べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「漆部神社」(あま市)(再)

(間が空きまして……BABYMETALを愛でるのに忙しいとか、和楽器バンドのライブに行ったとか、そのときにもらった胃腸風邪でぐったりとか、いろいろと……)

 

11/26。

甚目寺観音」のお隣には、漆部神社がご鎮座まします。

 

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「鳳凰山甚目寺」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑前回の「甚目寺」の記事です。

甚目寺」からの流れで、「漆部神社」のことも書いています。

 

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案内板。
陰陽紋がやはりいいですね。
御祭神は「三見宿禰命」。
相殿として「八大明神」には、「加茂・春日・祇園・稲荷・住吉・松尾・平野・貴船」と、もっぱら京都・奈良の神社が祀られています。
うーむ、式内社としての格を印象付けよう、という感じをうけなくもないです。
さらに相殿には「木花咲耶姫命」。
どういうことなのか……。

 

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蕃塀越しの社殿。

この蕃塀は、本社のものではないのですね。

 

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狛犬さん

 

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たら狛犬さん。

 

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こちらの摂社……なのか……おそらく「日吉社」だと思われます。
神明造の平入に大社造っぽい屋根と階段……なかなか謎の造です。

 

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鳥居は朱塗り、と。

 

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神馬。
もちろん陰陽紋。
素敵。

 

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拝殿正面。

 

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参道の狛犬さんたら

 

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狛犬さんその1。

 

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蕃塀。

 

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神橋(きよめはし)。

 

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参道の狛犬さんたら

 

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狛犬さんその2。

 

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鳥居の外まで来てみました。

御朱印は、授与所がお昼休みでいただけず。

 

さて。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

↑『尾張名所図会』では見つからなかったもので、とりあえず『神社覈録』より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
382コマです。

 

漆部神社
漆部は奴利部と訓べし ○祭神木花咲耶比咩命 (■帳○今按三見宿禰命歟) ○在所詳ならず ○民部省■帳云、仁寿三年二月加再復、実天智天皇三年五月之御新遷、所祭神霊木花咲耶比咩也云々、(略)」

 

延喜式神名帳』の尾張国海部郡八座のうちの一つ、ということになっていますが、場所はよくわからず。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 特選神名牒

 

↑『特選神名牒』ではどうなっているかというと。
155コマです。

 

漆部神社
祭神 三見宿禰
今按舊事紀饒速日命四世孫大木食命(三河国造祖云々)の弟三見宿禰命漆部連等祖とある此に由あり民部省圖帳に祭神木花咲耶比咩命と云るは疑しければ取らず
(略)
所在
今按鹽尻にこの社は津島社ならむと疑ひ 又一説に津島市神社ならんと云へど更に證なし 同郡荷之上村八幡宮と云説ありて荷上はののへにてののへはぬりへならんかと云へど信がたし 又愛知郡下之一色村なる浅間社の御手洗川を奉仕の祠官は塗部川なる由云へれど探索するに古よりおゐけすと云へば取にたらず 甚目寺観音は此社の変ぜしものならんと云説もあれど是亦證なければ取がたし 今にては廃社なるべし」

 

というわけで、以前の記事でも由緒書を引用したのですが、

 

延喜式神名帳に国弊小社として載っている」

鎌倉時代には、従三位として知られ、国司の幣帛を受けている」

南北朝以後は荒廃して、室町以降は八大明神社と称された」

「維新の地、郷社の社格が与えられ、昭和32年に元の「漆部神社」に戻した」

 

↑どうやら鎌倉から南北朝の辺りで荒廃してしまい、所在が不明になりました。

社伝では、「八大明神社」となっていた、ということなのですが、

 

「鎮守 八大明神・山王権現の二社、其外白山社・天満宮社・金毘羅社等数祠あり。大師堂・弁財天社等、二王門の外にあり。」

 

↑前回引用した『尾張名所図会』の中の記述です。
江戸時代には、「八大明神」というのは「甚目寺」の鎮守と認識されており、それが「漆部神社」のことなのかどうかはよくわからないのですよね。
うーむ……。

 

津田正生の『尾張国神社考』(原題『尾張神名帳集説本之訂考』、ブックショップMYTOWN、平成12年)によれば、

 

従三位漆部神社 一本作塗部
ぬりべのみやしろと読奉るべし。うるしべと訓へからず ([和名抄]大和国宇陀郡に)漆部郷(奴利辨」)とみゆるに随ふ」 [先達曰]此みやしろの在所をいま詳にせす [一人曰]津島村今の市神の社地にはあらぬか、市神社は大市媛命(大山祇神の女)」を祭る。津島五ケ村の産神とすれば也 [風土記云](偽書と云ふ)漆部社は、祭神木花開耶比賣命也と見ゆ。 [正生考]大市媛命は習合家にいへる武塔天神(牛頭天王とも)の適妻にて五男三女(八王子)を生給ふとみゆ。既にいふごとく社号神名を字音に唱ふるものは後世の事にて、取わき慶長やす國の後におほきやう也。津島社を牛頭天王にいひ募りて一変せるも、やうやく四百五七十年以来の事也。と或人はいへり。然れば市神の社号も、牛頭天王と時代を同くすれとも、神地は舊して漆部神の俤なるべき歟、なほよく訂爲べし(略)」

 

↑『特選神名牒』でバッサリやられている説が掲載されています(文中の『風土記』というのは、『古風土記』(逸文含)ではなく、近世に書かれたものなので「偽書」となっています)。
御祭神が「木花開耶媛命」だとすると、それは「漆部神社」ではないような気がしますけれども。

また、付録として(ちょっと長いですが)、

 

「海部郡漆神社一説式内
正生漆部神社を捜索こと三十餘年、いまだ其在所をしらす。然るに尾張風土記漆部神社は祭神木花咲耶姫命也とみゆ(偽書ながらも)開耶姫橘姫命などは後世観音菩薩に混淆事あり遠江国佐益郡(今は佐野と誤)」淡ヶ嶽の観音堂は舊は阿波波神社の俤也と内山眞龍いへり。又伊勢國白子宿寺家の観音も奄藝郡比佐豆知の神社の本地堂にて、祭神木花咲耶姫命の神木は不断桜也と勢陽里諺に見へたり。本国上水野村感応寺の観世音も舊は山田郡小金神社の本地堂也。是等の類を縁て熟按は漆部神社の一変て、今は甚目寺大悲閣となりたまふもの歟。其説左にしるして、後の君子のさためをまつのみ。」

 

ひとまず、津田正生翁は、「木花開耶媛命」や「弟橘姫命」が御祭神というのは、「観音菩薩」との神仏習合から導き出されたものだ、という説をある程度支持しており、そのこともあって「漆部神社」は「甚目寺」になったのではないか、と考えられたようです。

 

「[地名考云]鳳凰山甚目寺 真言宗 七堂伽藍二王門(建久四年所作也)
本堂 正観音 立像土仏也
一山之別当 東林坊
阿弥之坊三戸(略)妻帯也。此外十坊あり清僧也略文。
別当云]当山の観世音は秘仏にして、拝せば忽眼潰ると申伝て、一山の僧といへども昔より拝たるものなし。宮殿にます観世音は御長一丈有餘の土仏立像縁下より立給ふがゆゑに、只上半躰に宮殿を覆ひかけたるはかり也。是は三十一年目に開帳あり。秘仏は此土仏の御服籠にありとも、又宮殿下の井中にありともいふ也 [松平君山曰]縁起を摘て云、(略)此観音もとは伊勢国甚目といふ所にありしが仏院破壊して仏も又流れ、程歴て此浦に寄来るをすくひ揚し所を今、観音池とよび、又龍丸か子孫相続きて三戸あり。世々薙髪妻帯せり。土俗これを網の坊と呼」と見えたり。」

 

↑最初に仏像が流れ着いたのはやっぱり伊勢国の甚目だった、という話があります。

 

「[山田荷沼曰]中古某阿弥阿弥といふ禅門は薙髪妻帯にて仏に従事ものなりとぞ。按その某阿弥を後人阿弥の衆といへしを、網に誤りたる成べし。土仏の流るといふ事も有まじく、且観音池も末世の偽物なるべしといへり [正生謹考]甚目寺観音は舊は神社の地なるべし然おほじき事は[別当曰](略)在家の中、若死穢ありて同火同食に触る時はその僧徒一七日観音堂へ出る事を禁ず、むかしより斯のことし。地下所の在俗男女も右に同じ。唯往来の人は、いかにとも爲べきやうなければ其沙汰に及ばず。扨宮殿のうしろ堂に釘〆にしたる舊き箱あり、その内に三種の神器の納ませば穢火を忌来るとも申伝ふといへり[里老曰]正月元朝別当東林坊と、阿彌の坊三人と、本堂観世音の正面にて年賀の盃あり。又元日より七種の日まで修正会を修行す。満座の時に伊勢、加茂、八幡等の大社及び本国中の神名をよみあぐる事あり(是は本国帳の一巻也)五月十八日には近郷より観音へ幣馬を奉る。次に走馬あり。村々の若者ども穢火を忌慎むこと厳重也。又八月十八日を観音の祭礼と呼て、本堂の正面に大釜三口をすゑて湯花を奉る。階橋の下にて神子処女、白栲の袖をひるかへす。岩塚村の社人吉田氏これを掌る[近藤利昌曰]本堂の乾方に楠の大樹あり。側に八所明神の社頭あり、土俗は八大明神とも呼(本堂より寅に山王ノ社あり。是は二百年此かたの事也とぞ)八所明神の宮は、鳳凰山(今の本堂の地をさす)の山上にありしを、康和年中、本堂を建る時、その社を今の地に遷し、平山を引捄て観音の堂を建ともいへり[正生考]八所の名は後世の俗称にて、八ヶ所の神を都たるなれば、是を往昔の摂社か、さて世に秘仏と称るものは其覆ひ隠すところあるもの也。考證の爲に浅草の秘仏観音を爰に引。」

 

↑「甚目寺」の地がかつては神社だった、という根拠(津田翁が考えるところの、ですが)がいくつか挙げられています。

 

「在家の中、若死穢ありて同火同食に触る時はその僧徒一七日観音堂へ出る事を禁ず、むかしより斯のことし。地下所の在俗男女も右に同じ。唯往来の人は、いかにとも爲べきやうなければ其沙汰に及ばず。扨宮殿のうしろ堂に釘〆にしたる舊き箱あり、その内に三種の神器の納ませば穢火を忌来るとも申伝ふといへり」

 

↑この辺りが確かであれば、結構面白いですよね。
個人的には、「後堂」にある「釘〆にしたる舊い箱」というやつが気になります。
で、同じようなところとして、浅草の例を挙げているのですね。
孫引きになってしまいますが。

 

「[附言][橘守部曰]江戸浅草寺の観音前立は二尺餘の木像にして開帳仏是也。秘仏と申すは古来より甚秘して拝たる人なし。されど寺中にこれを守護する人々、世々八咫鏡也といひ伝へたり。此秘仏を祀り置所は、前立の観音より二間ばかり奥に高御座とて稍高き壇ありて、其上に安置せり。方一尺二三寸、高さ二尺餘の箱にして釘附にせり。錦綾の覆ひ十重もかけて、錦の褥御肌付の薄絹、何くれと厳にして斎くさま在ごとし、壇は方六尺、高さ九尺ばかりもあらむ。幔にてかこひたれば外よりは見えがたし。毎年十二月十三日、堂の煤払也。其前夜十二日の夕方、かの高御座の二畳の畳を敷改る時所謂三普代の者、白衣に覆面して、中に一人負ひておろし奉るに、其傾く時あたりて発音もはら鏡の鳴音也。竊に愚按を廻らすに、是むかし神社にて在し時の神鏡をば、秘仏と称して隠し祀りたる成べし。今境内雷神門の側に地主大神宮と称するあり。又二玉門の傍に地主西宮稲荷の社と申ありて、伝いふ往古大神宮たりし時の豊宇気宮にして、此社のみはうごかせたまはずといへり(大神宮は南向、豊宇気宮は東向也)是によるに地主大神宮は舊は今の観音堂に鎮座たりしを、其神鏡を堂に留めて、地主として表門へは迂し奉りしなりける。毎日暮六時かぎりに門を閉て其門に木綿をかけ幣帛を立るも、其名残と見ゆ。祭礼三月十七日と六月十五日と両度あり。今はこれを三社権現の祭といへどまさしく大神宮の時よりの祭とおほしき也。堂の祭の徴なる事は、二十年、三十年に一度づつまさしく観音の大祭ありて、観音堂より御輿出て隅田川の船祭也。其古図を見るに、行列甚美々敷東都第一の壮観たり。爰をもて推てしるべし又神馬二疋あり、是も三社権現の神馬也といへど、古来より観音堂の左腋にありてかの神境の神馬とそおほしき、かくて此三社権現と申は、其昔浜成、武成、甲斐成とて三人の者網もて観音をすくひあけたりといふ、その人々を祀りたる社也。その浜成の裔を土師宿禰専堂といひ、武成の裔を檜隈宿禰斎頭といひ、甲斐成の裔を檜隈宿禰常音といふ。此三戸は薙髪妻帯にて今寺中の次の属といへとも、秘仏観音の事に就ては威光あり此両人の檜隈を舊は日前と書たるよしいひ伝へたり。しかれば紀伊国日前社に由縁あるか、いづれにもその霊験の灼然事伊勢とひとしくあやしき事々おほかり、又此三人の先祖の引上たりといふ観音の像は、今の前立なるべし。此外にもいろいろ神に縁ある事おほかれと寺中挙りて只観音になし奉りて、縁起には推古天皇三十二年出現といふことを強て唱ふる也といへり。」

 

長々と……。
引用されているのがどこまで正確な文献かはさっぱりですが、

 

「されど寺中にこれを守護する人々、世々八咫鏡也といひ伝へたり。此秘仏を祀り置所は、前立の観音より二間ばかり奥に高御座とて稍高き壇ありて、其上に安置せり。方一尺二三寸、高さ二尺餘の箱にして釘附にせり。」

 

↑これが引っかかったわけですね。

 

「毎年十二月十三日、堂の煤払也。其前夜十二日の夕方、かの高御座の二畳の畳を敷改る時所謂三普代の者、白衣に覆面して、中に一人負ひておろし奉るに、其傾く時あたりて発音もはら鏡の鳴音也。」

 

↑これは、箱の中の音が鏡っぽかったという部分よりは、「白衣に覆面して」なんてところに、非仏教的な感じがある、ということなのでしょう。

 

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「浅草神社」(浅草名所七福神) - べにーのGinger Booker Club

 

↑浅草の「三社権現(浅草神社)」については、こちらの記事で『江戸名所図会』なんかを引用しています。

 

「[正生考]此いわれをきけば、浅草と甚目寺観音と相似たる事おほし、まづ秘仏と唱へて釘〆にしたる御箱ありといひ、仏閣にして神事の残れるといひ、秘仏に縁有の薙髪妻帯にして三戸宛ありといひ、旁々符節を合せたるが如し、爰をもて甚目寺観音を漆部神社なるべしとおもひしならむ、後の君子能く正して定めてよ(以上地名考)[穂積曰]此説は家翁はやくおもひよられたる考にて地名考に載せられたれど晩年に及ては此説をすてて、津島市神の社なるべくやと試をしるされたり。そは本書に述べられたるがごとし。さすかに此一説もすてがたくて、ただ考索の一助にしるしおくのみ。」

 

↑のちに津田翁、この「漆部神社イコール甚目寺観音」説は捨てられたようですが。
前回の「甚目寺」の記事でも引用したように、似たような話が「善光寺」にも伝わっています。

 

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善光寺(4) - べにーのGinger Booker Club

 

↑かつて「善光寺」の金堂後方にあった年神堂のことや、「善光寺」の三つの勢力のことなど、「善光寺」「浅草寺」「甚目寺」との共通点がいろいろと見受けられますね。
いろいろと妄想できそうなのですが……。

 

 

 

 

 

 

とはいえ、神仏習合の頃のことを考えれば、神社だった場所に寺を建てる、ということは比較的普通に行われていたような気がします(西洋では、ケルト的信仰の地のあとに、キリスト教の教会が建つケースがままあります)。
信仰の場を乗っ取る、と表現すればあまり褒められたものではないですが、荒廃した神域に新しいものが建つのは現代でも変わりません。
その際に、かつての鎮守の神をそのままお祀りする、ということもまた普通にあったのでしょう。
ここで怨霊を絡めると、寺院側が結構な酷いことをしちゃったので、祟られないように鎮守に祭り上げた、でもその祭り方はどうだったのか……やり方としては、「大物主大神」の祟りを鎮めるためにその子孫を連れてきたことに倣っているのかもしれないです。
善光寺」も「浅草寺」も、「甚目寺」もですが、仏像を引き上げた人物の末裔が、後々まで寺に奉仕したり、「浅草寺」に至っては神に祭り上げられていますから。
神仏習合というのは、怨霊を恐れる日本人的な発想から、「致し方なく生まれた」ものなのかもしれないですね。
ともかく、どこが起源かわかりませんが、日本に仏教が到来した頃には、「仏像が網にかかる」ところから始まる伝説がもてはやされたのではないでしょうか。
東海地方、信州、東国と、似たような伝説が残っているのは、畿内から東漸していったのか、あるいは信州から尾張、武蔵へと双方へ広がっていったのか。
まあ妄想なのですが、津田翁の思いついたことも結構面白いところを残していると思いますので、もっとがっつり妄想した説がちゃんと本にまとまっていたら読みたいなぁ……と思います(幕末、国学が興った、というのも見逃してはならない要素かもしれないです)。

で、「漆部神社」は、かつての式内「漆部神社」なのか……よくわかりませんね。
しかし、かつては「鳳凰山」と呼ばれた山に鎮座していたのだとすると、古代のこの地方の有力者の「古墳」だった可能性はあるかなと思います。
また、「山」から「木花開耶媛命」への連想も、それほどおかしくはないでしょう。
古い信仰が薄れてしまい、そこに新しい信仰がやってきた、というだけなのか。
古い信仰と新しい信仰の争いがあり、それが隠蔽されているのか。

 

 

 

 

 

いかんいかん、もうちょっと勉強せねば。
とりあえず本日はここまで〜。