11/23。
「桜天神社」の参拝を終え、ふとそういえばと思いつき、全然見向きもしなかった(失礼な)「名古屋成田山萬福院」へ。
○こちら===>>>
栄、といいますか、矢場町と上前津の中間の広い道路を東の方に向かったところにあります。
平成14年に現在地に移転されたそうですので、本堂含め新しいのです。
○こちら===>>>
「犬山成田山」 - べにーのGinger Booker Club
↑「犬山成田山」と同様に、千葉の「成田山新勝寺」から御本尊を勧請して分院となった、とのこと(真言宗智山派)。
それまでは、「潮音山」と号していたそうです(公式HPより)。
ぴかぴか。
境内には、弘法堂や水掛不動尊などが。
狛犬さん。
むっきむきです。
遠景。
今ひとつ全景が把握できませんね……結構広いんですよ。
御朱印。
「東海三十六不動明王霊場」の札所になっています。
……そろそろ始めるか、霊場巡り……。
こちらで発売されているご朱印帳には、ちりめんで飾られた色鮮やかなものもありますが、私は普通に火焔柄のものを購入。
袋がついてきました。
さて。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 2 名古屋
↑いつもなら『尾張名所図会』からの引用なのですが、探しかたが悪いのか見つからなかったので、『尾張志』の「名古屋」編から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
27コマです。
「萬福院
鍛冶屋町通り広小路より南東側に在て潮音山と号し長久寺の末寺也 もと清須に在しを慶長年中住僧重秀今の所にうつせり
本堂 本尊十一面観音の像は弘法大師の作といひ伝ふ」
……あら、以上ですか。
もともと清須にあったものが、いわゆる「清須越」で名古屋にやってきた、という他の多くの寺社と同じ歴史を辿っているようです。
続いて、
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編
↑『名古屋市史』も見ておきましょう。
245コマです。
「萬福院
萬福院は潮音山と號す、中区南鍛冶屋町一丁目の東側に在り、(略)末寺格 徳川時代には出世法印地 十九等にして、東区長久寺の末寺なり、重秀 寛永三年八月二十七日寂す 初め清須に創建し、慶長年中今の地に移す、 尾張名陽図会には、「或記に按ずるに慶長遷府以前より此所に有しと見えたり」とあり、今当寺の縁起にも此説を取れり 其後院宇廃頽せしが、延宝四年、八世中興政学 寛永七年二月十七日寂 の住するに及びて、新たに丈室、厨庫、門廡を建て、元禄四年、護摩堂を建て、十一面観世音菩薩木像 空海の作と伝ふ、三世日盛(元禄十二年五月二十四日寂)修補を加へ、日盛の甚目寺東林坊に転住するに及び、其像を同坊に安せしを、政学の時、再び当院に遷せりものなりといふ 二挟侍不動明王木像 伝覚鑁の作といふ 、多聞天王木像 政学の新に設くる所と を安置し、又太神宮、天満宮、辯才天を勧請して、院の鎮守となす。二十四世實然 明治二十九年五月十八日寂 本堂、庫裏を再建す、今の堂宇是なり、本尊は木像正観世音菩薩立像 作者詳ならず、本尊を尾張名陽図会及び尾張志には、十一面観音となし、金鱗九十九之塵には薬師如来となす なり、境内にはもと天神社、辯才天社、歓喜天堂ありしが、今廃す、現今の堂宇には、本堂、庫裡、三尺坊堂 もと秋葉堂といふ、寛永元年小笠原某、遠江の秋葉三尺坊の分身を勧請して、堂宇を建立せしものといふ、今不動明王を合祀す、徳川時代には、正五九月の十七日神楽、十八日護摩の執行ありき 、門等あり、(略)」
こちらの方が詳しいですね。
「成田山」の分院となったのは、大正年間ということですので(公式HP)、『名古屋市史』が書かれた頃(大正4〜5年)にはまだ「潮音山」だったようです。
御本尊はもともと「十一面観音」だったようですが、それにも諸説あり。
そうか、『尾張名陽図会』を見ればいいのか。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張名陽図会. 巻之6
42コマです。
……うん、図絵を見てもよくわかりません(そりゃそうだ、移転してるし)。
とりあえず、秋葉堂が結構目立っていたみたいです。
ちなみに、「なごや七福神霊場」のうち、「福禄寿」の札所になっています。
来年は、「七福神」巡りにチャレンジしてみようかな……。
超簡単ですが、これにて。