べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「七寺」「大光院」「陽秀院」(補)

さて。
「七寺」に関しては、

 

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「稲園山七寺」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑昔の記事で『尾張名所図会』の引用をしております。
今回は、

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

↑『名古屋市史』の「社寺編」から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
261コマです。

 

「八 七ツ寺

七ツ寺は稲園山と號す、中区門前町五丁目の西側に在り、(略)京都智積院の末寺なり、往古は中島郡下津里の南、阿波手浦の西、萱津原の裏(略)に在り、天平七年七月、行基の開創と伝ふ、初め正覚院と號す、天応元年七月、河内権守是広 河内誉田の人、世々河内郡平岡城に居す。  出羽鎮秋田城介となりて、奥羽に赴き、七年の後帰りて、萱津に宿し、兒 初め征東の役に赴くや、妻娠むあり、別後四月にて男子を産み、光麻呂と名く、其年十月二十三日妻逝く、乳母に養はれ、是歳光麻呂父を尋ねて此駅に至りて卒すと云ふ の死を聞き、悲歎に堪へず、正覚院二世智光 行基の弟子、伝は元享釋書に見えたり に依りて、之を院の西に葬り、堂を建てて、兒所持の薬師仏像を安んず、河内に帰るに及び、延暦六年十二月、当寺を再建し、七区の精舎、十二の僧坊を建て、七年五月落慶す、時に世俗呼んで七ツ寺と稱すといふ、仁和三年七月晦日、大地震あり、殿堂倒潰し、無住となること五十餘年、天慶四年、将門の兵乱に遇ひて、再び大廃す、仁安二年七月、尾張権守安長(略)亡女の爲めに、其女婿豊後守親實 上総介永實の二男 と共に、中興の工を始め、九月七堂伽藍を落す、時にもと十二坊の魁名を採りて、稲園山長福寺と改め、高野山金剛峰寺に隷す、是に於て始めて真言の道場となるといふ、次いで十二坊を復建して支院となす、安元元年正月、安長一切蔵経を書写せしめ、治承二年三月、鎮守十二所権現社を建て、八月五千餘巻の写経を慶讃し、転法輪蔵を鎮守社の前に建てて之を納む、文治元年四月、住僧栄俊、仏工運慶及び其子湛慶を招きて、本尊木造三尊 観音、弥陀、勢至坐像 及び二天 毘沙門、持国の立像 の像を修彩せしむ、建武四年兵乱に遇ひ、寺宇重ねて頽破し、弥陀堂及び半壊の経蔵(略)を存して、悉く烏有となる、荒墟二百五十餘年、天正十九年三月、鬼頭孫左衛門尉吉久 春日井郡朝日庄清須郷の人、視髪して法山宗敬居士と號す慶長三年三月六日卒去す 豊臣秀吉に請ひ、遺宇を清須城に畔に移建し、良圓(略)を請じて、中興開山となす、文禄三年三月、本堂を経始し、四年七月、落慶供養を修す、時に性海寺の末寺となる、良圓中島郡の旧地に草堂一宇を営みて、桂林寺と號し、鎮守十五所権現、神明、弁天の三社を留祀す、慶長十六年秋、二世良祐(略)名古屋日置村 即ち今の地 阿弥陀堂を移建し、楼閣、門、庫を一新す、又十五所権現、天満大自在天神 尾張霊異記に掘源之進屋敷の天神のうつしなりと見ゆ を巽隅の丘陵 俗に天神山と呼ぶ に勧請す(略) 良祐又清須の旧地に一院を建てて、真福寺と號し、薬師仏の塑像(略)を安んず、後本堂の東南に一院を造り、木造不動像を安んじて、一乗院と號し、退隠の地となす、寛永三年、本堂の東北に護摩堂を営み、五大尊の像(略)を安んず、正保二年、護摩堂の東に客殿を新建し、木造正観音立像(略)を安んじて、仏殿及び祠堂に充つ (中略) 八世良卓(略)の時、享保十五年春、地蔵院流の法地となりて、色衣を許さる、此時藩主始めて抂駕あり、爾後山城嵯峨世尊院を兼帯して、藩主の祈願所となり、一国の触頭となる、元文三年五月、始めて境西に裏門を開き、一乗院をその邊に移す、六月二十八日消失す、次いで太子堂、築山亭、観音堂(略)、聖天堂、浴油所、所化寮、稲荷社、八幡社、秋葉社(略)を新建し、三十三所の観音、善光寺常夜燈、六角堂及び銅造大日如来坐像(略)等を造る (略) 明治八年十二月、境内の南方を割きて、往来の路とす、十二年七月二十四日、智積院の直末となる、本尊は木造阿弥陀如来坐像、脇士同観音、勢至二菩薩坐像(略)なり、現今の堂宇には、本堂(略)、庫裏、書院、影堂(略)、弁天堂(略)、三重塔、吒枳尼天堂(略)、太子堂(略)、聖天堂(略)、大日堂(略)、経蔵(略)、鐘楼(略)、総門等あり(略)」

 

↑略してもこれだけの記述がある、ということで、往時の規模が偲ばれます……それを思うと、今の境内の寂しいこと……残念です。

 

尾張霊異記」

 

↑気になるなぁ……。

 

 

 

続いて「大光院」は、

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑『尾張名所図会』から参りましょうか。

73コマです。

 

「興国山大光院
同町西側にあり。曹洞宗武州忍の清善寺末、慶長の初め、従三位中将忠吉君清須御在城の時、雲門寺といへる廃寺の跡に此寺を建立し、旧名雲門を以て寺号とし、明嶺和尚を請じて開山となり給へり。和尚は武蔵国の人にて、清善寺の住持たりしが、道徳堅固にして、眠る事を好まず、昼夜をわかたず端坐して道を修しければ、道徳顕はれ、兼ねて死期をしり、種々の霊異を示して、慶長十四年二月二十八日遷化す、是より前、東照神君明嶺を帰依し給ひ、忠吉君も同じく帰依し給ふ事厚くまします故に、清須に招請し給ひしとぞ。忠吉君御逝去の後、大光院殿と申せしは、此明嶺和尚が奉りし御法号なり。さて慶長十五年の御遷府の後、名古屋日置の地にうつして、日置山大光院と改号し、のち又今の山号に改む。寺領は、忠吉君の御寄附なり。
本尊 釈迦の木造
(略)
二天門 寛政三年の建立。二天の像は春日井郡鹿田村仁昌寺の観音堂に在りし古像なり。
光石地蔵堂
牌堂
烏瑟沙摩明王堂 境内にあり。此明王はむかし釈尊にちかひて、もろもろの不浄を清浄に改めなし給ふ神通備りましますよし、[穢跡金剛経]に見えたり。毎月二十八日を縁日として、参詣の諸人羣集をなす。又一切下部の諸病までをも守らせ給ふ大悲願ある仏なれば、婦女子の参詣ことに多し。堂の傍に松の大樹・櫻の古木あり。
塔頭 陽秀院、大光院二世大庵の弟子嶺奕の建立なり。
地蔵尊 陽秀院境内にあり。腫物其外一切の諸病を祈願する時、尊体に紙を張り、病癒ゆる時は其紙をとる事なり。立願の諸人絶ゆる事なくて、尊容見ゆる時なし。故に紙張地蔵と稱す。(以下略)」

 

図絵もありますが、当時「明王殿」が伽藍のごく一部だったということがよくわかります。

松平忠吉」のことがさっぱりわからない(戦国時代音痴)ので、

 

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kotobank.jp

 

↑「コトバンク」より『朝日日本歴史人物事典』です。

 

「没年:慶長12.3.5(1607.4.1)
生年:天正8(1580)
江戸初期の武将。名は甚太郎,福松,忠康。下野守,薩摩守と称す。徳川家康の第4子で母は西郷局,東条松平家忠の養子となり,文禄1(1592)年2月に従五位下下野守に叙し,武蔵忍城の10万石に封ぜられる。その妻が井伊直政の娘であった関係から,慶長5(1600)年の関ケ原の戦に際しては,舅の井伊直政と共に徳川隊の先鋒の大役を務めた。ことに徳川秀忠率いる軍勢の到着が遅れたことから,関ケ原における徳川将兵の軍事力は劣弱であったが,直政と忠吉の徳川勢は力戦して島津義弘隊ほかと戦ってこれを破り,忠吉は初陣ながら自ら敵の首級をあげるなど軍功著しく,父家康を大いに喜ばせた。戦後は尾張清洲城を賜り,52万石を領し薩摩守と改める。10年に従三位左近衛権中将となり,28歳で没した。嗣子なくして家は絶えた。」

 

そうか……私は関ヶ原の戦いのことも井伊直政のこともさっぱり知らないわけですね。

どうやら噂に聞こえた「島津豊久」をやっちまったすごい人みたいです。

若くして亡くなったのがなんとも残念……なのかな(徳川秀忠」が暗殺したんじゃないの、とつい思ってしまうのが悪い癖です)。

 

「武蔵忍城の10万石に封ぜられる」

 

この辺りで、「明嶺」和尚とか、「清善寺」との縁があったようですね。

おっとついでに「陽秀院」の記事が。

 

「石地蔵尊 陽秀院境内にあり。腫物其外一切の諸病を祈願する時、尊体に紙を張り、病癒ゆる時は其紙をとる事なり。立願の諸人絶ゆる事なくて、尊容見ゆる時なし。故に紙張地蔵と稱す。」

 

↑確かに、「紙張地蔵」は江戸期からあったものでした。

祈願で貼り付け、成就で剥がすって書いてあるけれど……自分の紙がきちんとはがせた人ってどのくらいいるのかなぁ……その祈願、果たして成就するんでしょうかね……まあお地蔵さんは広大無比の慈悲ですから、ちょっとくらい大丈夫でしょうけれど。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 2 名古屋

 

尾張志』はどうでしょうか。
35コマです。

 

大光院
門前町の西側にありて興国山と号し武蔵國埼玉郡忍の清善寺の末寺也開山明嶺和尚はむさしの國の人にて道徳の名誉あり平常眠る事を好ます昼夜端座して道を修しかねて死期を知り種々の霊異を示して慶長十四年二月廿八日寂せり此事村老の口碑に伝ふ是よりさき清善寺の住持たりしとき家康公崇信し給ひ忠吉君にも帰依深く禅を談し給へり清須におはせしとき雲門寺といへる廃寺(略)の跡に一宇を建立し明嶺を迎へて開山とし清善寺と号け給へり忠吉君御存生の時法号を明嶺に請給ひて大光院殿と申ししか慶長十二年江戸にてうせ給ひし時御遺言によりて清須の此寺に葬り奉らむとせしを増上寺の衆徒異議を申により増上寺に葬り霊牌を此寺に建て日置山大光院と改めしを慶長年中ここに移し御寺の列となせり山号を改めし年月は定かならず(略)」

 

尾張名所図会』と似たようなものですね。

それではお待ちかね『名古屋市史』より。
346コマです。

 

大光院
大光院は興国山と號す、中区門前町二丁目の西側に在り、(略)埼玉県北埼玉郡忍町清善寺の末寺なり、もと清須(略)に在りて、清善寺と號す、松平薩摩守忠吉、同地の雲門廃寺 尾陽雑記、大光院の條に、天正十九年辛卯年、豊臣秀次爲秀長公菩提所創建、雲斎和尚爲開山、其後暫中絶矣、薩摩守忠吉卿以武州清善寺明嶺和尚爲当住持、所領地今在名古屋」と見ゆ、(略) を復興し、改称せしものなり、明嶺理察(略)招かれて開山となる、忠吉大光院殿等山宗勝の法号(略)を受けしより、今の寺号に改む、城下一宗の触頭となり、毎年江湖会を執行せり、忠吉の江戸に薨(略)ずるに臨み、遺命して江戸愛宕下青松寺に火葬し、清須大光院に葬儀を営ましむ、然るに増上寺異議あり、是に於て家康葬儀を彼寺に営ましめ、牌所を当院に建てしむ、慶長遷府の際、二世大菴護奕(略)今の地 当時の日置村 に移し、山号を日置山と改む(略)、後今の山号に復す(略)、(略)明治五年十月、三十世大薩祖梁(略)今の寺格に昇進し、諸堂を再建し、御霊屋、開山祠堂等を修繕す、(略)本尊は木造釈迦牟尼仏坐像(略)なり、現今の堂宇に、本堂(略)、庫裏、山門(略)、開山堂、位牌堂、僧堂、烏瑟沙摩明王堂 文化五年三月建立 鎮守堂 建立年時は詳ならず、吒枳尼天、秋葉権現、金毘羅神の三神を奉祀す 、鐘楼(略)等あり、(略)末寺は陽秀院 同町門外南側に在り、もと塔頭なりき 、聖応寺(略)の二寺あり(以下略)」

 

こちらもまあ、似たような内容(といっても、『名古屋市史』が『尾張名所図会』や『尾張志』などを参考にしているので当たり前)。

 

「鎮守堂(建立年時は詳ならず、吒枳尼天、秋葉権現、金毘羅神の三神を奉祀す)」

 

↑この辺りが、今の「陽秀院」の「秋葉権現」なんでしょうか……。


同じく『名古屋市史』より「陽秀院」。
348コマです。

 

「陽秀院
陽秀院は隣松山と號す、中区門前町二丁目の西側に在り、(略)大光院の末寺(もと塔頭)なり、葉室嶺奕(略)之を開基す、(略)本尊は木造十一面観世音菩薩坐像(略)なり、現今の堂宇に、本堂、庫裏、地蔵堂、総門等あり、その控に十王堂(略)一宇ありしが、全廃す、(以下略)」

 

↑こちらは観光案内ではないので「紙張地蔵」のことは書かれていません……。

 

 

 

ふう……特に名古屋はですね、「清須越」のあとにできた街といっても過言ではないので(その意味では、家康入府以降にできあがった江戸東京と比較できるかもしれないです)、戦国〜江戸初期の歴史の勉強は必須なんですよね……ああ大変……

 

 

 

信長の忍び』で何とかならないですかね(助けて重野センセー!)。

(※アニメも絶賛放送中! 大地丙太郎〜……以上、何の実入りもないステマ……とは言わない宣伝でした。※)


大須門前町、まだまだ掘ればたくさん出てきますよ……ふう……もうちょっと続きます。