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べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「三尾神社」〜近江めぐり〜

4/30。

三井寺」をしっぽり堪能し、この時期の神社仏閣めぐりが気候的には一番だなぁと思いつつ、歩くのにしんどくなっている……。

というわけで、「三井寺」の近く(ほぼ境内)にある「三尾神社」へ。

 

○こちら===>>>

www.shiga-jinjacho.jp

 

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唐門だったんでしょうか……破風だけが残った感じにも見えます。

 

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手水場横の灯篭。

根元にウサギさん。

 

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手水鉢にもウサギさんが……荒波を乗り越えて、な造形。

 

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拝殿と本殿。

お祭りの準備がされていた……んだったと思います。

 

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本殿。

勇壮な流造の美しい社殿ですね。

 

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「三尾神社と「うさぎ」の由来

三尾明神が太古、卯の年・卯の月・卯の日・卯の刻・卯の方より出現されたという言い伝えにより昔から「うさぎ」が神様のお使いとされている。それ故御神紋は「真向きのうさぎ」とされ、卯年生れの方の守り神としてあがめられている。」

 

なるほど。

まあ、「太古」といいながら「卯の〜」ですから、少なくとも大陸から方位などが伝わったあとの話だとわかります。

あるいは、もともと「うさぎ」の神様だったのが、大陸から方位などが伝わることで、韓連付けられたのかもしれません。

 

以下、境内社を。

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本殿すぐ右隣に、「日御前神社」。

「子授け・安産・夏虫の神」、です。

御神紋は、「へちま」かな。

神社でいただいた由緒書きによると、

 

「一、朝瓜祭 七月二十二日、二十三日

日御前神社の例祭で天武天皇の長子、大津皇子第三の姫宮瓜生姫の御創建で、もと中保町に鎮座のところ、明治四十四年三尾神社の境内に移し、末社とした。姫宮信仰の瑞験あらたかな神霊石があり子供の病気(夜泣き、かんむし)安産・縁結びに霊験があるので遠方よりの参拝者が多く、神霊石が朝瓜の形をしているところから、参拝者は朝瓜に子供の名前を書いてお供えする風習があるので、朝瓜祭と称する。」

 

だそうです。

 

 

 

 

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その右手、社殿に向かって立っています。

白髭神社」「夷子神社」。

 

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天満宮」。

 

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白山神社」「愛宕神社」。

 

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門の近くにあります、案内の碑。

 

「三尾神社

御祭神 伊弉諾尊いざなぎのみこと

例大祭 五月二日

渡御祭 五月三日

御由緒

当社は太古伊弉諾尊がこの地に降臨され長等山の地主神として鎮座されたのを創始とする。

この神は常に赤・白・黒の三帯を着しその形が三つ尾をひくのに似ているところから三尾明神と申しあげる 貞観元年(八五九)園城寺の開祖智証大師が琴緒谷に社殿を復興され爾来朝野の篤い崇敬をうける 應永年間足利将軍現存の本社を再興し慶長年間豊臣秀吉も社殿を修理し社領を寄進する等広く世に崇敬されてきた 明治九年本社を琴緒谷(上の三尾)から現在地に遷し奉り今に至る 明治二十二年内務省古社保存資金下賜明治四十三年県社に昇格している

御神紋 真向きの兎」

 

おっと、元は別の場所にあったのが、明治9年に遷されたようです。

 

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本殿左手に、「阪下茂畑稲荷神社」。

 

で、最初に入ってきた門を出ますと、

 

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神楽殿、でしょうか。

御神紋のウサギさんの目が怖い……(幟の方のウサギさんはそうでもないのに……)。

 

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神楽殿(と思しき建物)からさらに離れて、鳥居があります。

鳥居からの敷石がまっすぐ、門に向かっているのが……拡大していただくとわかると思います。

明治のときにお遷りいただいたようですが、現在地に無理やりはめ込んだのか、それ以降の道路開発などで変な感じになってしまったのか……。

その辺りはよくわかりません。

 

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卯年なもので、御利益あるかな。

 

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合わせて「蝉丸神社」の御朱印もいただけるのですが……時間的に「蝉丸神社」まで行けませんでした……近いうちにご参拝できればと思っています(汗)。

 

さて。

 

東海道名所図会〈上〉京都・近江・伊勢編 (新訂 日本名所図会集)

東海道名所図会〈上〉京都・近江・伊勢編 (新訂 日本名所図会集)

 

 

↑こちらから引用してみたいと思います(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯 第7編

 

国会図書館デジタルコレクションの場合はこちら。

 

P80(デジタルコレクションは、51コマ)に、「三井寺」の図絵が掲載されています。

その中で「三尾社」は、今の「観音堂」のさらに上にあったようです。

P82より、

 

「三尾明神社
南院琴緒谷にあり。五社鎮守のその一なり。長等南院の地主神(土地の守護神)なり。例祭三月中の卯の日。神輿三基。本地堂には普賢菩薩を安ず。祭神赤尾・白尾・黒尾の神なり。赤尾を本神とす。この鎮座は太古にして知る人なし。白尾は大宝年中(七〇一ー〇四)に現じ黒尾は神護景雲三年(七六九)三月十四日、湖水より現ず。その古跡を大波止という。社伝にいわく、「赤尾天照大神、黒尾新羅太神、白尾白山権現。」

 

記事としては「園城寺」の中に組み込まれています(三井寺五社鎮守の一つなので致し方ないかと)。

東海道名所図会』では、御祭神は「伊弉諾尊」となっておらず、単に「祭神赤尾・白尾・黒尾の神」ですが、神社の由緒は「三井寺」の『寺門伝記』(補録第五・三尾明神祠)によっているようなので、「三尾明神」=「伊弉諾尊」という図式が元からあったのかもしれません。

それよりは、明治の廃仏毀釈で組み込まれたという可能性もありそうです。

何しろ、「赤尾を本神とす」「白尾は大宝年中に現じ」「黒尾は神護景雲三年三月十四日、湖水より現ず」で、しかも「赤尾天照大神、黒尾新羅太神、白尾白山権現ですから。

伊弉諾尊」の「イ」の字も見当たりません。

しかも「赤尾」「白尾」「黒尾」という名前のつけ方からして、陰陽五行説の匂いがプンプンします(「青尾」がいないのがなぜなのか……)。

このあたりは、吉野裕子氏に解釈していただきたいと思うのですが……。

ともかく、「三尾明神」は、もともとこの辺りの山の地主神で、社伝によれば、「智証大師」が「再興」しているということから、一度は廃れてしまったと考えられます。

それを復興して、地主神として山奥(奥の院)にお祀りする、地主神と共存していこう、という姿勢は、当時の仏教者には共通の認識だったように思われます。

 

ところで、「ウサギ」といえば、

 

○こちら===>>>

「宇治神社」「宇治上神社」(考々) - べにーのGinger Booker Club

 

↑「菟道稚郎子」は、「ウサギ」と関係が深かったようです(伝承だけですけれども)。

「宇治」から琵琶湖へは宇治川を遡れば到着しますし、「菟道稚郎子」と関係する「ウサギ」は、「三尾明神」と何か結びつくのでしょうか?

 

 

 

いかん、何も思いつかん(震)。

 

 

 

天智天皇」のときに、都から近江に向かって移動したのは「ネズミ」だしなぁ……やっぱりこの辺りは、陰陽五行説が絡んでくるような気がしています(私には無理です……)。

あと、滋賀県神社庁のHPによれば、

 

「又「寺門伝記」補録に、三尾明神と長谷寺縁起との関連も記されている。その部分を引用すると、近江国高島郡に神有り、三尾明神と号す。名神官社なり。その所を名付けて三尾が崎という。養老年間に道明、徳道の二僧あり。始めて長谷寺の観音像をつくる。その像材は近江国高島郡三尾が崎より流出す。漂ふて大津の浜に至る時、材木の上に三つの小蛇ありしが忽然とはい出て陸に上り西の山を望んでいる。これ即ち三尾明神なり」。とある。この故事により、毎年一月わらで蛇形をつくり悪疫退散を祈る蛇打ちの神事がある。」

 

という伝承があるそうです。

近江国高島郡」というのは、今の滋賀県高島市の辺りのことだと思います。

三井寺」よりは北にありますが、同じ湖西地方です。

 

 

日本書紀〈3〉 (岩波文庫)

日本書紀〈3〉 (岩波文庫)

 

 

↑継体紀によれば、

 

天皇の父、振媛が顔容姝姝しくして甚だ媺色有りといふことを聞きて、近江国の高嶋郡の三尾の別業より、使を遣して」(p162)

 

とあり、「継体天皇」の父(「彦主人王」)が三尾の別業」……「三尾にある別邸」くらいの意味だと考えられています……を所有していたようです。

「三尾」、「三国」という豪族は、越前国を中心とした勢力だったようですが、それが湖西に移動してきたのが「三尾」氏族だったのか(つまり、「継体天皇」の父の一族として中央に進出したのか)、元々「三尾」氏族がいたところを「継体天皇」の父の一族が支配(征服)したのか、よくわかっていません(「継体天皇」自体で本が何冊も書けてしまうので、これ以上は言いますまい)。

滋賀県神社庁による『寺門伝記』の引用部分、

 

近江国高島郡に神有り、三尾明神と号す。名神官社なり。その所を名付けて三尾が崎という。養老年間に道明、徳道の二僧あり。始めて長谷寺の観音像をつくる。その像材は近江国高島郡三尾が崎より流出す。漂ふて大津の浜に至る時、材木の上に三つの小蛇ありしが忽然とはい出て陸に上り西の山を望んでいる。これ即ち三尾明神なり」

 

↑については、

 

○こちら===>>>

www.shiga-jinjacho.jp

 

↑「水尾(みお)神社」が高島市にあり、式内社に比定されています。

高島にも大津にも「三尾明神」があったのか、元々は高島にあったものを「智証大師」が勧請して地主神としたのか。

日本書紀』の記述から、その書かれた当時、すでに高島には「彦主人王」を祖先とする「三尾」氏族の拠点があったことは知られており、翻って大津に関してはそういった情報はないようです。

高島の「三尾」氏族が、高島を中心に湖西地方一帯を支配下に収めていたが、その勢力は衰退し高島にとどまる、一方で大津辺りには天皇家が幾度か都を置いており、「天智天皇」の御代がその最盛期。

その後、都の中心は奈良〜京都に移り、京都の鬼門で大津からも登れる比叡山には「延暦寺」が成立。

大津の「三井寺」は衰退しており、「智証大師」が再興するにあたって、比叡山の地主神である「日吉大社」を持ってくるわけにもいかず、高島の「三尾明神」を持ってきた……と考えることもできます。

「三尾」氏族が衰退したのは、琵琶湖から北陸へのルート(交易路)が、瀬戸内海ルートに移行していったからでしょうか。

うーん……。

 

考えても、なぜ「三尾明神」の神使が「ウサギ」なのかがよくわかりません。

『寺門伝記』であれば、「ヘビ」でもおかしくないですし(とはいえ、こちらは「三尾」という地名と、水上に流れ着いた=水神という連想での「ヘビ」かもしれないですが)。

天智天皇」の頃の、「ネズミ」でもいいと思います。

やっぱり陰陽五行かな……。