11/17。
「挙母神社」を後にしまして、さてどうしようかとスマートフォンをいじっていたら見つけたのが、「松平東照宮」。
○こちら===>>>
長く愛知県に住んでいますが、こんな場所があったとはついぞ知りませんでした(をいをい)。
何しろ、尾張の人間なもので。
カーナビに案内されて車を走らせていたのですが、本当にこの先にそんなものがあるのか……という山奥です(言い過ぎ)。
「猿投神社」よりも、よほど山深い。
たどり着いてみれば、見所満載じゃないですか。
下調べしておくべきだった……不思議に天気が悪くなってくるし、もう午後もいい時間いなりつつあったので、とりあえず「松平東照宮」のご参拝のみ、することにしました。
ああ、ちゃんとした紅葉に出会ったのは今年初めてではなかろうか……。
んでまぁ、工事中なんですけども(悔)。
扁額。
開き直って、紅葉を愛でることにしましょう。
これは、神社向かって右手に続く道。
こちらに向かって行きますと、
この紋所がこれでもか。
「産湯井戸の由来
産湯の井戸については伝承が多いが、天文十一年二月二十六日に岡崎城において松平家康(徳川と改姓)が生誕されたとき、太郎左衛門家七代当主親長が竹筒へ詰めて速馬でこの水を運んで産湯に用いた記録がある。境内地(元松平家館跡)には七ツの井戸があったが、此の井戸は最も古く此の所に館を構えた当時造られたものである。松平氏の氏神八幡の宮の前庭(今の奥宮)にあり石畳で囲い石段を下りて水を汲むように出来ている。また、石板の蓋のある井戸は、当時としては極めて珍らしいといわれている。こんこんと湧き出る山清水は非常に美くよく澄んだ水である。また此の地を井戸の洞とも呼び、井戸を掘った際に尊体(石)を得て氏神として祀り水神八幡、うぶの八幡、等の異名がある。江戸時代将軍御代替のとき諸国巡検使の巡見地であり貴重な取扱がされていた。古くは井戸の溢流、濁水などは異常事発生の前兆とされていたが、昭和二十年四月十六日夜の「お水取」には水枯れでお水取の神事が出来兼ねた。このときは戦時中で参加者は少人数であったが敗戦を覚悟したと伝えている。
当社は四月御例祭の前夜試楽祭を斎行後引続き「お水取」の神事を行っている高張提灯を前尊に浄闇の中に列を正し宮司以下役員、総代、氏子、等で産湯井戸前にいたり開扉して浄水を汲み取り神前へ供える。
翌日例祭日に御神水として一般に授与している。この水汲のときの水位により農作の吉凶の占をする慣例がある
御神水は不老長寿、また安産するようにと遠くから来て拝受する人が多い昨今では立身出世の神、政治の神、安産の神としての信仰があり、社務所でこの御神水を頂く人が年々増えている。(以下略)」
松平郷の歴史を毫とも知らないので、なんともかんともです。
こちらが「産八幡の宮」。
手前にちらっと写っているのが、
「産湯井戸」。
その奥にあるのが、
「市杵島社(弁天さま)」。
珍しく、ちいとも島な感じがしませんね。
他に「二の井戸」「三の井戸」がありました。
「松平東照宮」のほうに戻りまして。
徳川家康公
松平親氏公 他六社
ご例祭 四月十七日より前の
土曜(試楽祭、お水取り)
日曜(例祭・御輿渡御)
ご由緒
当社の歴史は古く、松平家の氏神として若宮八幡を奉祀し、元和五年(1619)に久能山東照宮より徳川家康公の御分霊を勧請して合祀して以後、『松平の権現様』または『松平の東照宮』と呼称され、立身出世の神、政治の守神、厄除けの神として広く崇敬され親しまれている」
もともとは「八幡神社」で、あとから「東照宮」を勧請している、と。
自分の氏族出身者が神になっちゃいましたからね……祀らないわけにはいかないでしょう。
手水桶のデザインが面白かったです。
あとは、あたりの紅葉をお楽しみください。
もう少し天気がよければ絶好だったんですが……。
「国指定史跡
松平氏は江戸幕府の創始者である徳川家康の祖で、ここ松平町が発祥の地です。
伝承によれば時宗の遊行僧・徳阿弥が諸国を流浪中、東国から三河の大浜、そして松平郷に入り、土豪在原信重の婿となり松平親氏を名乗り松平城を本拠としたのが始まりといわれています。三代信光の時、後の徳川将軍家となる松平宗家と幕末まで松平郷に住した旗本・交代寄合松平太郎左衛門家に分かれました。信光は松平郷から岩津・大給・安城・岡崎城へと侵攻し西三河一帯に進出、一族発展の基礎を築き、松平氏九代目家康が徳川に改姓して天下統一を果たしました。家康の死後、太郎左衛門家九代尚栄の時に東照宮が駿河から当地に勧請され、「ご称号の地」として松平郷は幕府から敬まれてきました。
平成六年、松平氏の居館(東照宮境内)を「松平氏館跡」とし、「松平城跡」、「大給城跡」、「高月院」の4ヶ所が初期松平氏の状況をよく伝えているということから、一括して松平氏遺跡として国の指定史跡となりました。
「松平氏館跡」(現松平東照宮」は、三時期の歴史的な段階がありました。初めは、親氏の居館としての松平氏館、つぎに松平信光以後、宗家と分かれた旗本松平太郎左衛門の居館、そして、居館廃絶後、今日みるような元和年間に勧請されていた東照宮を前面に祭祀した松平東照宮の段階です。境内には「産湯の井戸」と呼ばれる井戸があります。松平家では三代松平信光が当館で出生した際、この清水を用いたことから松平家代々の「産湯の祝泉」となったといわれています。天文十一年(1542)に家康が岡崎城で誕生した際には竹筒につめて早馬で届けたといわれています。また、館跡正面から西側に巡る水掘の石垣は江戸時代初期に整備されたといわれています。」
なかなかよくまとまっていますが、肝心の松平郷のたどった歴史についてはほとんど書かれず。
徳川家の出身地だから史跡に指定された、と書いているようなもので、ちょっと切ないですね。
さて。
引用する文献を探ってみたのですが、どうやら「高月院」のほうが有名だったようで(高いところにあるし、墓所があるようですし)。
「松平東照宮」は、本当に地元の産土だったんでしょうね(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
というわけで、かろうじて見つけたのが、
○こちら===>>>
↑という、もうそのまんまの文献。
とりあえずこれを読んどけばいいんじゃないのか、と思ってしまいますね(全部は読んでいません)。
46コマより。
「村社 八幡神社
八幡神社ハ松平郷ノ産土神ナリ、慶長ノ頃松平太郎左衛門尉尚栄、東照宮ヲ合祀ス、今ノ摂社東照宮是レナリ。祭日ニハ近村ヨリ馬ヲ牽来リテ、之ヲ社前ニ献スルノ例アリ。末社弁財天ハ在原業平ノ守本尊ニシテ子孫ニ伝ヘ、信盛入郷ノ際護持シ来リテ、今ノ地ニ社殿ヲ営ミ安置セシモノナリト云フ。
因ニ■(※同)村社境内ニ在原氏及松平三代産井戸ト云フアリ。在原氏在居以来代々此ノ井戸ノ水ヲ汲ミテ子孫ノ産湯ニ用フ、故ニ産井戸ノ名アリ、或ハ沙汰ナシノ井戸、又ハ奥ノ井戸、又ハ見捨ノ井戸ト云フ、其故詳カナラズ。」
ま、それほどのことは書いていないな……と思ったら、「末社弁財天ハ在原業平ノ守本尊ニシテ子孫ニ伝ヘ」……え、あの「弁天さま」ってそういうことだったんですか?
確かに、史跡の解説文にも、「土豪在原信重」って出てきましたけど、まさか「在原業平」とつながっていたと?
むむむ……面白いところをざっくりと見逃していたようで……。
「産湯井戸」については、「在原氏在居以来代々此ノ井戸ノ水ヲ汲ミテ子孫ノ産湯ニ用フ」と、支配者が松平氏にうつる前から使われていた、という伝承もあるようです(記録はないのかな)。
「沙汰ナシノ井戸、又ハ奥ノ井戸、又ハ見捨ノ井戸」……「沙汰なし」は「音沙汰なし」ということですよね。
「奥の井戸」はまぁ分かるとして、「見捨の井戸」ってなんでしょうね……「見捨てる」?
何を「見捨てた」んでしょう……「見捨てた」から、それっきり「沙汰なし」……ああ、そうか、「見捨て」は
「産み捨て」
なんですね、きっと。
「産湯」に使われたのと同時に、「嬰児殺し」の場でもあった……のかどうかは妄想なのでわかりません。
でも、「産湯井戸」の由来書きにもありましたが、「氏神八幡の宮の前庭」にあるんです。
育てられない赤子を神様に託す、というのはありそうな話ではないでしょうか。
問題は、この「氏神八幡」の境内に、誰でも入り込めたのかどうか、ですけれども。
あ、妄想ですから。
それにしても「松平郷」、面白そうなポイントでした。
次は「高月院」まで行ってみましょうかね。
また紅葉の時期、でもいいですね。