べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「油日神社」(補)

さて。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 県社油日神社誌

 

『県社油日神社誌』という、ありがたい文献を発見(他のは探していない)。

これからまいりましょう(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

まずは、7ページ。

 

「第二 祭神
祭神は油日神にまします。後世、油日明神、又は油日大明神とも称す。
三代実録三十二云、油日神。
式外神名考巻下云、今有三社、本宮油日明神。
伊水温故云、三社 本社 油日大明神。
伊賀國誌考巻一云、三社 本社 油日大明神。
然れども、其の何神に在らせらるるかを詳かにせず。蓋、按ずるに、油日大明神縁起を始め、油日神社濫觴記、及淡海地志、近江國與地志略等引く所の縁起には、皆斉しく当社祭神は、元と油日嶽に鎮座あらせられ、其号を通山大明神とし奉れりと記し、又古来、油日嶽山頂に、岳大明神を奉斎し、毎歳、八月十一日夕より、七ケ村の氏子、同社に参籠の事ある等を総合すれば、当社祭神は油日嶽に鎮座あらせられし山神に在らせられ、油日神と称するは油日嶽に鎮座す神なるが故なるべし。然るに縁起等に、天元若しくは天延年間、油日嶽山頂に油火の如き火顕はれしより、号を改めて油火大明神と称し、後に火を日とせりと称するは、油日の文字より附会せる説にして信じ難し。

近江國與地志略巻五十三云、天延三年、嶽上に大光明ある故、始めて油日の神号を奉るのよし、笑に堪たり。 三代実録曰、元慶元年十二月三日己巳、授近江國正六位上油日神従五位下云々。 元慶は人皇五十七代陽成天皇の年号なり。 天延は人皇十四代円融天皇の年号なり。 元慶元年と天延三年とは、九十七年違へり。 淡海録また此略記を以て正説とす。 謬れりと云ふべし。○中略 嗚呼社僧金剛寺の略記、虚偽人をまとはすこと甚し。

伝云ふ、初め通山大明神と称せりと。

油日大明神縁起云、太子○聖徳太子 此神可奉名通山大明神宣。 此神悦気色。
淡海地誌巻十二云、甲賀郡谷油日大明神 初曰通山大明神

江州甲賀郡油日大明神縁起○中略
用明天皇之皇子聖徳太子 ○中略 曰、霊ナリ、的哉、号曰通山大明神

其他社蔵の宝暦卯九年九月及十月の文書に、「旧号通山大明神トモ云」と見え、近江國與地志略巻五十二等にも、太子貴敬而宣、奉号通山大明神」と見えたり。但、油日大明神縁起に見えたる内保と同名なる伊賀國阿拝郡内保に鎮座あらせらるる宇都可神社も亦通山大明神と称す。

伊水温故云、通山大明神と称す。 伊賀に十五座宇都可社、縁起有秘事、仍不審。宇都賀を内保と謬たる也。

伊賀國誌云、通山大明神有内保村 神名帳に宇都可神社と云也。

其他神名帳考証等にも、「宇都可神社 ○中略 [伊考]在内保村、云通山社」と見えたり。蓋、此の間何等の関係あるにあらざるか、後考を俟つ。 
然るに、近世大山咋命和子姫二座とす。

近江輿地志略巻五十三云、油日大明神 ○中略 当社に祭る神体未詳と雖も、尾張風土記を按ずるに、海部郡雪田山西え傍有神、号油日宮、大山咋神子和子姫也云々、是れを以て考ふれば、当社も亦大山咋神と和子姫なるとにや。

琵琶湖志云、油日明神 ○中略 祭所大山咋神和子姫二座也と云。

然れども、近江國輿地志略は尾張風土記に據りたるものにして、琵琶湖志は輿地志略に憑據せるものなるべし。 而して近江國輿地志略の據れる尾張風土記は、日本総国風土記に収めたる偽書なれば憑據し難し。 しかも風土記の云ふ所の雪田山及油日宮、古来海部郡内にありしと云ふに於てをや。 当社社司瀬古氏、嘗て、此事に関し書を熱田神宮に致せるに、同宮政所庶務係よりの返事に、

客月廿三日、御中越之旨に付、取調方被申付候、海部郡は、現今、海東、海西の二郡ニ相分レ候ヘドモ、郡名ノ如クニテ、山嶽等更ニ無之、平面之田畑ノミニ候。 偽作ノ風土記ニ、良材ヲ出シ、禽獣多シナドアルハ、実地ヲ知ラザル者ノ説ト存候、○中略
明治四十年六月九日

と、同月十七日、更に同宮より瀬古氏に書を贈りて

海部郡に油日ノ社ナク、地名モナシ。 同郡ハ平面ノ田畑ノミニテ、素ヨリ山林ハナシ。

と云へり。
明治維新以後、更に道臣命天忍日命、樴取姫の三座なりとせり。
明治七年十二月川枯神社取調帖云、

一祭神三座 天忍日命 道臣命、樴取女

蓋、古来この三神を以て当社祭神とすること曾て所見なし。 然るに明治の初に至り、突如としてこの三神を以て当社祭神とせるは其の據るところ詳ならざれど、此地の旧家に甲賀武士と称する某家あり、諸社宝蔵の鍵を預る。 其の蔵する所の系図、家祖を道臣命とせり。
ここに明治維新の際当社祭神詳ならざるに乗じ、かねて鎮祭の神像三軀を以て其の祖三座に充て、古来の縁起に道臣命を加へ、新に、社伝を撰して命神邑仁天神崩玉比則御嶽乃麓字風呂止云地仁葬留、と記したり。 然るに明治十八年四月に至り、滋賀県甲賀郡役所より、内務省社寺局長より照会ありたりとて、取調帖載する所の道臣命の墳墓見取図及地名古記等提出方を、当村に命じたり。 是に於て、村民倉皇、社頭を去る一町許の地に、墳墓の形を存するものあるをそれとなし、上申せりと。 蓋 当社祭神を天忍日命道臣命樴取女の三座とすることは、某の家祖を道臣命とするに起因せるものなるべし。 但、維新匇々の際、偶々此挙に出でたるものにて、敢て神威を褻瀆し奉らんとにはあらざりけらしと雖も、爾来幾十年、世運は長足の進歩をなして、百事明かになりては、斯くてあることの畏こさに禁へず。 向に漫然之を容認したる者も、心自ら平なる能はずして、祭神訂正の議起り、遂に大正元年十月十四日を以て其筋に出願せしに、翌二年二月五日に至り、左記指令の如く許可なりぬ。 即ち国史典籍の明徴ある古ふ復りたるなり。(略)」

 

長く引用しましたが、「油日神」がなんなのかはさっぱりわからないようです。

「油」という言葉がいつから使われていたのか、語源的に「あぶる」や「あふる(る)」から出ているのであれば古そうな気がしますが、それにしたって「油」「日」という用字がなかなかな謎。

とはいえ、『日本三代実録』には「油日神」とあるのですから、1000年以上続く呼称ではあると。

むーん……何かしら「あぶらひ」「あふらひ」といった言葉に当て字をした、と考えるのがいいのかな……元の言葉が何かはさっぱりわかりません。

謎。

聖徳太子」絡みで「通山大明神」というのも言われていますが、「油日」と全く通じない……「とおりやま」なのか「とおしやま」なのか……「あふらひ」が「往来」のことだと何となく近づきそう……「蟻通明神」っていらっしゃいますよね確か、その辺りと関係あったりするのかな……まあ後世の附会でしょうけれど。

面白いのは、『尾張風土記』に、海部郡に「油日宮」があるよって書かれてるけど、「熱田神宮」に問い合わせたら、「んなもんねえよ、『日本總国風土記』って偽書だろ」とばっさりやられているところでしょうか。

確かに、そんな神社があれば、愛知県でも話題になっているでしょうしね。

続いて、108ページより、

 

「第十二 末社並境内神社
末社に白鬚、岳の二社あり。 古来本社の相殿の神にして、今共に無格社たり。 白鬚神社は、古来今の地、即ち当村字岡崎に鎮座あらせられ、祭神は猿田彦命に坐す。 古来白鬚明神とも白鬚大明神とも称し、社号を白鬚神社といふ。 別に西の宮の号あり。 蓋、当社ノ西にあるを以てなるべし。 又奥院とも白髭大明神者とも、西宮白髭大明神とも号せり。(略)維新以前奉安する所の御神体三躯、並に木像坐體にあらせらる。 皆奈良朝時代の服装にして、中は男神、丈一尺二寸、幅五寸四分、左は女神、丈九寸五分、幅五寸、 右は姫神、丈四寸五分、幅二寸七分、元と当社に奉安の神体より古し。 創立年月詳かならず。 但、当社と其の創立を同じうすとも、其の以前なりとも称す。(略)
岳神社は、古来の地、即ち油日嶽山頂に鎮坐あらせらる。 祭神詳かならず。 但、伊水温故、伊賀国誌、式外神名考は岳(タケ)大明神と記し、年中行事は、社号龍王社又は嶽善女龍王社と記せしが、明治七年の当社取調帳には、於山頭龍神小社祭神大綿津見神と記し、今、罔象女命とせり。 按ずるに、維新後、或ハ大綿津見神と称し、或は罔象女命と称するは、維新前龍王社又は嶽善女龍王社と称せるに憑據せるものなるべく、龍王社又は嶽善女龍王社と称せるは、油日大明神縁起、油日神社濫觴記等に、円融天皇の御宇、此地に大蛇あり、住民を悩ます。 時に橘敏保、勅を奉して之れを討つと見えたる縁起より称せる社号なるべし。 而して伊水温故、伊賀国誌及式外神名考等に称する岳大明神の神号の由来詳ならずといへども、恐らくは古来の称ならんか。 そは罔象神社は、年中行事に、西宮と同一に、特に一項を設け、其項に、管理寺院、宮守、例祭日及境内の除地たること、当社を称して大宮と称すること見え、別項に龍王社神主と見え、又伊水温故等に油日大明神三社の一として記し、又鎮座地、当社を距る一里餘なる事等よりいへば、西宮と同一に当社の末社と称せざるべからざるにも係らず、末社と称せられずして、年中行事油日大明神社の項に、境内社として記されたる事、及同じく年中行事に八月十一日の夜、七ヶ村の氏子山頂に至りて参籠、若し雨天なれば当社に参籠の事見えたる、其他当社縁起が、当社の創始、祭神を山中に祭り、後ち社殿を麓に建立せりと見えたる事等を合せ考ふるに、岳神社は、当社の元宮にして、祭神は油日嶽に鎮座あらせらるる山神にあらせられざるか。 果して然りとせば、彼の末社と称せざる理由、嶽参籠に際し雨天なれば、当社に参籠の理由、及当社が油日嶽の麓に在るの理由釈然たるべし。 殊に伊水温故等が伝へたる神号、即ち油日又は其他の名称を冠せずして、単に岳大明神と称する神号の由来釈然たるべし。社号其の始めを詳かにせずといへども、近世龍王社、委しくは嶽善女龍王社と称せしが、明治十二年神社明細帳編製の際、罔象神社とし、爾来かく呼び来りしを、同四十四年九月二十五日許可を得て、岳神社の旧に復せり。 創立年月詳ならず。 但、当社と創立殆んど同じかりしなるべし。 境内は油日嶽の山頂たり。 油日嶽は、油日村の東に在り、一に東山と称す。(略)」

 

ということで、相殿の「猿田彦」と「罔象女神」が謎だったのですが、「白鬚明神」「岳明神」のことだったようです。

「白鬚神社」が「猿田彦神」なのはまあいいですし、「岳神社」が蛇体の神で、一旦は「善女龍王」ってことになったけど、神仏分離の辺りで「罔象女神」になった、というのもわかります。

「善女龍王」は、

 

密教辞典

密教辞典

 

 

↑より、

 

空海神泉苑で請雨修法の際に応現したと伝える龍王の名で、経軌に見えず、御遺告に、もとインドの無熱達池に住み、害を加えず真言の奥義を敬って出現した8寸(2.5cm)の金色蛇で9尺(3m弱)の蛇の頂上にいると。(略)」(p439)

 

ということで、密教系でよく出現する、どこが由来かわからない神の一つのようです(「赤山明神」とか「新羅明神」とか)。

雨乞いにはやっぱり龍(蛇)ってことなのでしょう。

甲賀郡だし、「甲賀三郎」と絡んでいたら面白いんですけれども。

その他、辺りの神社を習合した「八幡神社」、大字瀧字檜尾谷に鎮座していた「常松神社」のことが書かれています。

 

それから、70ページより、

 

「第九 社殿
社殿及附属建物は、今、本殿(三間社切妻造縋リ破風造檜材屋根檜皮葺、九坪)、神門(入母屋一ト軒造檜材屋根檜皮葺二坪四合九勺)、瑞垣(略)、拝殿(入母屋二軒唐破風造檜材檜皮葺、九坪)、楼門(略)、廻廊(略)、寶庫(略)、社務所(略)、神輿庫(略)、水舎(略)、鳥居(略)、制札場(略)、制札(略)あり。但、維新前の社殿及建物は年中行事に、拝殿・護摩堂・八講堂・寶蔵・鐘楼・楼門・回廊・御輿庫・神楽所・華表と見えたり。」

 

維新前の社殿のことが書かれています。

図絵がないのが残念。

 

というわけで、何もわからないままに終わりますが、きっと考察していらっしゃる方も見えるでしょうから、文献を探してみようと思います。

とにかく、神社の様子が素晴らしいので、機会があれば是非とも。