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所用(推しごと)のため、大阪に旅立ってきました。
とりあえず、いつも通り「露天神社」にお詣りを。
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「露天神社」〜大阪巡り(続) - べにーのGinger Booker Club
いやあ、本当に行きやすい神社なもので……。
で、本命と言いますか、所用の合間に行けるところを検索してたどり着いたのが、「大阪天満宮」でした。
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参拝者の方が多くて……写真の角度が微妙ですが、拝殿です。
狛犬さん。
独特……大阪型ともちょっと違……うのか……な?
(狛犬に関してはまだまだまだまだ)。
「天満天神の水」。
大阪には「四ヶ所の清水」というのがあったそうです。
「御井神」。
湧水にはもちろん、井戸にも神様はいらっしゃるのです……こんこんと湧き出ずる泉なんて、神の所業ですよね(当時の人にしてみれば……現代人にも不思議ではあります)。
……唐門、かな。
天井には、十二支が描かれた、方位盤(?)があります。
正式名称は何ていうんですかね……どういう基準で作られているのか、も気になります。
梅の咲き綻ぶ季節でした。
「和魂漢才」の碑は、「天満宮」に多いですね(「菅原道真」公だから、当たり前といえば当たり前、ですか)。
今やすっかり陸の上の難波ですが、八十島祭のこともあり、ある時期まではかなり入り組んだ内海だったようです。
「老松神社
(略)
由緒 古く神功皇后九州筑紫より帰航の折 巨松に風波の難を避け樹下に社を建てたのが始まりと伝う のち貞観二年(八六〇)白砂青松の地(旧老松町三丁目)を卜し 老松神社を建立す(略)」
「老松社紅梅殿」と「白太夫社」。
なかなかの謎ですが、紅白で揃えたのかな、と素人は考えます(私のことです)。
ちょっと高いところにありますが、古墳ではないでしょうね……。
「蛭子門の由来
当宮には六つの門がありそれぞれに独自の用途と由来を持っている 当門は入ってすぐ左手に「戎社(蛭児社)」が祀られていたことから「戎門」と呼ばれていた。
江戸時代の「戎社」では毎年の正月・五月・九月の十日に「蛭児尊遷殿神事」を斎行しておりこの年三回の「十日えびす」には数多くの参拝者が当門を利用した
その後「戎社」は境内西北に移されたが「戎門」の名は変わらずに今に伝えられている(略)」
何故に「戎社」がこの場所にあったのか、というほうが気になりますよね、怨霊的な意味で。
表大門。
何か、お祭りの日だったわけではないと思うのですけれども、屋台が……大阪ってことか(偏見)。
十二支の方位盤のところに戻ってきました(すいません、写真を撮るためにうろうろしていたので、参拝順が自分でも思い出せません……)。
「宅間流算術」……かっこいい……。
算額は、「天満宮」に奉納されることが多いですよね(そりゃそうだ)。
「登龍門
当宮は天保八年(一八三七年)の大塩の乱で本殿及び多くの社殿が焼失しその後弘化二年(一八四五年)に再建され現在に至っております(略)」
「大塩平八郎」……あれって、1837年だったんですね……最近だ。
時期的なこともあり、「天満宮」でもあるので、梅。
そして、「天満宮」といえば、「筆塚」です。
「薬種商有志」はまあわかるのですが、「御湯講」ってなんだろう……温泉巡りとかする講かな……。
をを、久々に神社で猫さん発見!
テンションが上がりますよね(?)。
「亀吉大明神」「鶴姫大明神」。
うむ……案内板があったような、なかったような……。
「妻社
浪華古図によれば渡辺橋北詰に鎮座ありしを当宮にてはこの社の廃れしを再興せんと昭和二十二年九月社殿を造営し鎮斎す
祭神 大己貴大神(略)」
「妻社」っていうのは、どういう意味合いなのでしょうね……。
は……は……はっくま〜い!(わかる人にだけ)、の「白米社」。
回廊のようになっており、後ろに回れるのです。
ロマン溢れる作り。
「狐、天狗の爪研ぎ石」……お稲荷さんということか。
真後ろ。
後戸、というわけではないでしょうが、どこにもあるのでしょうかね。
にゃんこ発見。
「稲荷奥宮
昭和六十三年師走二十五日 伏見稲荷大社より神璽奉斎 白米稲荷社の奥宮と称し奉る
(略)」
「小社 白米社
祭神 稲荷大神
由緒 創祀伝来等は不詳なれども文政七年刊神仏霊験記図会に記され往時より民庶尊崇厚かりき(略)」
「住吉社」。
「吉備社」。
「八幡社」。
「松尾社」。
この辺り、時間がなくなってしまって、ゆっくり回れず……無念。
「霊符社」の狛犬さん。
耳がぴん。
「霊符社」。
「鎮宅霊符神」つまり「天之御中主神」を祀っている神社です。
◯こちら===>>>
「鎮宅霊符神社」〜奈良めぐり - べにーのGinger Booker Club
↑この辺りの過去記事をご参考に。
「霊符社」遠景。
さて。
のんびりのつもりが大急ぎになってしまったのですが、
◯こちら===>>>
大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第1輯第5編摂津名所図会,大日本名所図会刊行会,大正8. 国立国会図書館デジタルコレクション
http:// https://dl.ndl.go.jp/pid/959908
(参照 2023-07-09)
↑『摂津名所図会』を見てみましょう。
p440です(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
「天満宮
天満にあり。本社中央大自在天神・相殿(東ニ)手力雄命・(東三)法性坊尊意・(西ニ)猿田彦大神・(西三)蛭児尊 村上天皇の御宇、天暦年中勅願によつて初めて此地に建立し給ふ、今に至るまで所をうつさず、社職は神主・社家の外に僧侶の加る事なし。
あすも見ん松に大江の夕がすみ 宗祇
夫此地を天満と号するは、当社鎮座し給ふ故なり。
大将軍祠 上古浪花に皇居ありし時四隅に鎮守し給ふ其一なり。故に地主神と崇め奉る。
蛭児尊・遷殿末社 神明・八幡・住吉・十二社権現・荒神・宇賀神・祇園・老松殿・紅梅殿(倶に相殿)。白太夫。此外摂社福島三所天満宮、当社より神事を勤む。神主境内鎮座霊符神同末社稲荷、住吉・松尾の二前は相殿に祭るなり。其外宇賀神・吉備公等を祭る。近年西の方に巍々たる封疆(どて)を築いて草木を植ゑ、末社を遷すもあり、四時詣人多く、社内の市店・観物・軽口噺・植木屋の鉢植・泉水の金魚・小山屋が料理、月毎の二十五日の群参昼夜道に満てり。鉾流しの神事は六月二十五日なり。朝より御迎船として福島の産子はみやびやかに船を飾りて、一様の浴衣を着し、櫓拍子揃へて難波橋に到り、種々の船印に吹きぬきを翻し、飾人形一様の浴衣帷子に、太鼓を拍つて踊り狂ふ。神輿は難波橋より船に移し奉り、警固の役船前後に列し、音楽を奏して戎島の御旅所へ渡御あり、祭礼の船、行列巍々玲瓏として浪花の美観なり。数百の樓船川の面に所せき迄雙び、陸には桟敷を打つて幕引きはへ、金屏立て渡して稲麻の如し。諸侯第には家々の紋の挑灯を照し、船遊は三絃をならし歌の聲麗しく、花炮は星降り・昇り龍、水の面にかがやき、市中の車楽・北新地の妓婦の◼︎物・頓狂言限もなくありて、大坂第一の賑なり。京師の祇園会・浪花の天満祭は聞くよりも見るが百倍なるべし。秋祭は九月二十五日なり。流鏑馬あり。」
図絵も、何ページかにわたって掲載されているので、ご確認を。
境内図は、現代とそれほど変わっていません(まあ、江戸末期ですから)。
名所図会シリーズは、基本的には観光案内という性質のものですので、とにかくこの神社の祭りがどれだけすごいのか、を紹介するのに紙幅を割いている感じですね。
途中で「踊り狂ふ」って出てきますからね……いろいろな出店、見せ物が出ている様子なんかは、現代にまで受け継がれているように感じます。
◯こちら===>>>
『大阪府誌』第5編,大阪府,明36.4. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/765475
(参照 2023-07-10)
『大阪府誌』もみてみましょうか。
p105です。
「天満宮
天満の大工町に在り、府社にして祭神は天満大自在天神即菅原道真なり。其の初は今の地より北方明星池が辺に鎮座ましまししが後此處に遷座ありしものなりと。社説に依れば昔時此の附近に大将軍森と称する広大なる森林あり、豊崎宮の東南に方り孝徳天皇の白雉年中該皇后の四方に大将軍を祭られし其の旧跡の一なりしが、天暦の頃其の林中に霊光ありて諸人みな奇異の想を起ししに恰菅神里人に神託ありて浪華の梅を慕ひ此處に影向すと告げ給ひしかば里人奏して其の霊を祭りきといふ。其の建立は村上天皇の御宇天暦三年にして天満の名も亦是れより起り、後、天満の市中漸次繁盛を加ふに至り終に此の地の産土神として寛文年中更に今の地に移しまつりき。享保九年火災に罹りて本殿を失なひ再建せしに天保八年に至りて大塩平八郎の徒大砲を宝蔵に放ちて本殿また焼失し、爾後、再建の設計ありしが飢饉の余波を承けて果たすを得ず、十年の久しきを経て之を遂ぐるを得しが当時幕府の令せし節倹の主意を守り尚いまだ給電内部の装飾等十分なること能はず、荏苒、明治三十四年に至り数年来の大修繕建築初めて竣工を告げ、同年十月五日正遷宮の式を挙げき。此の改築には大いに意匠を凝らし其の費用の如きも十万円の巨額に達せりと云ふ。結構荘麗にして數座の末社に至るまで皆雅ならざるはなく、市中稀に見る所なり。式日以後数日間は祭典挙行せられ、其の盛大にして市中一般の殷賑なりしこと蓋空前にして又恐らくは絶後ならんといふ。
「大将軍」自体は陰陽道の八将神で、「桓武天皇」が都の四方に「大将軍神社」を置いたとか。
「孝徳天皇」の「難波長柄豊碕宮」での先例に則ったのか……そうした伝承が残っている、というところで、では京都の「大将軍神社」はみんな「天満宮」になっちゃったのか……そんなことはなさそうですが……「大将軍」が、仏教で言えば「他化自在天」と同一視され、「菅原道真」公が「天満大自在天神」と呼ばれるようになり、一緒にしちゃえ……という意識が働いたのか……。
最初は「明星池」に鎮座していたというのも、「大将軍」が金星絡みの方位神というところに合わせた感じがしますね。
なお、『大阪府誌』の続きには「明星池」の項目がありまして、どうも星に関係したっぽいです……後世の附会という可能性ももちろんあります……日本では星の神というのはあまり祭られず(オリオンの三つ星っぽい「住吉三神」とかは別です)、たいてい祭られているところは、星(隕石)が落ちたところ(と考えられた)っぽいのです……隕石あるかも……まあそれはいいとして、どうやら「七夕池」というのもあり、その近くに「七夕神社」があり、1300年前からあるらしく、しかも御祭神が「若日女霊神」ときています……水辺、七夕、「ワカヒルメ」……記紀神話をよくご存知の人が揃えたような気がします……。
ところで、井原西鶴『好色五人女』の中の「情を入れし樽屋物かたり」は、大坂天満で起きた事件が元となったとされていますが、その中に、「天満の七不思議」が出てくるのです。
「天満に七つの化け物あり。大鏡寺の前の傘火、神明の手なし児、曾根崎の逆女、十一丁目の首しめ縄、川崎の泣坊主、池田町の笑ひ猫、鴬塚の燃え唐臼」
作中で「七不思議」と書かれてはいませんが、江戸の「本所七不思議」の向こうを張ったんじゃなかろうか……と思ったりします。
これが井原西鶴の創作なのか、当時そうした噂があったのか……江戸と並ぶ都市だっただけに、大阪の当時の都市伝説も面白そうです(やっぱり石燕や水木大先生が絵にしていないと、知名度が落ちますけども……)。
日本中の「七不思議」(妖怪系)を集めてみたいものです。
というわけで、全然参拝ができなくなってしまった2022年をちょこっとずつ進めたいと思います。