8/13。
さて、もういい加減一年遅れの記事を書くのがしんどくなってきましたが、「橘樹神社」をあとにしまして、「神明社」へ向かいました。
◯こちら===>>>
鳥居。
今から一千年以上昔、保土ヶ谷の地が榛谷(はんがや)とよばれていた平安時代の中頃、天禄元年(九七〇)当社の御祭神・伊勢の天照大御神が、武州御厨の庄の内、榛谷の峯に影向し、それから川井・二俣川・下保土ヶ谷の宮林へと三遷の後、嘉禄元年(一二二五)神託があって、神明の下宮を建て、当地を神戸と号し、神宮寺を満福寺と名付け、経蔵堂を神照寺と称したという。これにより榛谷御厨八郷の総鎮守として広大な社領を免ぜられ、宮司以下数十人の禰宜・社人・供僧・巫女が仕え、年に七十五度の祭祀を営み隆盛を極めたという。
その後、戦乱の時代に一時衰退したが、天正十八年(一五九〇)徳川氏入国の時、社殿の造営が行われ、御朱印地が安堵された。また元和五年(一六一九)宮居を神戸山々頂から現在の処に遷し、社殿の造営、社頭の整備が行われた。明治二年の修営時には、明治天皇御東行の時、本陣苅部清兵衛宅に臨時に建てられた鳳輦安置所の御用材を下賜された。明治六年村社に列せられ、神饌幣帛供進の神社に指定された。
平成十年十月、鎮座一〇三〇年祭・当地遷座七七〇祭・伊勢神宮鎮座二〇〇〇年祭を記念して「平成の御造営」が行われ、三八〇年ぶりに御本社・摂末社・神楽殿等総ての境内建物十二棟が一新された。平成十二年四月、神奈川県神社庁献幣使参向神社に指定された。(略)」
かつて、主に大寺院や大神社は寺領・神領を各地に備えており、そこから献上品を得ていたもの、と思われます。
宗教勢力が領主化する、というのは洋の東西を問わないわけですね。
そういった辺りから、ヨーロッパと日本の封建制について検討してみるのもいいかもしれません(誰宛て?)。
参道。
かなり長いですね(そして、なかなか効果的な樹木の配置です)。
拝殿前。
なぜか境内社の「水神社」。
御祭神が少し小さくて読めません……また後で。
「稲荷社」。
本殿ちらり。
「月読社」と「風宮」。
拝殿をくぐる地下道がありました……なんだろう、「五百羅漢寺」的な作りなのだろうか(あれ、「吉備津神社」か「吉備津彦神社」もこんな感じだったかな……。
「切部之王子社」「日之王子社」「鹿島社」。
気になったのでアップで撮影。
「切部之王子社」は和歌山の「切目神社」、「日之王子社」は同じく和歌山の「日之王子社」から勧請しているようです。
こちらも境内社。
奥から「雷神社」(賀茂別雷神社)、「山神社」(大山阿夫利神社)、「山王社」(日吉大社)、「火産社」(秋葉神社)、「白鳥社」(御嶽神社)、「見目社」(白浜神社)、「厳島社」(江島神社)。
存じ上げない神社も多い……勉強不足……。
おいなりさんの小祠、だと思います。
おキツネ様……だよなぁ……。
柱が影になって……。
社殿向かって右手から。
神明造、平入。
ちょっと下がってみました。
再びの入り口。
石灯籠なのですが、笠の部分には「卍」が、火袋には如意輪があります。
神仏習合の名残、でしょうか。
参道からの社殿遠景。
おまけ……どこで撮影したんだっけな……の庚申塔、お地蔵様。
御朱印。
ふう、やっと横浜ほにゃらら紀行最後の記事……あ、引用などは次回に〜。