖神ヲ祭ル祠ナルカ故ニ椿ノ大ノ神ノ社ト称スルナリ。(以下略)」
「蹴鞠神」という説もあるんですね……まあばっさりですが。
続いて、
「◯小岸大神社
此社号ノ小岸ハ地名ナリ。傍注ニ、今小岐須村在山本村之東、と云ヘル後、考証以下コレニ従テ異論ナシ。(略)然シテ祭神ヲ天鈿女命トスルハ、古語拾遺ノ強女謂之於須志トアル於須志ヲ小伎志ニ譌テ牽合シ、妄ニ配スル神名ナレハ信従スルニ足ラス。今按ルニ小岸ハ地名、大神ハ椿社ト同シク、太朝臣ノ氏祖ヲ祀ルユヱニ、大ノ神ノ社ト称スルニテ、是亦神八井耳命ヲ祭ルナルヘシ。」
……うん、こちらも『特選神名牒』とあんまり変わらず(略した部分は各自確認を)。
続いて、378ページ、
「◯椿岸神社
此社号モ地名ナルカ、傍注云、今智積村ト。考証以下ノ諸書皆コレニ同ス。(略)又旧地ト称スル椿尾ニ到リ、峠ニ登テ地勢ヲ閲スルニ、赤土ノ冗山ニシテ旧古社殿ヲ建ツヘキ形状ニアラス。椿社ノ獅子頭薦野近村ニ巡行スル時此峠ニシテ奏舞スルハ手向ノ神ヘノ法楽ニスルニテ、其峠ノ地巡リ十間餘ヲ智積出屋敷ノ庄左衛門獅子ノ越ル四年目毎ニ掃除ヲ加フル例ナルヲ以テ、旧地カマシク唱フレト、サラニ本社ニ関係スルコトニ非ス。此等ノ妄誕ニ信従スヘカラス。又椿大神社略記云、本社より八丁東に摂社椿岸神社有、毎年八月朔日より本社の神霊を椿岸社に神幸なし奉り、三日還幸の例なり、トアルニ依テ宝暦九年八月上進亀山領内神社記ニ、鈴鹿郡山本村椿岸神社、祭所天鈿女命、神主山本肥後、ト載セ、又亀山藩明細帳云、椿大神社摂社椿岸神社、社 竪二尺五寸、横二尺五寸、神輿宿殿 竪二間半、横二間、社地 東西二十二間、南北三十六間、ト載タル是ナリ。其社ハ振古ノ本社ニハアラス、椿大神社ノ御旅所ト称スル森ニ在ルナリ。旧昔ハ椿大神ノ御輿ヲ椿岸神社マテ昇行ク例ナリシトソ。其行程一里半許ナル故遠キニ窮シテ此近キニ勧請シ、神事ヲ此所ニシテ行フナリト云ヘリ。依リテ熟考スルニ天平廿年大安寺資材帳云、三重郡河内原六十町四至東椿社、南鎌山登道、西山、北牧木之限、トアリ椿社ハ即本社椿岸社ヲイヘルナリ。三國地志ニ鎌嶽、水澤薦野ノ上方ニアリ、河内原、按下河内村アリ、此辺ナルヘシ、トイヘルカ如ク下河内村ヨリ上ノ西方ニ河内原アリヌヘシ。其東方ニ本社ハ在ヘキナリ。(略)」
なんか、引用していてよくわからなくなってきましたが……「椿」はもう、地名ということにしておきましょう。
「小岸大神社」、「椿岸神社」の「岸」は、近くに川があったからなんでしょうけれども……「椿岸神社」がひょっとして「椿大神社」のお旅所だったとすると、そうですね、「椿来し」ってことでどうでしょうか。
ま、いずれにしても、御祭神に関してはよくわからない、と……なんだったんだろう今回の記事は(そういうときもあります)。
なお、
『諸国神社 一宮・二宮・三宮』という本では、
「(略)そういったなかにあって、伊勢国の一宮は「つばき」神社だというのが近世以降の定説であった。しかし、それがどの神社かについては、議論があった。伊勢国には「つばき」と名のつく神社が二つあったからだ。たとえば、『大日本国一宮記』には「都波岐神社 猿田彦神也 伊勢河曲郡」とあるが、『一宮巡詣記』を書いた橘三喜は椿大神社を一宮としている。
『大日本国一宮記』は中世以降の神道界で指導的な立場にあった吉田家(卜部家)に伝えられた記録に基づくもので、原典は南北朝にさかのぼるという。一方、椿大神社についても、「奉施入一宮山本椿大明神」と書かれた奥書をもつ十四世紀後半の『大般若経』の写経が残されている(奥書は後世のものである可能性もある)。
椿大神社は鈴鹿山系の中央に位置する入道ヶ嶽(高山)を神体山とする古社で、社伝によれば垂仁天皇二十七年に創建されたという。『延喜式』にその名を記された式内社で、天平二十年(七四八)成立の『大安寺伽藍縁起并流記資材帳』に記されているのが文献上の初見とされる。
いっぽう都波岐神社は雄略天皇二十三年の勅により奈加等神社とともに創建されたとされる古社で、『延喜式」では小社として記録されている。社伝では空海が参籠したことがあるともいう。なお、明治時代に奈加等神社と合併したため、現在は都波岐奈加等神社が正式な社号になっている。」(p99)
「このように識者の間で意見が分かれていたが、椿大神社のほうが蓋然性が高いと思われていた。『大日本国一宮』が都波岐神社を一宮としていることについても、古記録を写す時に「椿宮」の読みとして書かれていた「都波岐」を社号と混同させたことによりのではないかともされた。
これに対して大林太良氏は「私は椿大神社と都波岐神社は対として考えるべき神社ではないか、と思っている」とし、「鈴鹿の椿大神社の猿田彦命は山の神であるのに対し、河曲の都波岐神社では、猿田彦命は海の神なのである」と考察している(『私の一宮巡詣記』)。山城国のところで述べたように、対となる神社が二社で一宮となる、あるいは一宮と二宮を占める例が五つほど知られているので、これはとても興味深い指摘といえる。しかし、対となっている神社が同じ神を違う性質のものとして祀ることがありうるのだろうか。祭神の検討も含めて再検証が必要だろう。」(p100)
↑といったことが書かれています。
一宮制度自体に謎が多いので、どっちがどっちなのか、というのはよくわかりませんが、過去の研究者が「猿田彦大神」を御祭神としていない、ということを考えると、やはりまずそこから検討すべき、なのでしょう……が記録がないのでなんともかんとも……まあ、伊勢の周辺であれば、「猿田彦大神」が地主神だったとしても不思議ではなさそうですけれども。
そういえば、「都波岐奈加等神社」にいくのを忘れました……また今度にしよう……。