べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「神明社」(補)

さて。

まずは、神社でいただいたパンフレットより、御祭神を。

 

・本社:天照太神宮:天照大御神
・摂社:豊受太神宮:豊受大御神
末社
・月読社:月読命伊勢神宮別宮月読宮
・風宮:志那津彦命 志那津姫命:伊勢神宮別宮風日祈宮
・切部之王子社:天照大御神 天忍穂耳命 瓊瓊杵命:和歌山県鎮座切目神社
・日之王子社:彦火々出見命 鵜茅葺不合尊:和歌山県鎮座日之王子社
・鹿島社:経津主神 武甕槌命茨城県鎮座鹿島神宮
・雷神社:別雷命 中筒男命京都府鎮座賀茂別雷神社
・白鳥社:日本武尊:東京都鎮座御嶽神社
・火産社:火産霊神静岡県鎮座秋葉神社
・山神社:大山祇命:神奈川県鎮座大山阿付利神社
・山王社:大山咋命滋賀県鎮座日吉大社
厳島社:市杵島姫命:神奈川県鎮座江島神社
・見目社:見目大神:静岡県鎮座白浜神社
天満宮菅原道真朝臣京都府鎮座北野天満宮
・稲荷社:宇迦之御魂神 素戔嗚命京都府鎮座伏見稲荷大社
・水神社:水波能女神 御井

 

御神徳は飛ばしましたが、様々……本社と思われるものがあっても、神奈川県の神社から勧請しているようなお方もいらっしゃる。

 

続いて、

 

◯こちら===>>>

横浜市史稿. 神社編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

横浜市史稿』、ありがとう(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える/カタカナをひらがなに置き換えたところあり)。
260ページです。

 

「三二 神明社
神明社は、保土ヶ谷区神戸下町字宿後五百八十九番地に鎮座する。(略)
天文二十四年の当社縁起に據れば、天禄元年、伊勢大神宮が、武州御厨庄榛谷峯に影向あつて、それから川井へ移り、又二俣川に鎮座し、又更に下保土ヶ谷の宮林と云ふ地に徒つたので、其所の八坂と云ふ地に祀つた。然るに嘉禄元年神託があつて、此神戸の地に神明の下宮を建て、神宮寺を満福寺と名けたと云ふ。まことに信を措くことおん出来ぬふしが多いが、とにかく古社であることは否み難い。天正十八年、徳川氏入国の時、社殿の造営行はれたと云ふが、棟札の最も古いものの中に、元和五年のものがあるよし、風土記稿に見える。今の社殿は、明治二年、明治天皇御東行の時、本陣苅部清兵衛宅に臨時に建てた鳳輦安置所の材を下賜されて修営したものである。明治六年、村社に列せられ、神饌幣帛料供進の神社に指定された。
(略)
史料
[新編武蔵風土記稿]神明社神戸町の内にあり。下岩間町まで大門通れり。今、保土ヶ谷神戸町の鎮守とす。(略)今神主がもとに伝ふる所は、この時始て鎮座なしけるやうにもいへり。もとより天禄の影向と云ものは、いとふるき世の事なれば、果して其実をつたへしにや否を知べからず。祭禮毎年六月十六日、九月十六日。
(略)
末社 五座相殿社。社地に入て左の方にあり、豊受大神宮・日神・天神・切部・見目の五座の神を祀れり。
四座相殿社。本社の左の方にあり、月神・雨神・風神・山神等の四座を祀れり。
御嶽社。社の後方にあり。
(略)
武蔵国榛谷御厨庄之内
神戸神明濫觴之事。
抑当宮之開起者、天禄元年庚午、伊勢天照皇大神宮飛来給、武州御厨谷庄之内、榛谷之峯影向、従其川井、有御飛従川井、又二俣川御移、御座所仮宿云。従二俣川、又下保土谷宮林云所、御影移給間、同所八坂云所奉祝、二成暫住給。然嘉禄元年乙酉、或少女託宣、吾出法性真如都、仮交分段同居之塵以降、垂一天四海跡和率土萬國光中、猶今、当国当郡和光同塵、守護一切衆生生晝夜思也。我得鎮座云。其時彼少女之云、目顔浄布懸言御託宣云、

伊勢の神ここに飛くるしるしにはうつす御影ををかめもろ人

少女様々自託給、時天光物飛散、雷電鳴渡、今二成奉崇神明、御伊勢御正体申。下宮造、在所、号神戸神宮寺名満福寺、経蔵堂称神照寺、弘法大師御作之愛染明王今御座。是則顕深之本地給者歟。末社、雨宮・風三郎殿・切辺之王子・日王子・高根明神・稲荷・天神・山王・見目等也。倩見此地形體、伊勢国度会郡御本社之霊地少不違。先有高間原。是宮云宮川、是神戸川云。有五十鈴川、是小帷子川云。有御裳濯川、爰古部川云。有大湊、爰神奈川前云。有二見浦、爰宮崎云。有大橋、爰小帷子橋云。有宇治橋、爰神戸橋云。其外、外宮・内宮、山田・三方・宇治・朝熊嶽之景地相似。肆法企之勧請成。自然之宮立質也。依之武蔵二十四郡之内、十郡之守護神別者、御厨谷八郷之鎮守也。爰以昔年七十五度有祭祀田。此外五度之御供免一二三四之有禰宜。有神主、有八乙女、二十五人之有社人、六口之有供僧巫女。斯上代雖美々敷、今神領被収間、其形計也。加様之旨趣、(略)」

 

『新編武蔵風土記稿』に掲載されていた伝承が、最後の部分です。

神がかるのは乙女、と相場が決まっているのでまぁいいとしまして、どうやらこの「神明社」の辺りが伊勢に似ているのだ、ということが述べられておりまして、正当性を説明している、ということでしょうか。

ちょっと無理ないかな……と思ったりします(現代、そのような説が無視されているのはそのためでしょうか)。

あるいは、パンフレットによれば、

 

「◼︎本居宣長神明社
当神社の江戸時代の神主岡田刑部は、国学者本居宣長と姻戚関係にありました。刑部の孫娘りゅうが宣長の次男恭次郎に嫁いだことから、折々の書簡が残され、その多くが本居宣長全集に収められています。」

 

とありますので、ここからの入れ知恵だったりするのかもしれません。

こうした牽強付会がなくとも、平安時代には「伊勢神宮」の神領だったようです。

いずれ、古い「神明社」であることには間違いないでしょう。

 

 

ふう、考察も何もない。