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神社仏閣ラブ(弛め)

「片山八幡神社」(補)

さて。

手始めに、いつものように『尾張名所図会』を探ってみたのですが、それらしきものがなく……困ったときの、

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

↑『名古屋市史』。

144コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

「八幡社
八幡社は東区大曽根町坂上東側に在り、境内千百八十五坪八合九勺、徳川時代には一町四畝歩あり、往古よりの除地なり、 海邦名勝志に男山八幡を勧請すと云へと、其年時不明、元禄八年藩主光友、東照宮祠官吉見民部大輔竝に嫡子左京大夫幸和に命じて再興せしめ、十一月十三日落成して遷宮す、近世本社を片山神社と称し、明治維新前まで西春日井郡杉村の片山神社と争をなし、片山八幡宮の幟今に存す、明治維新前までは徳川家より修理等行はれしが、維新以後氏子持となり、明治初年村社に列す、祭神中央は品陀別命、左は天照大御神、右は菊理媛命 御正体は再興の時、江戸高田の穴八幡の御宮に模したり なり、神殿、 元禄八年建立 、拝殿、社務所等あり、境内神社は宗像社、大国主社、若宮八幡社、白山社、青麻社、神明社賀茂社、松之尾、浅間両社合殿、猿田彦神、稲荷両社合殿、児子、津島両社合殿、秋葉社愛宕社、金刀比羅神社の十三所あり、藩主光友以来合力米十五石を給せられ、毎年四度の祈祷には、料物銀一枚と三十六匁宛を給はる、外に大曽根村より御供料として田一段、畑二段を寄進せり、共に除地なり、(略)」

 

元禄八年藩主光友、東照宮祠官吉見民部大輔竝に嫡子左京大夫幸和に命じて再興」

 

元禄八年以前のことはよくわかりませんが、荒廃していたということが伝わっているようです。

 

「近世本社を片山神社と称し、明治維新前まで西春日井郡杉村の片山神社と争をなし」

 

↑……「片山神社」の本家争い、ということでしょうか。

それでは、と『尾張名所図会』をもう一度探ってみると、見落としていましたよ。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑126コマです。

 

八幡宮
大曽根町にありて、大曽根八幡と称す。鎮座の年月定かならず。国君瑞龍院殿、元禄八年八月本社瑞牆等を造り替へ給ひ、御正体は江戸高田穴八幡を模し給ふ。又山田即斎といへるを江戸に下し、穴八幡の神楽拍子を習ひとらしめ、ここの神主慶徳院源之丞直矩に教へさせ給ひしとぞ。
末社 弁財天社・須原社・牛頭天王社・松尾社・恵毘須社・稲荷社・賀茂社愛宕社等あり。
神宝 神楽太鼓。甚古くして、胴内に文字ありて、『修補之檀那大里左京盧貞禅尼。文亀元年辛酉十月二十八日。観福寺奉施入太鼓云々』と見えたり。もとは知多郡木田村観福寺の太鼓にてありしなるべし。
(略)」

 

名古屋市史』に比べると、末社の数が少ないような気がしますが、あちらは昭和の文献ですので、明治以後合祀されたりしたものは当然含まれていないでしょう。

図絵もあるので、そちらで末社は確認していただければ(画面手前のほうにあったりするので、探してくださいね)。

お次は、

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 2 名古屋

 

↑『尾張志』です。

10コマより(適宜スペースを入れています)。

 

「八幡社
大曽根坂上にあり 鎮座の年月知かたし 誉田天皇天照大御神菊理媛命を配享するよし社説にいへり 又瑞龍院君致仕し給へるのち大曽根の御屋敷にすませ給ひしか当社のきびしく荒廃に及へるを深く歎りせ給ひ元禄八年八月命を下し給ひ社頭神殿ことごとく新たに造替せしめ給ひ 御正体の御筥は御直封に江戸の穴八幡の社の御筥にひとしく斎奉り収め給ひ 慶徳源之丞直矩をはじめてここの神主に命せられ山田卜斎を江戸に下して穴八幡社の神楽拍子を習ひとらしめ帰参り さて神主に教授させなとまても萬■■■■■掟させ給ひ あまたの神宝まで御寄附ありてことに御崇敬深かりしあまりに同年九月十五日はじめて御名代社参のをり麻料の白銀献らしめ給へりより御代々継々然る例今に絶すといへり さて此社を近き年ころ神名式に見えたる山田郡片山神社也といふ説あるにつきて此社伝地理なとよく問聞見明たるにさい■■かりのゆかりなきにしもあらねと的證なけれはいかがあらむ されとも地理は片山といふへき形勢なりて古社ともおほしきよしは 此社往古は熱田の社家大原某が代々奉仕し来りて大社なりけむよしもいひ伝へたるに 此森近き田地の字に神田太鼓田なといふも今にいひ伝へたると思へはなみなみの小社とはたかひて 縁ありけなる古社とおほしきに 此社地よりいと古代の製形なる土器なとも多く堀出せる事ありとそ されとも古伝説を失へる後に八幡と祀られましませは其質は知かたくなむ
摂社 神明社 洲原社 弁財天社 天王社 児神社 松尾社 稲荷社 加茂社 恵比須社 大黒社 阿多古社 (以下略)」

 

読めなかったのは、ほぼ変体仮名です。

 

「瑞龍院君致仕し給へるのち大曽根の御屋敷にすませ給ひしか当社のきびしく荒廃に及へるを深く歎りせ給ひ」

 

どうやら、「徳川光友」の屋敷が大曽根にあったようです(無知)。

 

「此社を近き年ころ神名式に見えたる山田郡片山神社也といふ説」

 

ああ、何を争っていたのかと思ったのですが、そうですか、式内社の「片山神社」かどうか、についての争いだったのですね。

尾張志』の成立年代から、江戸時代後期にはすでに論社(式内社に比定される社が複数あって特定できない場合、そう呼ばれるようです)になっていた、と。

ということは、もう一つ「片山神社」があるということですね……(検索して、「片山八幡神社」の参拝を終えてから、そちらに向かいましたので、次の記事にて)。

後半に書いてあるのは、

 

「地理的には片山と呼ばれるような地形をしている」

「「熱田神宮」の社家が代々奉仕していた大社であるとの伝承がある」

「付近の字に神田、太鼓田などが残っているということは、けっこうな規模の社だったようである」

「社地からは古代の土器が出土している」

「でも古い伝承は失われて、どうして八幡さまになっちゃったのか、実際のところはわかんない」

 

といった内容です。

「徳川光友」は二代藩主ですから、300年前にはすでに八幡さまで、古い伝承が失われていた……いろいろなものが伝わっている我が国ですが、失われているものも相当多いことを思います(それを利用して陰謀論とか、妄想とかが捗るんですが)。

おまけで、

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張国地名考

 

↑も引用してみます。

80コマより。

 

大曽根(略)
此村今は御城下より陌続となる世俗大曽根口といふ名古屋の艮の出口也木曽街道大井駅へゆくを下街道といふ岐より右の方へ行は瀬戸街道なり
曽根は仮字なり橋守部曰】曽根と呼地名国々に多かる何れも城下市場など一里の後乾艮等の隅なる地をいふを見れば脊根の義にて根は根本などいふに等しく一里に近付たるよし也予がもと住し下総国葛飾の郡に中曽根川曽根などいふあり皆本郷の脊合なる地也播磨の曽根和泉の曽根なども亦しかり
【瀧川弘美曰】大曽根八幡の社是なり社司は慶徳氏といふ此宮地は往昔の山田郡片山天神にして 神大伴武日命 もとは大曽根村の産神なりしに元禄中瑞龍院公の御時是は何の神■と御尋ありしに里人しらず候と答ふよりて吉見氏へ御尋ありければ傍題に八幡宮と申上しかば御造営ありて大曽根御屋敷(乾方)の守護神に祭り玉へり本地堂の観世音も西の方へ引て関貞寺といふ禅刹に成さて村民は八幡御造営の厳重を恐れて夫より此かた同所天道宮を本居に定むるなり其後杉村の蔵王の社人片山の社号を拾ひて式内の神社とせるものは末世の人情憎むべし
【正生考】大曽根八幡宮鎮座の年月詳ならず国君瑞龍公元禄八年八月本社瑞牆等を造替玉ひ御正体は江戸高田の穴八幡を模し玉ふ又山田即斎といへるを江戸に下し穴八幡の神楽拍子を習ひ取しめ爰の神主慶徳源之丞直規に教へさせ玉ひしとそここをもて再按に瀧川氏蔵王の神主が片山の名を奪ひしとのみ心得て常に不快に思はれて強て大曽根を片山にせられしなるべし片山神社は七尾永正寺の天神ならんもしるべからず」

 

 

「世俗大曽根口といふ名古屋の艮の出口也」

 

なるほど、鬼門(艮)だったことは間違いないようで。

「瀧川弘美」の説によれば、本来ここが式内社「片山神社」で大曽根産土神だったが、「徳川光友」が何の神か尋ねたのに土地の人が答えられなかったので、「吉見」氏に尋ねると「八幡宮ですわ」と答えた、と。

その後、かなり大掛かりに造替がなされて、土地の人はびびってしまい、「天道宮」を産土神にしちゃった上、杉村の「蔵王権現」の社人が「片山神社」の名前を拾っちゃったのはけしからんなり〜……という感じです。

それに対して『尾張国地名考』の著者「津田正生」は、

 

「再按に瀧川氏蔵王の神主が片山の名を奪ひしとのみ心得て常に不快に思はれて強て大曽根を片山にせられしなるべし」

 

つまり、「瀧川さんは、「蔵王権現」の神主が片山の名前を奪ったってことが相当不愉快だったらしくて、あえて大曽根を片山とみなして憤っておられるんですなぁ〜」と突っ込んでいます。

この本は「地名考」ですので、地名に基づいての突っ込みというところはさすがかな、と。

真偽はいかに。

 

ところで、

 

「【橋守部曰】曽根と呼地名国々に多かる何れも城下市場など一里の後乾艮等の隅なる地をいふを見れば脊根の義にて根は根本などいふに等しく一里に近付たるよし也予がもと住し下総国葛飾の郡に中曽根川曽根などいふあり皆本郷の脊合なる地也播磨の曽根和泉の曽根なども亦しかり」

 

↑この「ソネ(曽根)」に関する説は結構面白いな、と思いました。

「曽根」が全部、中心地から北東(艮)だったりすると、「根」はむしろ「艮」という文字が入っているから選ばれたんじゃないか、とひっそり思いました。

じゃあ「乾」(北西)はどうすんだ、って話ですね。

妄想ですらない。

 

なお、神社でいただけるパンフレットには、元禄八年に「徳川光友」が奉納した棟札の全文が掲載されています(素敵)。

中央は「八幡神社」でいいのですが、左「神明神社」、右「洲原神社」……あれ、「菊理媛命」が御祭神なのに「白山神社」じゃないんですね。

 

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洲原神社 - Wikipedia

 

↑は岐阜県美濃市にある「洲原神社」の記事ですが、ここには白山神社の前宮」で、御祭神は伊邪那岐命」「伊邪那美命」「大穴牟遅神と書かれています。

あえて「白山神社」を勧請するのを避けたんでしょうか……ふむ、よくわかりません。

というわけで、次回は「片山神社」の記事を予定しています〜。