べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「卯辰山〜金沢城」(石川県金沢市)

5 /27(※2024年)。

何かの催しがさいたまスーパーアリーナでありまして、珍しく一泊したのですが、そこから金沢まで行きました。

目的は神社仏閣城閣ではなかったのですが、結果としてそうなりまして。

まずは、卯辰山の展望台へ。

 

f:id:bennybebad:20251102202715j:image
f:id:bennybebad:20251102202813j:image
f:id:bennybebad:20251102202704j:image
f:id:bennybebad:20251102202731j:image

いい景色でした……いろいろと思いを馳せることもありまして。

で、そこから歩いて、駅に向かいます(途中でいろいろ寄りましたが)。


f:id:bennybebad:20251102202655j:image

「燐寸ノ祖」……。

 

◯こちら===>>>

iijikanazawa.com

 

なるほど、これは知りませんでした……郷土の偉人ですな。


f:id:bennybebad:20251102202744j:image
f:id:bennybebad:20251102202749j:image

この辺りが、顕彰碑だったりするようです(写真には撮っていましたが、特に意識はしていませんでした)。


f:id:bennybebad:20251102202649j:image

卯辰山三社

卯辰山三社とは、愛宕神社卯辰山天満宮、豊国神社の三社をいう。

卯辰山天満宮は、慶応三年(一八六六)、一四代藩主・慶寧が庶民のための福利を図らんとして卯辰山開拓時に、守護神として兼六園にあった竹沢御殿の天満宮をこの地に移した。

豊国神社は旧郷社で主祭神豊臣秀吉愛宕大神、江戸時代は卯辰山王または卯辰観音と称していた。

明治元年(一八六八)の神仏分離令の際、秀吉を主神とし豊国神社と改称した。後に村社である愛宕社を合祀し、明治一九年(一八八六)、氏子地の殿町に移ったが、明治四〇年(一九〇七)、現在地に移り、村社・卯辰神社を合祀した。

寺宝の刀は、県指定文化財になっている。」

 


f:id:bennybebad:20251102202800j:image
f:id:bennybebad:20251102202710j:image

山を下っていたら、突然神社が登場。

しかし、お参りせずでした……いや、時間が不安だったもので……回らないといけない場所が……。


f:id:bennybebad:20251102202735j:image
f:id:bennybebad:20251102202755j:image
f:id:bennybebad:20251102202720j:image
f:id:bennybebad:20251102202723j:image
f:id:bennybebad:20251102202658j:image
f:id:bennybebad:20251102202728j:image
f:id:bennybebad:20251102202738j:image
f:id:bennybebad:20251102202809j:image

で、なんやかや回って、金沢城に辿り着きました。

いやあ、歩いた歩いた……。


f:id:bennybebad:20251102202805j:image
f:id:bennybebad:20251102202652j:image

帰りは、北陸新幹線敦賀までいき、そこから特急で名古屋へ。

ビールなぞ飲みながら帰ってきましたが、両足を攣り続ける、という地獄のような時間を過ごしたので、運動不足……いけませんな……。

 

さて、参拝もしていないのに、一応。

 

◯こちら===>>>

金沢市 編『稿本金沢市史』 社寺編,金沢市,大正5-14. 国立国会図書館デジタルコレクション

稿本金沢市史 社寺編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 (参照 2025-12-27)

 

↑こちらより(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

50コマです。

「豊国神社

豊国神社は豊臣秀吉菅原道真等を祀り、東御影町(九十三番地)に在り、本社は藩政時代に卯辰山王と称し、俗に卯辰観音といひ、金沢城内の産土神に崇め、真言宗観音院其別当たりき、三州志来因概覧附録に、卯辰山王社は初め小立野尻谷坂の上に鎮座ありしかと、慶長六年加賀藩前田利長卯辰山の地を相し、山王社を遷祀し、本地観音堂を造営して、祈祷所となし、元和二年藩主前田利常の室天徳院は、観音堂等に荘厳を加へたり、との趣を載せ、今枝直方の手記に、卯辰山王は天徳院の産土神にて、公子誕生につき、卯辰山に山王を勧請し、宮参をなしたる由を記し、又延寳二年の由来書に據れば、元和二年天徳院は観音堂及び鎮守山王社を建立し、翌年藩主利常命じて客殿等を造営せしめ、少将公(光高)以下諸公子宮参をなし、定めて歴代産土神の宮寺となし、懐胎毎に祈祷せしむることとなれりといふ、これ等の記述に小異あれど、其来歴粗推知せらる、森田平次は、卯辰山王は石浦山王の影向社ともいふべく、慶長十一年八月石浦七村氏子連判状に、石浦村の内三わうの宮うつしの時、御せんぐとして、あんぜん坊石浦村へ御出云々と見え、石浦観音縁起に、行基亦依郡吏之請山王権現開眼供養面爲地主権現とありて、長谷観音は御其本地仏にて、金沢の城地は石浦の郷内山﨑村の地内なるに依り、城内の産土神なるを、天正八年の兵火に社殿焼亡し、神宝および本地仏をば借ゆき、ここかしこに安置せし頃、卯辰山に社殿本地堂を造立して、観音院と号し、場内の産土神となしたるものなり、といへりしかど、何如にか、卯辰山王に豊臣秀吉の像を祀れることは、古より口碑に伝承するところにして、大阪城陥りて後、徳川氏は京都阿弥陀ヶ峯の豊国神社の本社を毀ちて、廃社となしたれば、徳川氏を憚りて、穏密の間に秀吉を祀り、前田利家を配祀し、卯辰山王を一社の総号となせり、又寛永十年観音院四代祐譽は、一派の觸頭を命ぜられ累代此職を継げり。

(略)

明治維新の際、神仏混合を廃せられたれば、明治二年加賀藩より神祇省に其状し、卯辰山王の社号を除き、豊国神社と號し、秀吉を主神となせり、又従前は本地観音堂は本社の如く、山王社は鎮守の小祠なりしかど、此に至り、観音堂本地仏十一面観音等の仏像を除きて、仏器と共に医王院・愛染院に附与し、仮に神殿に充てて、神像を遷座し、尚寛永十年より、山王の相殿に祀れる利常及び天徳院の画像と、愛宕明王院に祀れる前田綱紀の画像等をも合祀し、別当観音院は復飾して長谷氏を称す、明治二年五月、金沢藩知事前田慶寧は自ら豊国大明神と書して、これを社頭に懸け、藩庁よりは、長谷大膳に封して、豊国大神の御名目御顕、御産土神御崇敬被爲在候に付、格別之趣を以爲御祈祷料等年々玄米四拾石充、御寄附仰付云々、の書付を與へたり、三年正月、藩庁は百事を改正し、白山比咩神社外四社寺を祈祷所となし、他の社寺が祈祷所たることを廢めたれど、本社及び安江八幡社は、従来の如く、特に祈祷所たるを得たるにて、当時の達書に左の如く見ゆ、

(略)

五年十一月、郷社に列せられる、八年是より先に、明王院は村社愛宕社(阿多護社に作る)と改称したるが、此に至りて本社に合併し、九年九月氏子等本殿・拝殿を新築したれど、十七年殿町の旧藩士佐藤氏邸地の内を買上げて、社地となし、越えて十九年十月、移転の工事竣成して遷座し、四十年九月、復た卯辰神社の社地内に移転して、神殿を新築せり。」

 

といったわけで、まあ、前田家は徳川についたとはいえ、秀吉は元々織田信長配下の武将ですし、こっそり祀っていたとしても不思議ではないわけですが、さてどうなのでしょう。

郷土史家のみなさまにお任せすることにしましょうか……。

というわけで、急いで行ってきた石川大観光、の途中で立ち寄ってきた記録でした。