さて。
文章ばかりですので、お時間のあるかただけ。
三河地方の文献もいろいろと検索しているのですが、
○こちら===>>>
↑岡崎に関しては、昭和に入ってから編纂されていますが、こちらがすこぶる素晴らしいので。
45コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
「六所神社
六所神社は、明大寺町字耳取四十四番地に鎮座、境内三千四十一坪を有す。当社は徳川家康の産土神にして、徳川氏歴代の崇敬ありし社である。
社記によれば、人皇三十八代斉明天皇の御宇、勅願に依て、奥州鹽竈六所大明神を勧請し、桓武天皇の御宇、田村将軍東夷征伐之時、祈願を籠め、其後源氏代々の崇敬あり、又新田義貞矢作合戦の時、願文を納む等の由を載すれど、徳川氏即ち松平氏の産土神としての崇敬は、松平初代親氏より始まれる東加茂郡六所明神に対する信仰の、松平氏の勢力発展に伴うて、此地の六所明神に移りしものと見るべきである。彼の有名なる加茂六所神社の奉加帳に、抑当社大明神者、当国鎮守之霊廟郡村加護の明神也、中松平一黨之氏神、先祖崇敬之霊社也とあり、此奉加帳は、大永七年十二月に社殿の回録せるを再興せんとするものにして、最後に、百疋道閲、五百疋祐泉とありて、道閲は五代長親、祐泉は六代信忠にして、東照公の祖父清康の岡崎城に在る時のものである。」
ちょいと分割。
もともとは、勅願において「鹽竈神社」を勧請した、と。
そのあとは、いろいろあるようですが、最終的に松平氏の産土神となったらしいです。
「東加茂郡六所明神」はもう残っていないんでしょうか……遷座していたら、元宮として残っているかもなんですが。
「而して此岡崎の六所明神の天正十六年九月の文書に、明大寺六所大明神、殿様御氏神に候處云々と云ひ、寛永十一年の朱印状に、参河国六所大明神者東照大権現有降誕地之霊神也、是以崇敬異他とありて、両社の間に連絡があり、推移の跡を明に窺ひ知らるるやうに思はるる。而して明大寺の六所神社の顕れ来りしは、清康の岡崎在城の時頃では無からうか、特に東照公誕生の際は、産土神として拝礼があつたと云ふ、そは由緒に、天文十一年十二月廿六日、於岡崎御城竹千代君様御誕生、日を経て高宮へ御参詣、御産土神之御拝礼御規式被爲在云々としるしてある。然るに参考の條に引く鹽尻以下二三の書に、家康が永禄元年に妙大寺に遷したるやうにしるせるは甚だ疑問である、永禄元年は、家康いまだ元康と称して駿府に在る時であるが、この年の二月五日に、初陣として寺部城を攻め、更に梅ヶ坪、挙母、広瀬、伊保等の地に軍を出して居る、もし永禄元年の勧請とすれば、此際に遷したものと見なければならぬ、然らば由緒書に云ふ、家康の誕生当時参詣して産土神としての礼拝があつた由と全く合はぬ事となる、或は社領寄進か、社殿修造の事などを誤つたものでは無からうか、暫く疑を存し置く。」
もともとの「六所明神」と今の「六所神社」との関係について書かれています。
「徳川家康」が遷座させた、というのは誤りで、「松平清康」の時代に移ってきたのではないか、という説が書かれています。
「慶長七年、徳川家康社領六十二石七斗の朱印を附し、同九年八月社殿の造営を行はる。寛永十一年家光将軍上洛の時、岡崎城に於て本社を遥拝せられ、松平伊豆守信綱を名代として社参せしめ、百石の社領を寄附し、次で岡崎城主本多伊勢守忠利を奉行として社殿を改築せらる、寛文二年家綱将軍金千両を寄せて社殿の修復を命じ、元禄元年綱吉将軍、岡崎城主水野右衛門大夫忠春を奉行としてまた修復を行はしむ、尚其後も屢々修復の事 享保十三年、宝暦六年、寛政十一年、文化四年、文政九年、天保十一年、嘉永七年、慶応三年 があつた。」
いずれにしろ、神君「徳川家康」公と関係が深いだけあって、徳川時代にはいろいろと優遇されていた感じです。
「明治五年十月十二日、村社に列せられ、同四十三年七月九日、同町字天白前鎮座の村社天白神社 祭神、瀬織津姫命 同町字下郷中鎮座の村社朝日神社 祭神、伊弉冉命、天鈿女命、天照大神 無格社津島社 祭神、須佐之男命 同町字栗林鎮座の無格社事比羅社 祭神、金山彦命 同町字向山鎮座の無格社稲荷社 祭神、豊受姫命 及び境内神社八幡社 祭神、応神天皇 天白社 祭神、瀬織津姫命 白山社 祭神、菊理比賣命 高宮社 祭神、高宮若御子、三河国内神名帳に、初少位高宮若御子座額田郡とあるは此社であらう 先駈社 祭神不詳 を本社に合祀し、高宮神社と改称す、大正九年十月廿二日県社に列せられ、同十一年十月七日更に六所神社と改めた。
祭神は、猿田彦命、鹽土老翁、事勝国勝長狭命、衝立船戸神、大田神、瀬織津姫命、伊弉冉命、天照大神、天鈿女命、須佐之男命、金山彦命、豊受大神、応神天皇、菊理比賣命、高宮若御子の十五柱である。
現在の建造物には、神殿、幣殿、拝殿、社務所、土蔵、楼門、祭器庫、石鳥居、木鳥居、手水鉢、井戸屋形、石燈籠 六基 、高麗犬 二対 、社標、制札等がある。
例祭は十月十三日十四日 もとは九月十四日 である。」
明治というのは廃仏毀釈でお寺の勢力が弱められた時代でしたが(近代革命が既存の宗教勢力にメスを入れるのは常道です)、一方で神社の方も、ある地域内で一箇所にしなさい、的なものもあったりしました。
小さい祠が放置されるくらいなら、大きな社の境内に遷されて……ということがあちこちで起こったのだと思われます(まあ、そう順当にことが運ばないのも宗教政策なのですが)。
「六所神社」といいながら、祭神は十五柱、とかいうよくわからない状況にもなりますてなもんです。
あとは、参考として引かれている文献からいくつか。
「六所明神は、はじめ松平の郷にあり、親氏公奥州に在館の時、鹽竈六所の明神に祈りたまひ御家門再興ありし後に、松平の御館六所の神をまつりたまへり、大神君の御時、松平より此地に遷座ありて社をたてたまへり、天下御草創御願成就の神とて殊更御尊崇あり(鹽尻)
(略)
三州加茂即松平の鬼門宮口村蜂ケ峯鹽竈六所大明神を、人皇第七代正親町院の御宇永禄元戌午年、同国額田郡妙大寺村の山へ遷す(参河見聞集)」
『鹽尻』を書いたのは、ご存知尾張が誇る博覧狂記の「天野信景」翁です。
松平の郷って……
○こちら===>>>
「松平東照宮」 - べにーのGinger Booker Club
↑こちらのことでしょうか。
ううむ……近くて遠い三河の歴史、まだまだ知らないことが多すぎます。
なお、『岡崎市史』第7巻の52コマには、「六所神社」の図絵が掲載されていますので、よかったらご確認ください。
明治の頃の図絵なのかどうか、調べていませんが、今と同じような神領、配置が見られます。