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闇の宴が無事終わりまして、大宮の「氷川神社」を参拝後、「調神社」へ。
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社標と、兎……。
参道入口。
「由緒 畧記
当社は天照大御神、豊宇気姫命、素盞嗚尊の三柱を祭神とする 延喜式内の古社にして古より朝廷および武門の崇敬篤く調宮縁起によれば第九代開化天皇乙酉三月所祭奉幣の社として創建され第十代崇神天皇の勅命により神宮斎主倭姫命が参向此の清らかな地を選び神宮に献る調物を納める御倉を建てられ武総野の初穂米調集納蒼運搬所を定めらる、倭姫命の御伝により御倉より調物斉清の為め当社に搬入する妨げとなる為、鳥居、門を取拂はれたる事が起因となり現今に到る。」
……さて、伝説ですからどの程度かは不明ですが、元々「伊勢神宮」の神戸だった、ということでしょうか。
鳥居も門もないのは、貢物を通すのに邪魔だった、と現実的な理由が伝わっているのは面白いです。
文化財。
拝殿です。
彫刻が立派……立川流かな……。
お賽銭箱。
天水桶。
小さな狛犬さん。
木鼻。
獅子がくわえているのは牡丹でしょうか……こういう、宗教美術のお約束、というのが今ひとつ理解できていないもので……。
兎さん発見。
こっちは玉、かな。
うーん、「三尾神社」がかぶるなぁ……。
立派。
別角度。
虹梁の基部にも獅子か狛犬さんがいらっしゃって、素敵。
細かいなぁ。
天水桶再び。
拝殿遠景。
裏手のほうに池があるのですが、そこに旧社殿があります。
覆屋付きで、黒漆(っぽいけどどうかな)に極彩色……彩色は再現なのか。
今の本殿も、兎だらけなのでしょうか……。
池にも兎が……いや、兎は水吐かないでしょ……。
「調宮天神社」。
先代の狛兎さん。
手水場にいた兎さん……「深きものども」にしか見えない……。
で、手水舎の彫刻がまた素晴らしく……ううん、麒麟なのか、龍馬なのか、応龍なのか、私には今ひとつわからず……。
もう完全に「深きものども」だ……。
狛犬さんが、彫りが深くて渋い……。
こっちには、贔屓かな……。
影の具合が素敵な感じになりました。
ちょっと壊れてるのが残念だ……。
参道入口の兎さんを、できるだけアップで。
……これは、裏手から本殿を狙ったんだっけな……。
おまけ。
すぐ近くにある「第六天神社」。
御祭神は「面足命」「吾屋惶根命」であるのは、「第六天神社」なのでまあいいのですが、「面足命」の別名「穂千田比古命」とか、その御子神の「倉平顔比古命」、「金子甘美金希代命」とかって、何なんでしょう……少なくとも記紀神話では聞いたことないですし、『先代旧事本紀』『古語拾遺』にもなかったんじゃないかなと……独自の伝承でしょうか(検索すればわかるのか……まあいいや)。
御朱印。
さて。
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式内社ですので、とりあえず『神社覈録』を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
43コマです。
「調神社
(略)◯祭神瀬織津姫命(略)○中仙道浦和駅に在す(略)、○惣国風土記七十七残缼云、武蔵国足立郡調神社、神田六十束二宇田、稚日本根子彦太日天皇乙酉三月、所祭瀬織津比咩也、有神戸巫戸。」
ふむ……祭神は「瀬織津姫命」……。
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『特選神名牒』はいかがか。
212コマです。
「調神社
祭神 天照大御神 宇賀御玉神
今按本社社記に伊勢大御神の末社に調御倉社ありて祀る神を稲倉魂命とあるを思ふに古へ国々に大御神の御戸代盛なりし程その御調の初穂をとり収むる御倉なりしが後に社となりけん故に大御神と宇賀之御魂命を祭れるならんと云るが如くなるべし故今之に従へり土俗に調をつきとよむより月神とし二十三夜など云ふはいみじき誤りにて取にたらす
(略)
今按武蔵演露浦和駅下に月読大明神社浦和領岸村浦和宿鎮守二十三夜堂あり調大明神とも云とあり」
……むぅ……。
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大日本地誌大系. 第11巻 風土記稿7 - 国立国会図書館デジタルコレクション
『新編武蔵風土記稿』ではいかがか。
130コマです。
「調神社 社領七石を賜ふ、当社は【延喜式】神名帳に足立郷調神社と載る所なりと云、されど祭神等すべて伝ふる所詳ならず、按に【武蔵風土記】にも足立郡大調郷、或は大都畿調神社、神田六十束、二字田稚日本根子彦大日天皇、乙酉三月所祭瀬織津比咩也、有神部巫戸と載たるもの全く当社の事と見ゆ、されど此風土記は後人の擬書なる由言伝れば、正しとも言がたし、又土人の此辺の事跡を記せしものに、当社は日の神倉稲荷玉命の二座を祭る所にして、延元二年二月五日、那賀郡廣木村吉原の城主、色大興寺入道範行と云し人再興して、神田五邑を附せしなど載たれど、此一色範行と云もの他に所見なし、ことに延元の頃再興せしと云るも、式社のことをわきまへざる書ぶりなり、がたがたうけがたし、又云其後貞和観応の頃兵火にかかりて社頭破壊せしを、康暦年中佐々木近江守持清又再造せしが、それも両上杉戦争の地となり、次第に衰廃せしを小田原北条分国の時に再興ありしと記す、されどみな左證とすべきものなし、たとへ證すべきことありとも、是を以て式社の興廃を知るには足べからず、殊に別当寺にては、近き頃まで月輪を祀りし社とのみ伝へたれば、古を知らざるもの附会せしなるべし、調の字の訓月に同じければ、後世月待の宮として、又愚民の信を取んがためにかく唱へしなるべし、今を以て考ふるに、当社の外此郡中調神社の名残と覚しきもの更になし、目撃する所を以てへを推に足らざれど、社地のさまいかにも神さび、数園の樹木枯株などのとこせるを見れば、古社なる事は論なかるべし、今は社人も調の社といへば、恐らくは古へに復せしなるべし、 末社、石神社(稲荷を合祀せり)、蔵王社(是も熊野を合殿とす)、稲荷社、第六天社、別棟、月山寺(新義真言宗、浦和宿玉蔵院末也、本尊愛染を安ず、開山詳ならず、昔は福寿寺にて当社を兼帯し、爰には庵を置て守らしめしを、後年一寺となして、月山寺と號すと云り」
んん……。
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↑『浦和案内』という本の30コマに、『江戸名所図絵』の引用がありまして(うーん、見つけられなかった)、そこでは「月読命」が御祭神となっています。
「調」の御倉だったものが、いつのまにか神社となったのはまあいいとして、だからといって「天照大御神」を祀るのかというと何か違う感じがしますし、「つき」という読みから「月読命」が御祭神になったのは信仰上は間違っていたとしても本地垂跡とかいってたわけなのでさもありなんです、そこから引っ張られて兎、というのも……比較的新しいのか、いやいや「金烏玉兎」ですから月に兎自体は大陸でわりと古い考え方なのでまあよし、で「瀬織津姫命」……どうしてまた「祓戸大神」がここに、という感じですよね……社領がもっと広くて、もっと近くを荒川が流れていたのか……。
何にしろ、昔から結構人気スポットだったっぽいですし、訪れたときも賑わっていましたし(七五三か……)、いやよい神社でしたよ〜。
あ、あと兎の神社といえば、
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「三尾神社」〜近江めぐり〜 - べにーのGinger Booker Club
「菟足神社」(豊川市)〜高速初詣三河編〜 - べにーのGinger Booker Club
↑こんなところもありますので〜。