べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「金王八幡宮」(東京都渋谷区)

5/19。
というわけで、東京在住中の頃から前を何度も素通りしてきた金王八幡宮へ。

 

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金王八幡宮 ご祈願 ご参拝 東京都渋谷区

 

渋谷のど真ん中にこんな神社が、とか思っても見なかったもので……さすが江戸やで。

 

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狛犬さん。
凛々しい。

 

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あれ……鳥居に戻ったんだっけ。

 

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金王八幡宮
御祭神 応神天皇品陀和気命
(略)
由緒
金王八幡宮は、寛治六年(皇紀一七五二年、西暦一〇九二年)渋谷氏の祖 河崎基家により鎮祭され、基家の子重家が鎌倉街道沿いの要所であるこの地に館を構えて居城として以来、渋谷氏の氏神として尊崇されました。
渋谷重家には嫡子がなく当神社に祈願したところ、大神の御神徳により渋谷金王丸常光のちの土佐坊昌俊を授かりました。金王丸の活躍は平治物語吾妻鏡などにみられる通りであります。当神社は当初「渋谷八幡宮」と申しておりましたのを、金王丸の名声に因み「金王八幡宮」と称するようになりました。
また、境内の金王桜(渋谷区指定天然記念物)は、頼朝が金王丸を偲び植えたもので、一重と八重が混じって咲く珍しい桜で、江戸三名桜に数えられました。
江戸時代には、竹千代(徳川家光)の教育役の青山伯耆守忠俊と乳母の春日局が三代将軍就任を当神社に祈願し、その願いが成就したのは大神の神慮によることと、現在の社殿及び神門(渋谷区指定文化財)を寄進されました。
時代は変わりましたが、現在も青山・渋谷の氏神として数多の崇敬を集めております。
(以下略)」

 

……いかん、全く知らないぞ「金王丸」……。

 

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木鼻。
寄進したのが「青山忠俊」と「春日局」ということで、「日光東照宮」に通じるものがある、と考えていいのでしょうかね。

 

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虎。

 

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龍……と鷹かな。

 

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木鼻。

 

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象……か、獏か……。

 

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金王桜」の解説。

 

源頼朝の父義朝に仕えた渋谷金王丸の忠節をしのび、頼朝が金王丸の名を構成に残そうとして、鎌倉亀ヶ谷の館から金王丸ゆかりのこの地に移植したものとされています」

 

抜粋。
そうか、「源義朝」時代の……余計にわからん……。

 

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狛犬さん再び。
よい。

 

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都心の神社は、こういう違和感が魅力だったりしますよね。

 

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渋谷のど真ん中で、境内が広くて、こちらは「玉造稲荷神社」。

 

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お狐さま。

 

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狛犬さん。
小ぶりながら存在感。

 

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御嶽神社」。
武州の「御嶽神社」は行ったことないな……。

 

○こちら===>>>

musashimitakejinja.jp

 

青梅か……おっと、神使は「大口真神」ですか、関東っぽい。

 

「社前の狛犬一対と西参道の鳥居はかつて実践女子学園の校内にあった香雪神社より大東亜戦争後移設したものです。」

 

抜粋。

 

○こちら===>>>

www.izumotaisya-tokyobunshi.com

 

社殿は「出雲大社東京分詞」に移設されたようです。
素通りしたことあるなぁ……いかんいかん。

 

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「金王丸御影堂」。

 

「金王丸十七歳の時、源義朝に従い保元の乱に出陣。平治の乱ののち出家し、土佐坊昌俊と称し義朝の御霊を弔いました。
また、頼朝とも親交が深く鎌倉開幕にも尽力。義経追討の命を受け、文治元年(一一八五)十月二十三日夜、心ならずも義経の館に討ち入り勇ましい最期を遂げました。
この御影堂には、保元の乱出陣の折、自分の姿を彫刻し母に遺した木像が納められています。更に金王丸が所持していた「毒蛇長太刀」も当八幡宮に保存されています。」

 

抜粋。
「毒蛇長太刀」……なんて厨二病心をそそりそうでそそらない名前なんだ……。

 

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狛犬さん。
小鬼系。

 

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「御影堂」。
小規模ながら、独特の雰囲気があります。

 

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拝殿遠景。
陽も落ちかけて、よい感じに。

 

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門。

 

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鳥居。
こちらが正面でした。

 

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社標。

 

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そのお隣に、「豊栄稲荷神社」という神社がありました。

 

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ちょっと面白い構図になった。

 

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拝殿。

 

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神社の由来がほられていますが……読めない……。

とりあえず、「当社は渋谷八幡宮を創建せる河崎土佐守基家の曾孫渋谷高重の創祀」と伝えられていて、「堀の外稲荷」「田中稲荷」「川端稲荷」と呼ばれていたようです。

 

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こちらは、庚申塔の由来。

 

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いや、庚申塔パラダイスだったのです。
青面金剛」と「三猿」、日月が基本モチーフですが、これだけ揃っていると見ていて飽きませんよね。

 

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御朱印

 

さて。

 

○こちら===>>>

大日本名所図会. 第2輯第4編 江戸名所図会 第2巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

『江戸名所図会』です。
90コマより(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

「渋谷八幡宮 同所中渋谷にあり。此所の産土神とす。祭礼は八月十五日なり。
本社祭神 応神天皇一座。社記に云く、此神像は上古弘法大師豊前国宇佐八幡宮の告あるにより、しばらく山城国鞍馬寺に安置し奉りしを渋谷次郎高重護持して当社の神体とあがむると云々。本地仏阿弥陀如来の像は、慈覚大師の作なり。圓證阿闍梨東福寺創建の時、行脚の僧来りて授与せしとなり。
矢拾観世音 社前にあり。本尊は慈覚大師の作にして、金王麿尊信の霊像なりといへり。社伝に保元年間の戦に、此本尊軍卒に化現し、敵の弓矢を多く拾ひあつめて、味方の陣中へ入り給ひしより、かく称したてまつると云々。
子安薬師如来 同所にあり、龍宮出現の尊像なりとぞ。義朝誕生の時、龍宮より出現し、又頼朝尾張国幡屋において出生の時も守護たりしとぞ、仏礼に念珠をかえたり。世俗是を安産守護の念珠と唱へ大に崇信せり。
金王桜 一名憂忘桜とも號けたりしとぞ。伝へ云ふ、往古久寿の頃、源義朝鎌倉亀ヶ谷の館に植えおかれしを、金王丸に賜ふの後、此地に移し、氏神八幡宮の瑞籬にううるとなり。或は社記に云ふ、文治五年七月、頼朝公奥州泰衡退治凱陣の頃、当社に詣で給ひ、太刀一振を納め給ひ、又金王丸の影堂に立寄り、其誠忠を感じ給ひ、鎌倉亀が谷より桜一株を栽えられて、金王桜と號けられけるともあり。又[むらさきの一本]といへる冊子に、紀州亜相頼宣卿の御母堂養珠院殿、此桜の実を御庭に植えさせられ、やや生立ちて花も開かんとせし頃、八幡の社内なりける元木の桜既に枯れたりしかば、御家臣渋谷善入という人は金王丸の遠裔なれば、他の人の植えたらんよりは、祖先への孝養にもなるべしとて、件の実生の桜を善入に下し給ふ。善入恭しく是を拝受して、其枯株の跡へ植え継ぎける。今の桜是なりとしるせり。
(略)
什宝 月輪御籏一流 社記に云く、後一条帝の長元元年五月、平忠常北総に兵乱を起し、近国を掠む。源頼信朝臣、忠常追討の祈願として、秩父の峯に八流の籏を納め給ふ。其内日月の二流は武基に賜はり、大宮の妙見山に収め、八幡宮とあがむ。其後河崎土佐守基家に白籏一流賜はり、独仙北金沢城を攻落せり。依て義家朝臣基家を召され、此軍勝利ありしは、全く正八幡の加護たるべき事を示し、寛治六年正月義家朝臣凱陣の時、谷盛荘へ立寄らせたまひ、月の御籏をば当社にとどめ給ふ。されども、此御籏をみだりに拝する者ある時は、かならず祟ありといふをもつて、能證阿闍梨深く社壇にひめ置きて、写を出し置けりといふ。開帳の時節諸人に拝せしむるは其模なり。
(略)
獅子丸太刀 河崎土佐守仙北金沢にして猛威を振ひ、城を攻め破る。其頃勤賞として義家朝臣より賜ふといへり。
毒蛇長刀 金王丸長田が館、野間の内海にて勢を振ひしも、ひとへに此薙刀の威徳なりとぞ。
(略)
社記に曰く、当社は高望王より五代の後裔、村岡五郎良文が曾孫、秩父別当武基の一子に、同十郎武綱といへる英雄あり。寛治三年六月、清原武衛・同家衛が猛威を摧き、奥羽の間に勢を揮ひ、名誉を天下に輝かしぬ。故に将軍義家朝臣是に感じ、勤賞として其子六郎基家(略)に武蔵国谷盛荘を賜ふ。(略)依て基家勝地を撰び、同六年正月始て采邑の地に当社を営建し、金王麿迄代々氏神と称し、尊重厳なりけるとぞ。別当天台宗にして、渋谷山東福寺と號す。相伝ふ、六孫王経基の開創にして、昔は親王院と呼びしとなり。開山は圓鎮僧正と號す。養和元年百十一歳にして化寂ありしと云々。」

 

ふう……中世〜戦国の知識がすっぽりないもので、登場人物があんまりわかりませんな……これは勉強せねば。
文中に「野間の内海」とあるのは、愛知県の知多半島の話、でしょうかね(最近ちょっと勉強したんだけどなんだったっけなぁ……今の「野間大坊」と関係があったような……)。
「金王丸」のこともよく知らないと……だめだめですな。

 

「金王麿影堂 同所向側、叢林の中にあり。[八幡宮社記]に云く、金王麿十七歳の時、主君義朝の命により、鎌倉に赴く頃、其母別れを惜み、悲嘆の涙に沈む。依て金王麿自ら姿を造りて、母堂の許に残しとどめけると云々。其像は鎧衣二刀を帯する容姿なり。
(略)[保元物語]を以て考ふるに、金王麿は左馬頭源義朝に仕へし童にして、度々手がらをあらはし、頗る大功の者なり。義朝平時元年に大納言藤原信頼にくみしてむほんを起し、待賢門の軍に打負け、尾張国野間の内海にありし御家人、長田庄司忠宗がもとに落ち伸びたまひしを、長田心がはりして、浴室に義朝を弑し奉る。金王麿くちをしく思ひ、走り廻り、むかふ者共をきりふせて、其後都に登り、義朝の妾常盤がもとに参り、其ありさまをかたりて後、義朝の跡をとぶらひまいらせんが為、出家して諸国を修行し、其終る所しらずとなり。金王丸より渋谷と唱ふる歟。縁起には、重家寛治六年渋谷の姓をたまはると見ゆれども違へり。系図を見るに、重家の子重国、其子高重、其子金王丸とあり。社記には、重家一子なきをうれへ、八幡宮へ祈り授かる所、金王丸といふ。高重は金王丸より後にして、文治年中頼朝時代の人なりと云ふこと違へり。」

 

……ああそうか、高田先生の小説を読んだから、野間の話を覚えていたのか……その小説の内容をほとんど覚えていないのは自分でも難儀です……『源平の怨霊』なんですけども。

 

 

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「金王丸」の話は出てこなかったなぁ……毒蛇長刀、どうなったんだろう……。
平治物語』『保元物語』のような軍記物(というのか)、あるいは『吾妻鏡』にしても、ぎりぎり歴史書と言えるかどうか、みたいな扱いですが、江戸期と違ってそこまで書簡なんかも伝わっていないわけで、資料として尊重せざるを得ないと(公家なんかの日記はもちろんあるのでしょうが、個人でそこまではなかなか追えませんし、中世史は興味ありでもメインターゲットじゃないからなぁ……)。
いずれにしろ、「渋谷」「金王丸」の名前が今も残されていること、何かしらの意図を感じたり、地域に根付いたものなんだろうなぁと素直に感心したり……地名を変えることは否定しませんが、元の地名は残しておいてほしいですね。
さて、いい旅だった……あんまり旅してないな、この年の後半は……。