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神社仏閣ラブ(弛め)

「牟呂八幡宮」(愛知県豊橋市)〜豊橋ちょっとぶらり旅〜

2/24。
吉田神社」を後にして、続いては「牟呂八幡宮へ。

 

◯こちら===>>>

www.murohachiman.com

 

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鳥居と社標。

 

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鳥居。

 

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「牟呂八幡宮
御祭神(略)
由緒
当社は文武天皇元年(六九七)創立と伝えられ従五位牟留天皇を祀っていた。文治二年(一一八六)境内に武神として八幡大菩薩を併祀した。
建久二年(一一九一)鎌倉から八幡神を勧請した。この頃、武家が敬う八幡神が次第に厚い信仰を得ており、遂に貞応元年(一二二二)鎌倉幕府の命により鶴岡八幡宮にならい改装をし、牟呂八幡宮となった。
天文年間(一五三二〜一五五五)に田原城主戸田氏を始め今川氏、池田氏等が社殿を修築し慶長六年(一六〇一)徳川家康公が朱印領四石五斗を寄進された。
元治二年(一八六五)三月十九日、朝廷から正一位の神階を授かったが、明治に入るとこの神階制度はなくなり、新たに郷社に指定された。
昭和二十年の空襲被害により、境内にある社殿はほとんど焼失したが、昭和二十五年に御本殿、昭和三十三年に拝殿が竣工した。昭和五十五年神社本庁より六等級が認証された。」

 

……うむ、「牟留天皇」は置いておこう……。

 

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「牟呂八幡社」って社標が多いですね。
鶴岡八幡宮」からとったので元々は「宮」なのでしょうが、郷社になったところで「社」になったかな。

 

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「牟呂八幡宮の神事相撲を中心とした神幸祭
ここに、「『三河国内神明帳』に記された「従五位牟留天神」」と書かれていますので、先の案内板の「天皇」は書き間違いですね。
相撲を神事にしている例はいろいろと見られますが、それぞれ起源が違っているように思います……江戸期以降に相撲という形に収斂したのかな、と妄想。

 

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参道。
立派な境内を持つ立派な神社。

 

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「ええじゃないか発祥の地の由来
略史
慶応三年(一八六七)七月十四日牟呂村の大西(※牟呂大西町)の多仁郎屋敷に外宮のお札が降って、翌日には近くの天王社に伊雑宮のお札が降った。
牟呂村では相談の結果文政十三年(一八三〇)に行われたお鍬祭にならって二夜三日の祭礼を行うこととなった。大西の総代が箱の中に入れたお札を捧げ持ち牟呂八幡宮へ向かった。村の人たちはお揃いの衣装で「三百年は大豊年」の古歌を歌いながら踊りたわむれた行列は所々で手踊りがあった。牟呂八幡宮ではお鍬様をお祭りし、神事を行った。
社前に幟を立て人々に樽酒をふるまった。集まった大群集(衆)の「三百年は大豊年」の声はお宮の森にこだました。
その後、牟呂村では各社でお札が降ったこれを機に、お札降りにともなうええじゃないか〜のから騒ぎは次第に各地に広がっていった。」

 

「ええじゃないか」……空からいろいろ降ってくるのは、各時代にあったようで、理由もそれぞれ(都市伝説的なものはともかく)あるんだと思いますが、騒擾のきっかけというのは様々ですから、こんなきっかけもあっていい、あ、ええじゃないか、と思います。
思っている「ええじゃないか」とちょっと違いますけれども、最初はちゃんと神事だったのですね。

 

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龍。

 

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狛犬さん。
これは、何系なんでしょうね……正面からと横からで顔の印象が全然違うな、と思います。
撮影角度によるんでしょうが。

 

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小さい狛犬さん。

 

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拝殿を向かって左手から。

 

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「牟呂御霊社」……かな、こちらの狛犬さんでした。
何か、催し物だったかな……テントが張られていますね。

 

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拝殿向かって左手前から。
重厚な造り。

 

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「水神社」。
緑ぃ。

 

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「伊雑社」。
赤ぁ。
奥は「天満宮」。

 

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「牟呂稲荷神社」。
赤だな……朱じゃなくて。

 

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拝殿正面。

 

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拝殿向かって右手の、「砥鹿神社」と「素戔嗚社」。
さすが三河ですね、「砥鹿神社」。

 

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再び参道。
後ろに背負った森もいい感じです。

 

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御朱印

 

さて。

◯こちら===>>>

渥美郡史. 正編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

↑『渥美郡史』をのぞいておきましょうか(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
145コマです。

 

「牟呂八幡社 郡内に残存せる八幡社中、斯かる変遷を現はして居ると思はれるものは、牟呂八幡社である。(略)社伝に、

祭神は誉田和気尊、息気長足姫尊の二柱で、文武天皇元年始めて之れを祀り、文治二年八月佐々木某(一説に佐々木左衛門尉)の知行所たるに依りて社頭営繕を加へられ、貞応元年、鎌倉将軍の命に依り、相州鶴ヶ岡八幡宮の境内を模し、三方大門に三ツ池を掘り、市杵嶋姫尊社、若宮八幡宮、建内社等を勧請し、庄園を寄せらる。

とある。文武天皇に奉祀したと云ふ社伝を事実とすれば、夫れは三河国内神明帳に見えて居る所の牟留天神であるかと思はれる。牟呂は、東海道の所謂旧街道が貫通して、交通の要路に当り、天産も豊富で奈良朝時代より、住民の群棲して居た事は、当時の人の築造した牟呂の大貝塚によつても知る事が出来る。尚奈良朝時代のことではあるが、続日本記、聖武天皇天平十二年六月の條に、牟礼の大野と云ふものと、飽海の古良比と云ふものが共に罪を犯した事が記載してある。斯く早く開けた土地であるから神社の創建も亦早く行はれ、国内神明帳の出来る以前に立派な社殿等も出来、奉祀する住民にも権威あるものがあつたので牟留天神として掲載せられたのであるが、鎌倉時代に至り佐々木氏と云ふ武家の所領となるに及んで、此の牟呂天神の境内に武神として八幡大菩薩を並記するに及び、武家の尊崇する八幡宮が次第に厚き信仰を得る様に傾き、遂に貞応元年には鎌倉鶴ヶ岡八幡宮に模して改造し、祭神にも変化を来す様になつたものではないかと思はれる。当時の遺物として残つて居るものに木彫の懸佛がある(略)。当懸佛は直径一尺三寸の圓板に高さ八寸の阿弥陀如来が蓮座の上に坐し、金色燦爛として眼も眩き程美しい作である。斯かる見事な御正体を奉納した神社であることから考へても其の繁栄を察することは難くないが、尚この外に境内に神宮寺のあつたことも考へられる。現今も神宮寺の址が残存して居り、其の所に古い井戸もある。位置は移転せられてはゐるが神宮寺の鐘楼とも思はるるものが境内に現存してゐる。而し鐘は明治維新頃紛失して今は残つてゐない。
(略)
牟呂八幡宮の神宮寺が何時建てられて何宗の僧が居たかといふやうなことは明かにする資料がないので、今はわからぬが、神宮寺のあつたことだけは遺跡として伝へられてゐる寺址や、鐘楼を以ても察することが出来る。而して神宮寺のあつたといふことは、大きな神社であつたことを考へる資料となるのである。
この外三大門のあつたことや、三つの大鳥居のあつたことも伝へられて居る。今も八幡社から東西南の三大門に通ずる道路が存して居り、幾分原形を破壊せられた部分もあるが、其の両脇には年古りし松の並木が千代の緑をたたへて茂生し、古を語る資料となつて居る。大門のあつた地点も口碑には伝へられて居り、西大門より東大門迄三百十六間を有する。
鳥居に就ては、一の鳥居は海中と称する所に、二の鳥居は宮澤と称する所に、三の鳥居は正面の橋の北詰に建つて居たといふ元禄時代の記録も存して居る。是等の記録遺跡口碑から考へて信を置くに足るべき者と思はれる。
(略)」

 

昔から神社はあったけど、鎌倉時代の「八幡」様大流行りに伴って、「八幡社」になったのではないかな、というお話です。
そんな気がします……が、それでも千年近く前ですからね、しっかり地域に根付いた神社なのだな、と思います。