さて。
◯こちら===>>>
大日本名所図会. 第2輯第5編 江戸名所図会 第3巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
ひさびさ、『江戸名所図会』から。
91コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
「神齢山護国寺
悉地院と號す。音羽町の北にあり。新義の真言宗にして、和州長谷小池坊に属す。開山を亮賢僧正と號す。公より寺領千二百石を附せられ、盛大の地なり。[古鹿子]に云ふ、寺領三百石、大猷公守本尊瑪瑙石観音像開基とあり。
本堂本尊如意輪観世音 瑪瑙石にして、天然のものなり。元禄半の頃、前川三左衛門入道道壽といへる人、異邦に渡り持し来りすを、黄檗隠元老師の弟子、黒瀧の潮音、前川氏と師弟の縁あるが故に、潮音に授与す。其後故あつて、桂昌一位尼公崇敬し給ひし由、[事蹟合考]にみえたり。本堂の柱を猿柱と云ひて、木理猿の面に等し。
薬師堂 本堂左にあり。本尊薬師像は、昔当寺草創の時、此地蟹ヶ池より出現ありし霊像なりといへり。今の本尊薬師佛の胎中に収む。左右に十二神将の像を置けり。
西国三十三番順禮札所寫 本堂より西の方の山間にあり。天明年間深林を伐り開き、各其地勢に因つて俤を模す。四時草木の花絶えずして、諸人の眼をよろこばしむ。
歓喜天 境内寿命院に安ず。桂昌一位尼公尊信の本尊なりとぞ。永代不退転に天下安全の浴油の法を修せしめられ、寺産を賜ふ。
仁王門 仁王の裏に置く所の広目・増長の二天の像は、古の火災に残りしといふ。
今宮五社 当所鎮守と云ふ。天照太神宮・八幡大神・春日大明神・今宮大明神・三部大権現五社を祭る。音羽町・青柳町・桜木町等の鎮守なりと云ひ伝ふ。
涅槃像大幅 当寺宝物とす。狩野安信の筆なり。足代をくみてしやちを掛け、引き上げて軸本迄開かれずといふ。
当寺は延宝九年二月七日、上野国八幡別当大聖護国寺の住持法印亮賢に、高田御薬園の地を賜ひて寺とす。依て大聖護国寺と號す。亮賢初御在胎の時より、御祈祷を奉りし故なり。天和元年に憲廟将軍の宣下蒙り給ひて、同年五月二十八日、都下新建の大聖護国寺を仁和寺に録して院家とす。依て寺領三百石を附し給ふ。貞享二年十二月二十八日に、大聖護国寺住持法印賢廣黄衣を許さる。其後元禄年中桂昌院殿一位尼公の御志願によつて、御薬園の地を転じ、其頃御建立ありし江戸密乗最大の梵宇にして、結構備れり。春時は桜花爛漫として、頗る地勢洛の御室に髣髴たり。[武江神寺録]に、元禄十丑相馬弾正少弼に命ぜられ、再修造なし給ふとあり。此地元御薬園なりしを、後白山にうつされ、其跡へ当寺を御建立ありしといへり。求涼亭云く、当寺は京の清水寺を模さるる故に、前の町を音羽となづけ、又青柳町・桜木町などなづけられ、又音羽町九町あるも、京に一條より九條までの名あるにもとづくとぞ。昔の本堂は、今の舞台をまうけし堂宇なりといへり。当寺に桂昌一位尼公御遺物を収めらる。今猶伝へて、開帳の頃諸人におがむせしむ。金銀をちりばめ、其結構言葉にのべ盡しがたし。」
図絵もありますので、現代との違いを確認していただければと思いますが、まあとにかく「西国三十三番順礼札所写」の広いこと広いこと……もちろん今となっては残っていないのだと思います、残念。
現在、ご本尊の「如意輪観音」像は、「琥珀」製となっているのですが、『江戸名所図会』では「瑪瑙」製。
当時は、琥珀と瑪瑙の区別がなかったんでしょうか。
あ、「三部大権現」というのは、真言宗の「根来寺」の鎮守、のことのようです(まだ行ったことがないのでよくわかりません……がどこかで聞いたような気もするな……)。
というわけで、著名な寺院なので、この辺りにしておきます〜。