さて。
テキストばかりですので、お時間のあるかたは。
といっても、
○こちら===>>>
↑こちらが素晴らしすぎて……いえ、一応「尾三郷土史料叢書」を当たったりしているんですけれどね……だめですね、努力しなくなるので。
とりあえず、66コマ(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
「菅生神社
菅生神社は、康生町六百三十番地に鎮座、境内五百七十五坪を有す、もとは菅生天王と称し、菅生の地に鎮座あり、社記に依れば、人皇十二代景行天皇の御宇、日本武尊東夷征伐として、当地御通過の砌、高石にて矢を作り給ひ、一矢を小川に吹流し給ふ、其砌、矢を御霊代として伊勢大神を鎮祭し、吹矢大明神と稱す。其後、神亀二年、山城国より稲荷大明神を勧請し、以来稲荷社と云へり、後亀井戸の地に遷座す。又天平宝字元年、始めて額田郡宮崎の地に、播磨国より牛頭天王を勧請せしが、元暦元年に神殿消失し、翌文治元年に再興す。其後永正十四年七月、洪水の節、右の神殿岡崎高石の地に流着す。是を菅生天王と云へり。同十五年十二月、同郡中山庄土村の住人天野掃部介正家、及び同郡麻生村の住人天野弥九郎隆正、本社を造立し、大永三年六月岡崎城主松平弾正左衛門信貞、境内に十二末社を勧請す。永禄九年二月徳川家康社殿を再建あり。天正十九年城主田中吉政の時社領を没収し、十二末社を破却すとある。
慶長年中、伊奈備前守忠次社領二石六斗六升の黒印を附す、同十五年正月二十四日菅生川洪水にて本社流れ、稲荷社の境内に着す、依て稲荷社と合併した。岡崎籠枕に曰、高岩。此所に天王社有りけるが、水難に仍て亀井戸に移りまし、今は御城中に御鎮座云々。
元和八年、奥州岩城の城主内藤左馬助政長、祖先の産土神の故を以て社殿を造営、寛永十五年十一月岡崎城主本多伊勢守忠利本殿を修復し、石鳥居を造立した。其後本社を移転して、岡崎の城主代々崇敬あり、毎年十二月御供米一俵を献じ、毎月神子神楽を奉納したと云ふ。宝暦三年十二月水野織部正忠任、本殿を修復せられ、明和五年五月松平周防守康福、又修理を加へらる、寛政十一年六月、本多中務大輔忠顕、雨覆いを造立あり、明治元年菅生神社と改称し、同五年十月十二日村社に列せらる、同九年五月公園内龍城神社境内に移転し、同二十三年十二月復もとの地に移す。同三十四年五月二十二日現今の地に遷座し、同三十五年拝殿を改築し、同年九月二十二日上棟式を行ふ、同四十年十月二十六日神饌幣帛料供進神社に指定せらる、同四十二年十月十八日本殿渡殿の再建に着手し、翌四十三年七月一日竣工、同月十七日上棟式を行ひ、翌十八日遷宮があつた。
祭神は、須佐之男命、天照皇大神、豊受姫命の三座である。建造物には、神殿、渡殿、拝殿、権殿、社務所、神楽殿、神饌所、廊下、休憩所、籠屋、玉垣、高麗狗明治卅六年一月造立石燈籠、石鳥居二基あり、寛永十五年と大正四年の造立手水鉢二基、元禄二年十一月と明治四十三年七月の造立大茶釜大正五年七月献幟立、社標二基、明治三十八年六月と大正八年十月の造立等がある。
例祭は七月十九日二十日もとは旧六月十五日十六日にして、毎年七月十九日夜は、菅生川の流に船数艘を浮べて三層楼を築き鉾船と云之に数千の紅提灯を点じ、楼上には管弦を奏しつつ流れを上下し、船中より絶えず手筒煙火を打揚げ、又水中に金魚と称する煙火を放射して、河上は全く火の流れとなり、頗る美観である。古来岡崎の名物と称して居る。」
……えー、情報が多い。
○こちら===>>>
↑公式HPにて例祭の様子が見られます。
「牛頭天王」は、祇園八坂系にしろ津島系にしろ、船を使った祭りをするものなのですね……ということに関する論説をどこかで読んだような気がするのですが思い出せません。
「菅生神社」のお祭りは、「津島神社」の系統に思えます。
ただ、播磨国から勧請した、となっていますので、祇園八坂系でも津島系でもなく、その原点ということになるのでしょうが。
以下、参考として挙げられている三つの社について。
「高石山宮崎神社菅生天王宮(岡崎十二社之内、其一つなり)
当社は、人皇四十四代孝謙天皇の御宇、天平宝字元年丁酉冬十一月十五日、当国額田郡広崎と云處に、祇園牛頭天王を播磨飾磨郡広峰山より茲に勧請す、是より広崎を改て宮崎郷と號す、元暦元年甲辰春、兵火の為に神殿消失す、翌年文治元年乙巳夏六月十五日再建す、其後永正十四年丁丑秋七月、洪水の時、天王社宮崎郷より岡崎の高石に流遷す、依て菅生天王宮と號す、同十五年戊寅冬十二月二日同郡中山庄土村の住人天野掃部介藤原正家、同郡麻生村の住人天埜弥九郎隆正両人、此社を造立す。大永三年癸未夏六月、境内に十二末社を勧請す、願主は岡崎の城主松平弾正左衛門尉信貞なり、永禄九年丙寅春二月十二日、大神君二十五の御厄除御開運爲御祈願御造営、二十五年の後、天正十九年田中兵部大輔吉政在城の時、社領十二末社等没却せらると雖、唯本殿のみ残りけり、其後二十年の星霜を経、慶長十四年己酉冬十一月十五日夜、御城主本多豊後守藤原康重、御夢中に一人の童子告て曰く、稲荷大明神の傍に苔蒸すたる所の一樹の榎あり、牛頭天王鎮座ある可きの土地なりと、右の神託を告げ玉ひ、彼童子は東南を指て去玉ふと見へて、御夢は覚させければ、明る十六日早朝に御社参ありし處に、其日よりして毎日彼榎の中にて神文を誦するの聲聞ゆ。時に神主松平河内守源久忠、登城し言上仕りける様は、夜前御社に不思議在之候、天王の神殿鳴動し、乾の方へ三寸余り歩み申候、右の段言上仕候と申上ければ、康重にも霊夢の符号成㕝を思召、天王を遷座し奉らんと被仰ければ、神主有難く、終日御由緒の赴悉く申上ければ、御尊敬不浅、夫より材木等の御用意も有し處に、其年も暮れて、明ければ同十五年庚戌春正月二十四日、大矢川大洪水、此時天王社流れ、稲荷大明神の榎に掛り玉ふ、依て天王を中央にして、稲荷神は地主神と號し、御同社の西の方に祀り玉ふ、夫よりして右一樹の神文止にけり、元和八年壬戌奥州岩城の御城主内藤左馬助藤原政長卿御造営(是御先祖御産土神故也)其後寛永十五年戊寅十一月十五日御城主本多伊勢守藤原忠利卿御修造あり、是より御代々御城主御修復處也
祭神三座 素盞嗚尊、三大神、八王子
東照宮 御合殿
正保二年十二月十七日勧請
雀大明神 御合殿
正保二年六月七日城主水野監物忠善卿総州古河より勧請」
「菅生神社」の起源の一つ、「菅生天王宮」についての記事です(あ、66コマからの続きです)。
合殿として「東照宮」と「雀大明神」がお祀りされています。
「雀大明神」ってなんだろうと思い検索してみると、
○こちら===>>>
↑ウィキペディアさんですが、どうもこちらではないかと。
「鬼監物」と称された「水野忠善」が勧請しているところをみると、岡崎に入る前の封地だったか何かなのでしょうか(検索すれば一発でわかりますね、多分。みなさん、調べてみてください)。
続いて、
「神亀山菅生神社稲荷大明神
天王宮御合殿、地主神なり、岡崎十二社の内なり。当社は、人皇四十五代聖武天皇の御宇、神亀二年乙丑春二月初午日、七歳の童女にのりうつり告て曰く、我波是山城国紀伊郡伏見乃宇賀三社乃霊神奈利、此所在縁乃土地奈禮波、一宇乃神祠袁造天諸人一心璽吾仁祈念世波、其願誓天空加羅須と、右の神託こと細やかに告しめ玉ふ、依て稲荷神社を勧請して菅生稲荷と號す、明徳二年辛未冬十一月十五日、源親氏公御子孫御開運の爲御造立あり、是より十一月十五日を以て祭日と定む、其後文明八年丙申春二月初午日、安祥城の御城主源親忠公御造営あり、天正十九年、岡崎の御城主田中兵部大輔吉政、三州の地面并に寺社の鋪地を改め、諸處破却す。此時稲荷の社地をちちめ、神領二町五反歩執上けり。
祭神三座 倉稲魂命 大山祇神 土祖神」
「稲荷大明神」は、地主神だったようです。
さらに、
「吹箭山稲荷神社惣社神明宮菅生天王宮社中に在之、岡崎十二社之内也
当社は、人皇十二代景行天皇の御宇、庚戌四十年夏六月、東夷多く叛きて騒動しければ、第二の皇子日本武尊、左右には吉備武彦、大伴武日連を相副られ、冬十月三河国に御下向、当地小川の辺りにて矢を作らしめ給ふに、神風吹来るりて其矢を吹流し玉ふ、又尊は高山に昇り、天照大神を遥拝し、諸神を勧請して、以て東夷御征伐の御祈願を籠る給ひ、彼の流矢を取上げ神と崇めて吹矢大明神と號す、神亀二年春初午日、神託に依て近隣に稲荷神を勧請し、稲荷神明宮と號す。明徳二年辛未十一月十五日松平親氏祈願修造あり、然るに天正十九年田中兵部大輔吉政この社を破却して社地並に神領を没収す、依て時の神主源久忠、御神体を稲荷御同社に納めたり、其後二百四十年の星霜を経、文政十三年庚寅二月より、太神宮御祓諸所に天降り給ふ處に、別て当御城中に両度、又天王御社にも六月二十六日内宮、七月三日外宮天降り、其外産子の内にも天降り給ひし所あれば、御祓を納むべき社をと願ふに依り、天保二年辛卯春正月稲荷神明社を再建し、合殿に御祓を納め、同月二十日奉鎮祭處なり、城主は本多中務大輔従五位下藤原忠祥(のち忠孝)の時なり。
祭神四座 天照大神 日本武尊 宮簀姫命 乙見皇子 神秘流矢なり
(略)
鷺大明神(天正十九辛卯年午田中吉政侯の時破却せられ、今菅生天王末社に有り)
当社は、人皇百四代後土御門院の御宇、応仁二年戊子秋八月一日草創す、疱瘡の守護神なり、祈願の人は小石を拾いて奉納す、又成就の人は団子を六十四献せり。
祭神一座 稲背脛命額田大明神
当社は往昔額田村に鎮座、勧請の年歴不詳、天正年中田中吉政侯の時破却す、今菅生天王宮末社の内にあり。
祭神一座 額田大仲彦命菅生天神社 今所不詳岡崎十二社の内なり
当社は、九十一代伏見院の御宇正応二己丑年、河内国丹南郡菅生と云ふ處より、満性寺の開基了専上人岡崎に来りし時、土地の神菅生天神の木像を持来り、一代の間信仰す、二代寂性代に、一宇を草創せり、天正十九年田中吉政侯の爲に破却せらる、今菅生天王宮に御正体の天神あり。」
こちらは「神明宮」なので、御祭神は当然「天照大神」。
「日本武尊」はどうもこの辺りに逗留したらしいので(伝説)まあわかりますが、「宮簀姫命」が祀られているのが何かにおいます……参河とはいえ、尾張に近い方ですので、尾張氏の勢力下だったという可能性はありますが……後世の牽強付会ととるべきでしょう。
一緒に祀られている「乙見皇子」というのが、なんだかよくわからないのですが、やは岡崎辺りの有力者の姫と「日本武尊」の間に生まれた子供らしく。
そうすると、子どものいない妃だった「宮簀姫命」を一緒に祀っているのが、なんだかますます怪しい……何かあるのかもしれません(ないのかもしれません)。
あとは、神格化された「流矢」ですが、これなんかは「大物主神」などの「丹塗矢型神話」と関係してそうです(もちろん、後世に作られたものでしょうけれど)。
なにぶんこの辺りは、記紀神話には残っていませんからね……「日本武尊」ご一行が本当に陸路で岡崎に向かったのか(「成海神社」には、船で出発したという伝説があったりしますし)。
陸路であれば岡崎は通過していてもおかしくないですけれど。
東海道沿いに、「日本武尊」の伝説はいくつも残っていますので、何らかの事実の投影がそこにはあるのだと思います……「乙見皇子」も、実際にヤマトの都からやってきた人物との間に生まれた子どもだったかもしれないですし。
うーん……この辺りは郷土史家のみなさまにお任せするしか……。
「鷺大明神」は、
○こちら===>>>
http://taisha.jp/index.php?ID=1463
↑で紹介されています。
「稲背脛命」は、「国譲り神話」に出てくる神です(「大国主命」の遣いとして、「事代主命」に国を譲るかどうかを訊ねにいった方です)。
それがなぜ「疱瘡の神」になったのかは……これもどこかで読んだ気がするのですが……(汗)。
というわけで、ここまでで、神社成立の流れがよくわからないと思いますので、神社でいただいた由緒書等からまとめてみようと思います。
1)「日本武尊」東征のさい、高岩(高石/今の菅生川畔・満性寺辺り)で矢を作らせると、神風が吹いて矢が流された。尊はこの地に伊勢の大神を祀った。流矢を御霊代としたので、「吹矢大明神」という。
2)延喜年中に、「吹矢大明神」は、「稲前神社惣社神明宮」となり、「日本武尊」「宮簀姫命」「乙見皇子」が合祀された。
3)「孝謙天皇」の頃、参河国額田郡広崎に「牛頭天王」を勧請する(広崎を宮崎に改称)。
4)「聖武天皇」の頃、京都伏見から「稲荷大明神」を勧請、「吹矢大明神」と合祀する。
5)永正十四年(1517)、洪水のため、額田郡宮崎から「牛頭天王」が流れ着く。合祀して、「菅生天王宮」とする。
6)「松平清康」岡崎城入城のとき、城内に「菅生稲荷大明神」の分霊を祀る(「開運稲荷大明神」)。
7)天正十九年岡崎城代田中吉政が祠を破却したので、「開運稲荷大明神」を「菅生天王宮」本殿に移した。
8)明治元年、「菅生神社」に改める。
9)昭和五十七年、「菅生神社」境内に「開運稲荷大明神」の社が建てられる。
こんな感じです(その他の合祀については省略)。
改めて気になったのは、
「社記に依れば、人皇十二代景行天皇の御宇、日本武尊東夷征伐として、当地御通過の砌、高石にて矢を作り給ひ、一矢を小川に吹流し給ふ、其砌、矢を御霊代として伊勢大神を鎮祭し、吹矢大明神と稱す。」
↑というところでしょうか。
「風」が吹いて、「矢」が流されて、というだけで「矢」を「御霊代」として「伊勢大神」を祀った、というのがよくわかりません。
「丹塗矢型神話」だと考えると、「日本武尊」の「矢」(=男根)が地元の娘を孕ませでもしたのでしょうか。
それにしても「伊勢大神」……「天照大神」のことだと考えられますが、社記では使い分けていたのでしょうか。
原本に当たらないとなんとも言えませんが。
伊勢は「神風の伊勢の国は常世の波の……」と「天照大神」ご自身が神託を下されたところであり、ということはこの伝説の構造上重要なのは「矢」ではなく、そのときに吹いたという「神風」だったのでしょう(といっても、「矢」がなければ「神風」に気づかなかったので、どちらも重要だったのかとも)。
で、「神風」から「伊勢」を連想した何者かが、ここに「天照大神」をお祀りした……のでしょうが、「神風」と、太陽神としての「天照大神」にはそれほど関連がありません。
むしろ、古くから、「風の神」として認識されていた「伊勢大神」がいらっしゃったけれども、「伊勢」の「大神」なので「天照大神」にすり替えられたのではないでしょうか。
……あれ、これってそのまま「伊勢神宮」の起源に直結する話じゃ?
いや、妄想妄想。
岡崎の伝説も、もう少し調べてみたいところですが、名古屋のことで手一杯な感じもあります……きっと郷土史家のかたがたがやっていてくださるので、そちらにお任せして。
機会があれば、また探ってみようと思います〜。
あ、あと、大したことではないのですが、
永正十四年(1517)、洪水のため、額田郡宮崎から「牛頭天王」が流れ着く。
「牛頭天王」は、水辺を流れるのがなぜか似合いますね……さすがかつての疫病神、疫病は水辺からやってくるのです。
「牛頭天王」のお祭りで「船」が関係しているのは、こういう理由なんでしょうか……。