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神社仏閣ラブ(弛め)

「野間大坊(大御堂寺)」(愛知県美浜町)

2/23。

愛知県にいながら、あまり半島方面をせめていなかったなぁ……と思いまして、野間大坊(大御堂寺)」に行ってみました。

 

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源義朝」公の最期の場所、なのでした。

高田崇史氏の小説で思い出したのですよね……。

そういえば、「源頼朝」公の母は、「熱田神宮」の神官の家でしたっけ……案外、名古屋と鎌倉幕府が関係深い……。

 

 

 

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野間大坊」。


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と思わせて、「大御堂寺」。

「大御堂寺」通称「野間大坊」、なのでしょうが、今ではすっかり「野間大坊」のほうが知られている気がします。


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門……かな……。


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蟇股に狛犬さん発見。


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「大御堂寺 大門」。


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……えっと、これは、算額、かな……。


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本堂。


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象さんと狛犬さん。


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屋根には狛犬さん……飛び狛ではないか……。


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本堂の案内板。

 

「鶴林山大御堂寺一山の根本堂。

現在の建物は3度の火災などにより、宝暦4年(1754年)に鎌倉様式にのっとり再建されたもの。本尊は平安時代作の「阿弥陀三尊像」(左から勢至菩薩阿弥陀如来観音菩薩)。

向かって右側に真言宗の開祖弘法大師、左側に新義真言宗の開祖興教大師をおまつりしてある。(略)」

 

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「大御堂寺」の沿革。

 

「大御堂寺は、通称野間大坊として皆様に親しまれています。

その歴史は古く天武天皇(六七三〜八六)の時代に始まり聖武天皇(七二三〜四九)の時、行基菩薩が中興します。後に弘法大師が諸国行脚の際留錫し、一千座の護摩を焚き、庶民の幸福を祈りました。承暦年間(一〇七七〜八一)に白河天皇勅願寺として、大御堂寺と称せられました。後に源頼朝公が亡父義朝公の菩提を弔う為に建久元年(一一九〇)に開運延命地蔵尊と不動明王を奉安され、七堂伽藍を造営します。そして秀吉公、家康公の庇護を受けて発展。現在尾張地方随一の祈祷寺として信仰を集めています。」

 

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武将印……御朱印ブームにあやかってか、いろいろな印があります……しかし武将印は、家紋が入っているのが、勉強になる気がします。

多いですな……。


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源義朝公の墓所」。

 

「『源義朝』とは、鎌倉幕府を開いた『源頼朝」、平家を滅ぼした『源義経』の父である。

1160年(平治元年)の平治の乱平清盛に敗れた源義朝公は本拠地である関東地方へ落ち延びる途中、この地野間を治める家臣の長田忠致・影致親子のもとへ身を寄せた。

ところが長田忠致・影致親子は裏切りの企てをする。義朝公へ「どうぞ朝湯へお入りください。」と勧め、入浴中の裸の義朝公を風呂場にて切りつけ命を奪った。武芸の達人であった義朝公は「無念。我に木の太刀の一本でもあればむざむざ打たれはせん。」と言って絶命した。後の世の人々が義朝公の菩提を弔うため、そのお墓にお花の代わりに木太刀をお供えする習わしとなる。

いつしか、願いをかなえる武将『源義朝』として、人々が願いをしたためた木太刀をお墓にうずたかく供えるようになった。」

 

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というわけで、こんな感じです。

卒塔婆のようにも見えますが、木太刀です。

一定期間が過ぎれば片付けられるのでしょうが、なかなかない光景です。

ある意味で怨霊になってもおかしくない、のですが……時代的にはそろそろ怨霊になりづらかったのか……あるいは、敗残の将だったことが怨霊となるパワーを弱めたのか……結果的に子どもが大活躍しちゃったのでその分差し引かれているのか……高田崇史先生が書いておられたような気がします(本が見つからない……)。


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織田信孝の墓」。

おっと、自害したのはこの辺りでしたか。


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池禅尼の塚」。

こちらはお墓ではなく、供養塔。


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「鎌田政家と妻の墓」。

源義朝」公の腹心だったようですが、主君の前日に殺された、と。

妻はついてきたのか……「平治の乱」で負けて関東に逃げる途中だったのに、妻もついてきたのですね……ううむ……ちょっと疑問。


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御廟の標。


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この右手奥に、「源義朝」公の墓所があります。

左にある建物で奉納する木太刀を買うのだったかな。


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いろいろと碑がありました。


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本堂遠景。


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「弁天」様がいらっしゃいました。

ここまでちゃんと様式が守られる神様もなかなか少ないかと(島、なのです基本)。


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……これはどちらだったか……。


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本堂向かって左手から。


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「平康頼公供養塔」。

平氏源氏の垣根を越えて、という話は時々ありますが、まぁそもそも平治の乱の前には平氏対源氏でもなかったわけなので。


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鐘楼堂。

尾張地方最古の鐘、だそうです。


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五重塔跡。

そうか、七堂伽藍だったのですよね、五重塔もあったはず。


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野間(地名なのです)周辺の観光マップ。

海が近いのです。


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どうも。


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「悠紀殿」。

 

昭和天皇の即位後初めての新嘗祭大嘗祭)のために京都御所内に建てられた悠紀殿。

当山第13世法印興円阿闍梨の尽力により昭和4年10月1日に当時の宮内省より下賜され、ここに移築した。

現在は両界曼荼羅を掲げるお堂。本尊は平安期作の『大日如来』。

この『大日如来』は源頼朝が境内に建立した五重塔に安置したものを悠紀殿本尊として移す。」

 

……ちょっとなかなか貴重な建物でした。

運動したからって簡単に下賜されるものではなさそうですが……。

 

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そんな建物があったかと思えば、マニ車発見。


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おっと、また看板を撮っていた。


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野間大坊 客殿」。

 

豊臣秀吉公の晩年の居城『伏見桃山城』の一部を寛永年間(1624〜43)に移築したもの。愛知県重要文化財指定の客殿建築。本尊は『開運延命地蔵菩薩』(秘仏)。仏師定朝の作。源頼朝公が幼少のころから拝んでいた地蔵尊

1190年に頼朝公により当山におさめられた。他に聖観音阿弥陀如来不動明王毘沙門天、大黒天、弘法大師をおまつりしている。(略)」

 

これまた、なかなか貴重な……。

源氏の末裔を名乗った「徳川家康」ですから、源氏関係の寺社はかなり優遇された、ということでしょうか。

 

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いや、立派……中に入ってみたかった……。


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……まあ、陽の石ですね。

リンガ、かな。

愛染明王」なのか……。


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陰の石、です。

「弁財天」……うむ、わからなくもないですが、ちょっと……。


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でかいマニ車があった……思わぬところで出会いました。

そういえば、「経堂」とか「経蔵」って、回転させることができるものがありますよね。

あれは、一種のマニ車なのか……と今更ながら気づいてみました。

で「世界で最初」って本当なのか……。


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「血の池」。

戦国時代なんて、血の池だらけですわな……。


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御朱印と武将印。

何でも印にすればいいというものではない、というご意見も、印にすれば興味を持ってくれる人が増える、というご意見も、どっちもありだと思います。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第1輯第9編尾張名所図会,大日本名所図会刊行会,大正8. 国立国会図書館デジタルコレクション

大日本名所図会 第1輯第9編尾張名所図会 尾張名所図会. 上,中,下巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2023-08-01)

 

↑『尾張名所図会』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

忘れがちなのですが、知多って尾張なんですよね……昔の地理感覚って、難しい。

p78です。

 

「大御堂寺

柿並村にあり。真言宗、長野萬徳寺末。当寺所蔵の天文三年甲午三月の勧進帳に、白河院の御建立、承暦年中草創と見え、[東鑑]に、文治二年閏七月二十二日、前廷尉平康頼法師。浴恩沢。可爲阿波国麻殖保々司(元平氏家人散位)之旨。所被仰也。故左典厩(義朝)墳墓在尾張国野間庄。無人于奉訪没後。只荊棘之所掩也。而此康頼。任中赴其国時。寄附水田三十町。建小堂。令六口僧修不断念仏云々。仍爲被酬件功如此云々。と見えたり。或は、白河院の御宇、既に此寺ありと云々。しかるを康頼別に一堂を建つるといへり。享禄四年十月十三日の兵火に消失し、只大御堂、及び楼門のみ存せり。天文三年甲午三月、伽藍を再修せしを、慶長五年の秋、九鬼大隅守当郡を侵掠せし時、坊舎を焼き払ひてより頽廃せり。近年重修して又舊のごとく、堂宇儼然たり。抑平治元年己卯十二月、左馬頭源義朝、京軍の爲に敗北して、濃州青墓の長者、大炊が許に落ち着き、夫より東国へ下らんとし給ひしに、大炊は懇にもてなし、ここにて年を送り、しづかに御下向あるべしと申しけるが、ここは海道ゆゑあしかりなん、早く尾張の野間に至り、長田を頼むべしとて、いそがせけるに、はや宿の者共聞きつけて、二三百人押し寄せたり。是を見るより佐渡式部大輔重成、討死して通し参らせんとて、馬にのり、寄手の者を散々に蹴ちらし、子安の森に入り、左馬頭義朝自害するぞと名のりつつ、面の皮をはぎ、腹掻き切つて空しく成りにけり。此ひまに義朝は、大炊が弟鷲栖玄光を頼み、夜にまぎれ、小舟に乗りて、株瀬川を下り、十二月二十九日(絵伝に廿八日。)当所長田庄司忠宗(或は忠致に作る。)が亭に至り給ふ。御供には鎌田兵衛政清・(或は正清・政家等に作る。)平賀四郎義宣・澁谷金王丸、及び玄光ともに四人なり。忠宗は譜代の御家人にして、しかも政清が舅なれば、君臣ともに心解けて、暫くここに滞留あるべき由なり。忠宗外には崇敬の礼を厚くし、義朝を書院に請じ置き、随陪の壮士を遠く別間に憩はせ、厨には山海の珍味を集めて、饗応善美を盡すといへども、内には竊に逆意を挟み、其嫡子景致(或は景宗に作る。)を一間へ招きいふやう、かねて六波羅殿よりの御教書に、義朝を討つて進らせなば、勧賞望のままなるべきよし、しかじかと語れば、景致速に同意し、かかる折しもあれ、たとひ我君、是より東国へ下り給ふとも、平家の権勢盛なれば、必定人手にかかり給はん、しかじ吾等御首を討ち奉りて、平家の恩賞を得、永く子孫の栄華を全うせんにはと、素懐を密談し、さて君は、武勇猛威の名将にましませば小勢にわたらせ給ふとも、討ち奉らんこと大事なり。十全の策には、湯殿へすかし入れ奉りて、その時聟の政清をば別間へ招き、酒肴に饗すべし、君討たれ給ひぬと聞きて走せ出でなば、景致妻戸の陰に待ち合せ、彼を斬り伏せん。又橘七郎は、無双の大力なれば、組手と定め、弥七兵衛及び濱田三郎は、達練の武者なるにより、さし殺しまゐらせよと密にてふじ合せ、三人を床下に忍ばせ置き、明る正月三日、忠致義朝の御前に出で、此頃道すがらの御労を休め給はんため、御湯召さるべしと、懇に申しければ、頓て湯殿に入り給ひぬ。かくて金王丸は、御刀を持ちて伺候せしが、程ふれども御浴衣参らせず、諸事ふつつかなれば、金王丸大いに怒り、自ら取りにきける其隙に、床下より橘七郎飛んで出で、組み付きしを、義朝騒がず、心得たりと捕つて押へ、膝の下に踏み敷き給ふ。続いて弥七兵衛・濱田三郎も左右より打つてかかり、無二無三に脇の下を刺し通しぬ。此時政清はなきか、金王丸はといひもあへず、終に空しくなり給ふ。(行年三十八。)しかして御首を打ち取り、相図の者に渡して出づる所を、金王丸帰り合せ、此體を見るより早く、三人ともに湯殿の口にて斬り伏せたり。政清は夫ともしらず、忠宗がもとにて酒飲み居けるが、此由を聞きつけ立ち出づる所に、かねて妻戸の陰に待ち設けたる景致、逃さじと一刀に、諸膝斬つて討ち伏せけり。(行年三十八。義朝と同年なり。最期の始末に諸説あれど略す。)玄光も頭殿の討たれ給ひしと聞きて、こは政清が所業ならんと、長刀かいこみ走せ廻るに、政清もはや討たれぬと聞きて、さらば長田をこそ討たんとて、金王丸と二人諸共に、乱橋にて数多の敵を斬つて廻り、(乱橋は田上と長田が宅の間にあり。)長田を尋ぬれども、父子更に見えざれば、さては御首をもつて上洛しつらん、追駆けんものをと、厩に入りて馬二疋を引き出し、打乗つてみごと礙へばささへて見よと呼ばりしかども、遠矢少し射かけたるのみにて、敢て近づくものもなかりけり。玄光猶も大音に、我今六十三歳、軍に会ふこと十度、いまだ一度も敵に後を見せじと、逆馬に乗つて馳せ行き、終にわしのすに留まりぬ。金王丸は都へぞ上りける。さて政清が妻、かかる夫の横死を聞くより走せ来り、屍を抱きて大に悲歎し、父の不道を恨みつつ、終に夫の刀を取りて自害せり。(諸説異同あれども略す。)かくて長田父子は、池に臨みて御首を洗はしめ、(今当寺の門前に血池といふあり。此池天下に兵乱ある時は、池水血に変ずといふ。又傍に下馬橋といふあり。義朝の厩所を恐れて下馬したる橋なるべし。)是を持ちて上洛し、六波羅の勧賞に望む所に、清盛の喜悦斜ならずといへども、重盛其不義を悪んで、重賞を加えず、ただ壱岐守の號を与へらる。長田案に相違し、猶誅戮せられんもはかりがたければ、早々尾張に下りける。かかる非道の父子なれど、天理に違へる先非を悔い、或は身のなり行を案じつつ、とかくして年月を送りけるが、そののち頼朝公の武威、日を追ひ烈しく成りければ、身を置くに所なく、父子十騎ばかり、羽をたれて鎌倉へ参り、己が罪科を訴へ出でければ、いみじくもまゐりたり。猶身命を惜まず、抜群の軍功あらば、罪を許すのみならず、美濃・尾張を宛て行ふべしとの厳命にて、土肥次郎にあづけられけるが、長田父子、誠に蘇生の心地して、歓喜骨髄に徹し、摂州一の谷の軍をはじめ、数箇度戦功を奏しけり。然るに頼朝公天下平均の後、上洛の序、当地に御駕を枉げられ、先考及び鎌田が石碑を建て、御菩提のため、大御堂寺七堂伽藍を再興し、紀州高野一山の僧侶を請じ、供養あり。かくして長田父子をかうの殿の御墓近く引き来り、兼約のごとく、今身の(美濃)終り(尾張)を賜ふぞとて、磔にしてなぶりごろしにぞせられける。はりつけ松とて、今も山上にあり。何者かしたりけん。

ながらへて命ばかりはいきのかみ身のをはりをば今ぞ賜はる

右の歌を書きて(此歌一説には、長田が辞世なりといへり。)高札をたて、にくまぬ者はなかりけり。已上[平治物語][参考平治物語][東鑑]及び[絵伝]等を参伍考訂して、什が一を略抄するのみ。爾りしよりこのかた、当寺の法灯断絶なく、両将追福の供養怠慢なし。

本尊 三尊の阿弥陀如来

鎮守 神明宮。

鐘 銘に「建長二年十一月十九日。大工藤原光延。勧進沙弥正因」とあり。

源義朝墓 大御堂の東にあり。長田忠宗、義朝の首を京師に傳へ、其骸をここにうづむ。傳へいふ義朝最期の時、せめて木太刀にてもあらばと悔み給ひしより、今も土民瘧を煩ふもの、木太刀を備ふれば愈ゆると。故に墓所に捧げし木太刀、堆をなせり。

鎌田政清墓 義朝の墓の北にあり。

織田三七信孝墓 義朝の墓の南にあり。(略)

平判官康頼墓 山門の西にあり。治承元年、俊寛法師・丹波少将盛経等と、平氏を討たん事をはかり、事あらはれて、鬼界ヶ島へ流されしが、其途中に髪をきり、名を性照と改め、彼島に居る事三年にして、赦免に逢ひ、帰洛の後、東山の雙林寺に閑居して、[宝物集]を著せり。又阿波国の保司に任ぜられしが、任中当寺へ水田三十町を寄附し、一堂をも建立し、義朝の追福をせられしゆゑ、其のち寺僧此石碑を建てしとぞ。

池禅尼墓 義朝墓の東にあり。平治の乱に、頼朝公平家のために既に失はるべき所、平清盛の継母池禅尼、慈愛深く、殊に頼朝公の容貌、尼公鍾愛の亡息左馬頭家盛に彷彿たりとて、平相国に歎き、一向に命乞して、終に遠流の身となりき。頼朝公彼鴻恩を謝せんがため、境内に一堆の墳墓を築き、自ら八軸の妙典を書写して、塚中に収め、尼公追福の営ありしとぞ。又頼朝公はじめ遠流の時、禅尼の守本尊の地蔵菩薩を頼朝公に附属して、尼公示して曰く、早く出家入道して父祖の菩提を訪ひ、此尊像に帰依し奉れとありしを、頼朝公当寺に寄附せられしとぞ。今も其尊像当寺にあり。

大坊 大御堂寺山中、六院の巨擘たり。内殿の本尊阿弥陀如来は、親鸞聖人の彫刻する所にして、水野家代々の守本尊たりしが、神君此尊像に祈願し、大阪夏冬の御陣に勝利ありし事、当山縁起に見えたり。中興長圓法師は、神君の御縁もあれば、慶長年中此寺に遊び給ふ砌、何事にても望あらば申すべきよし仰ありしかば、長圓戦国の風に習ひしにや、心のままに鹿狩すべき地、并鷹御免あれよかしと申せしかば、神君不法の事におぼしめすといへども、鷹簡・鹿簡及び小鳥の證章なんど命じて、有司より下し給ふ。実に不律乱行の事なり。次の住僧秀圓法師、あさましとて、彼簡を深くかくし置きしが、又其次の住僧快圓法師の時、或人より彼鷹鹿の簡を乞ひけるまま、其人に與へしとぞ。然れども小鳥の證章は、今も猶寺伝す。長田は水野氏の人なりしに、神君の御由緒もあれば、其後代々水野家より住職す。今も猶しかり。

(略)」

 

引用が長すぎるかも……怒られたら消します。

どこまでが物語で、どこまでが史実なのかはもうわかりませんが、「源頼朝」が父親の仇を子飼いにしておいて、報償まで約束して、結果言葉遊び(というか呪いか)というのは、何というのか……器が小さいのか大きいのかわからないといいますか……ただ、耐え忍んで源氏の棟梁、征夷大将軍になったわけですから、どこまでも耐える根性はあったのかもなとも思います。

 

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「金王八幡宮」(東京都渋谷区) - べにーのGinger Booker Club

 

渋谷にある「金王八幡宮」は、噂の「渋谷金王丸」にゆかりのある神社でしたね……記憶力……。

 

 

 

ちゃんと読んだのに覚えてないのはこちらもね……。

しかし、毒蛇長刀どうなったんだろう……どうも長刀を使ったのは「玄光」っぽいですが……。

(一応)源氏の末裔を称したかった「徳川家康」としては、「源義朝」縁のお寺ですから、大事に扱ったということなのでしょうか。

尾張もまだまだ行ってみたいところはありますね……がしかし、今年は北陸に是非とも行っておきたい(時間も金もない……)のです……まあ、のんびりと。