べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「穴八幡宮」(東京都新宿区)

12/9。
高田馬場で、「むらくる?」が行われたので(?)、行く行くとなりまして、時間ができたので歩いていけるぞ「穴八幡宮へ。

おっと、公式HPがない……。

 

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高田馬場流鏑馬
享保十三年(一七一八)徳川将軍吉宗が世嗣の疱瘡平癒祈願のため、穴八幡神社へ奉納した流鏑馬を起源とし、以来将軍家の厄除けや若君誕生の祝いに高田馬場流鏑馬が奉納された。
明治維新以降中断し、昭和九年に皇太子(現天皇)誕生祝いのため再興され、数回行われたが、戦争のため中断された。昭和三十九年流鏑馬の古式を保存するため、水稲荷神社境内で復活し、昭和五十四年からは都立戸山公園内に会場を移し、毎年十月十日高田馬場流鏑馬保存会により公開されている。
古式豊かで勇壮な高田馬場流鏑馬は、小笠原流によって現在に伝えられており、貴重な伝統行事である。」

 

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鳥居。

 

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流鏑馬の像。

 

 

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由緒書。

 

「《御祭神》応神天皇仲哀天皇神功皇后
康平五年(一〇六二)奥州の乱を鎮圧した源義家八幡太郎)が凱旋の折り、日本武尊の先蹤にならってこの地に兜と太刀を納めて氏神八幡宮を勧請し、永く東北鎮護の社として祀られました。
寛永十八年(一六四一)宮守の庵を造るために南側の山裾を切り開いたところ神穴が出現し、この時期から穴八幡宮と唱えられるようになりました。同年この地に居住していた幕府の祐筆大橋龍慶が方百間の地を献じ、社殿を壮大に造営しました。この頃神木の松から瑞光を放ち、色々奇瑞のあったことが、三代家光将軍の上聞に達し、当社を江戸城北の総鎮護として総営繕を命ぜられました。
慶安元年(一六四八)社殿再興の折に幕府から氏子として牛込郷三十六ヶ町が定められ、翌年の慶安二年(一六四九)社殿を始め数々の殿舎が竣工し、八千八百余坪の境内地に壮麗な建物が櫛比して将軍家祈願所としての規模も整い、以後江戸屈指の大社として重んぜられました。その後も幕府により数次にわたって造営・営繕が行なわれましたが、特に元禄十六年(一七〇三)の造営は、江戸権現造り社殿として壮麗を極めました。
安政元年(一八五四)青山火事のため類焼し、幕府より造営料などが奉納されましたが、幕末の多事と物価高騰のため仮社殿のまま明治維新を迎えました。その後、昭和初年に旧時の盛観に復しましたが、今次大戦により社殿はことごとく罹災しました。しかし戦後はいち早く仮社殿により再興し、その後崇敬者の御芳志により平成元年から慶安・元禄の江戸権現造りの当社設計絵図を基に御本殿御社殿の造営をはじめ、平成十年の随身門竣工をもちまして往時を偲ぶ姿に復し、引き続きその他の再建、また境内の整備に着手し今日に至っています。」

 

『江戸名所図会』は後ほど見ましょうか。

 

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石鳥居からの階段。

 

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随身門と御随身

 

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裏はお馬さん。

 

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「布袋」さん。
江戸城吹上の庭にあったのを移設して、手水鉢にしていたようです。

 

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狛犬さん。

 

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拝殿。

黒漆なのか、渋い感じですね……権現造ならもっと派手派手しくてもよいのでは……本殿はそうなのかな(見えません)。

 

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遠景。
東京にありながら、この角度は高層ビル等が写らない、なかなかのスポットだと思います。

 

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狛犬さん。
こちらは有名でしょうか……いい感じな怪獣具合。

 

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鐘楼かな。

 

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本殿……そんな派手ではなかった。

 

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お隣にある「放生寺」というお寺。
そういえば、お参りはしなかったのか……。

 

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八幡坂、の由来。

 

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御朱印
一陽来復」。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

大日本名所図会. 第2輯第5編 江戸名所図会 第3巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

『江戸名所図会』より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
53コマです。

 

「高田八幡宮
牛込の総鎮守にして、高田にあり。世に穴八幡とよべり。此地を戸塚と云ふ、別当真言宗にして、光松山放生会寺と號す。旧名は威盛院中之坊と唱へしとなり。祭礼は八月十五日にて、放生会あり。旅所は牛込神楽坂の中腹にあり。
社記に云く、寛永十三年丙子、御弓隊の長松平新五左衛門尉源直次に与力の輩、射術練習の為、此地に的山を築き立てらる。八幡宮は源家の宗廟にして、しかも弓矢の守護神なればとて、此地に勧請せん事を謀る。此山に素より古松二株あり。其頃山鳩来つて、日々に此松の枝上に遊ぶを以て霊瑞とし、仮に八幡大神の小祠を営みて、件の松樹を神木とす。(南向亭云く、此地は旧早稲田邑の地中島といふ。此地に青柳津六兵衛といへる富民あり。往古北条氏に仕えし士にて、其人の持伝へし山林にてありしとぞ。)此地昔は阿弥陀山と呼び来りしとなり。されど其所以を知る者なかりしに、同十八年辛巳の夏、中野宝仙寺秀雄法印の会下に、威盛院良昌といへる沙門あり。周防国の産にして、山口八幡の氏人なり。幼くして毛利家の侍榎本氏某に仕へしが、榎本氏没して後、十九歳の年遁世して、高野山に登り、宝性院の法印春山の弟子となり、一紀の行法をとげて二十一歳の時より諸国修行の志を発し、其間さまざまの奇特をあらはせりといふ。依て此沙門を迎えて社僧ならしむ。故に同年の秋八月三日、草庵を結ばんとして山の腰を切り開く時に、ひとつの霊窟を得たり。その窟中石上に、金銅の阿弥陀の霊像一躯たたせ給へり。御長三寸ばかり。八幡宮の本地にて、しかも山の号に相応するを以て奇なりとす。穴八幡の号ここに起れり。其旧址今猶坂の傍にあり。又此日将軍家御令嗣巌有公御誕生ありしかば、衆益其霊威をしる。[江戸名所記]に云ふ、同年八月九日、社頭の繞一町四方に縄張して、其地を開き、本社をば神木の松の本に遷し、八重垣を結ひまはしける。其時加州大守、数百の人歩を贈られ、其地を築き固めしむ。依て日ならず成就し、同十四日遷宮の式を執行す。松平新五左衛門尉、其与力の人々を引供して、的山の辺に幕を張り、式正の小的を建つる。神的は射法なればとて、小池の何某が子十二歳にして是を勤むと云々。其後元禄年間今の如く宮居を御造営ありて、結構備れり。[南向亭茶話]に、巌有公殊に当社を御崇敬あり。御宿願の事満ち給ふの後、当社を営せらる。裏門は内藤豊前守、普賢堂は松平左近将監、御手水垣は、増山兵部少輔等これを寄進すとあり。又[江府神社略記]及び[和漢三才図会]等の書に、元禄年中桂昌院殿御再興ありしと云々。
若宮八幡宮 本社の前、左にあり。
東照大権現 同所に並ばせ給ふ。毎年四月十七日参拝の人多し。
氷室明神祠 本社に相対す。「盛徳」といふ二字を彫りたる額を掲く。祭神大己貴命。元禄二年十二月二十二日、牧村氏直良、十六歳にして疱瘡を患ふ。同三年正月二日、金澤の住人渡辺氏是善、霊夢の応ありて此神を祭る。直良此神に祈願して平兪す。同七年の頃、始てここに鎮座せしむるといひ伝ふ。
光松 別当寺と本社との間、坂の支路にあり。昔の松は延享年間に枯れたりとて、今あるものは後世植え継ぎたる若木なり。南向亭云く、此地昔は松樹繁茂せし山林にて、其中に一株の松あり。暗夜には折として瑞光を現ず。故に其樹を称して光松と云ふとぞ。又寛永十三年始て当社八幡宮勧請の頃此樹上に山鳩来り遊びしと云々。
放生池 石階の下にあり。山の腰より清泉したたりおつ。実に石清水の名に応ずるの奇特といふべし。
出現所 坂の半腹絶壁にそひてあり。往古の霊窟の旧址なり。近頃迄其地に出現堂と名けて、九品仏の中、下品上生の阿弥陀如来の像を安置せし堂宇ありしが、今は見えず。
能舞台址 本社の左の方にあり。今礎を存するのみ。寛延三年庚午三月観世太夫一代能を興行せし跡なりといふ。
抑当社の別当寺を光松山と号くるも、神木の奇特によそへてなり。神と君の道直にして、治る御代の濁なく、石清水の清き誓最も尊くぞ思はれける。殊更元禄の頃御再興ありしより、和光の神徳日々に顕れて昭然たり。」

 

図絵もありまして、重ね合わせると、現代の土地の状況とあまり変わっていないのがわかります。
『江戸名所図会』が妙に持ち上げた感じの記事なのは、将軍家祈願所ですからね……致し方ないかと。

 

(さて、ようやく……2018年の記事が終わりました。実際あまり神社仏閣巡りもできなくなってきているので、2019年の記事ものんびり行きたいと思いますし、途中で城が入ってくる可能性があります)