12/29。
本日メインイベント、「三輪神社」にご参拝。
一瞬、場所がわからなかったのですが、昔の(今も?)公設市場の北側にありました。
○こちら===>>>
三輪鳥居が、名古屋で拝めるとは思っておらず……勉強不足甚だしい……。
「三輪神社
御祭神
徳川義宜公(尾張十六代藩主)
御由緒
元亀年間(一五七〇年)奈良桜井三輪町から小林城(現在の矢場町交差点辺り)に移った城主、牧若狭守長清が生まれ故郷の三輪山に鎮まります大物主大神(大国主大神)を祭ったと伝えられています。
江戸時代には尾張八代藩主徳川宗勝公を始め歴代藩主の崇敬篤く明治時代に尾張十六代藩主徳川義宜公を合祀しています。
また、この神社の中に尾張藩の矢場があり京都の三十三間堂の長廊に模して造られたようです。矢場町の名はそれに由来されるといいます。(略)」
何と、矢場町の起源ここにあり、でしたか。
ということは、巡り巡って「矢場とん」の起源もここにあることに……あ、「矢場とん」のまわしものではありませんので。
社標。
「創建年代は不明であるが、小林城主牧長清(一五七〇没)が勧請し、天保年中(一八三〇〜四三)改築する。
祭神は大国主命を祀り、また境内に秋葉社・猿田彦社・天王社を合祀している幸宮社と福光稲荷の二社がある。
この社は、もと三輪大明神とか三輪社と呼ばれたが、明治四十四年(一九一一)に現社名となった。」
御祭神は「大物主大神」にしておいてほしいなぁ、名古屋市さん……。
狛犬さんたら、
狛犬さん。
社紋も鮮やか。
三輪鳥居を裏から。
マンションと重なってしまっていますが、お見事。
拝殿。
「幸せのなでうさぎ」さん。
撫でまくりましょう。
拝殿ちょっと遠景。
拝殿右側に回り込んでの本殿。
妻入ですね(あれ、本当に本殿か?)。
縁結びの木、だそうです。
拝殿向かって右手にある神楽殿。
お狐様たら、
お狐様。
「福光稲荷社」は、拝殿向かって右手奥にあります。
その左手にある「尾張徳川、矢場跡」。
「寛文八年(一六六八)尾張徳川家が三輪神社境域に京都の蓮華王院(三十三間堂)で威信をかけて競った通し矢の修練場(三十三間堂を模した長廊)矢場を創建し文化四年(一八〇七)御払いになり星野勘左衛門預となりました
この界隈を「矢場町」と呼ぶのもここに矢場があったことに由来します」
……あの、ほら、水を入れると上下するこういうの、なかったでしたっけ。
うっすらとしか見えませんが、「白龍社」。
ちょっと戻って、「幸宮社」の社標、参道。
右手が神楽殿、左手が拝殿、右奥に「福光稲荷」があります。
順番間違っちゃった。
「幸宮社」。
「『指矢場』のこと
江戸時代、京都の三十三間堂で通し矢という競技が行われていました。通し矢とは三十三間堂で軒下の南端から北端までの約120mを軒裏にも縁の床板にも当てないで矢を射通す競技で、一昼夜(24時間)に射通した矢の数を競いました。全国の大きな藩が競いあい、最終的に尾張藩と紀州藩の一騎打ちとなりました。
尾張藩の記録が紀州藩に破られた後、明暦2年(1656年)新たに当神社に三十三間堂を模した長廊を造り、藩の威信をかけた命がけの修練が行われました。その甲斐あって、星野勘左衛門が10、542本中、8、000本の矢を射通し天下一の称号を得たのです。
その後、この辺りは矢場町と呼ばれました。
境内に矢的の記念碑があります。
皆さまそれぞれの目標が見事、射止められますよう祈念しております。」
「星野勘左衛門が10、542本中、8、000本の矢を射通し天下一の称号を得た」
さらっと読み流しましたけど、何この矢の数……尋常じゃなくないですか?
それとも、当時はこんなもので?
これはもっと、喧伝してもいいことだと思うけどなぁ……ひょっとして、「三十三間堂」の方では有名なんでしょうか。
そういえば、江戸にもありましたね「三十三間堂」……今はないですが。
下には「丹塗矢」の伝承が書かれています……そうか、だから赤い矢なのか、全然つながらなかったですよ。
あれ、写真が思っているより少ない……。
ともあれ御朱印。
(2017/5現在)何度か参拝しているのですが、その度に、「福をちょこっとおすそわけ」ということで、うさぎさんのチョコレートをいただきます(御朱印をいただいたときに)。
プリントしてあるだけだ、とはわかっていても、食べづらい……。
なお、四月限定御朱印については、
○こちら===>>>
↑でご確認を〜。
よし、やっと2016年が終わった……あ、次回で引用なぞ行いますです。