べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「安井金比羅宮」「六道珍皇寺」(京都市東山区)

10/9。

「菅原院天満宮」を離れ、久々に「八坂神社」にやってまいりましたよ。

観光客がすごかったですよ。

直前に、拝殿でのトラブルのニュースがあった頃だったか……違ったかな……。

 

f:id:bennybebad:20250402220810j:image
f:id:bennybebad:20250402220634j:image
f:id:bennybebad:20250402220703j:image
f:id:bennybebad:20250402220719j:image

まあ、ほぼ狛犬さんに会いに行っただけなんですが……。

 

そして、そこからブラブラ歩いてみよう、ということで、安井金比羅宮へ。

 

◯こちら===>>>

www.yasui-konpiragu.or.jp

 


f:id:bennybebad:20250402220903j:image

事前知識ないままに参拝したのですが、こちらも人が多い……有名なところなんですね(無知)。


f:id:bennybebad:20250402220655j:image

末社の「安井天満宮」。

 

「(略)

江戸時代には綱敷天神や梅丸天神とも呼ばれ、洛中(京都の市中)の主要な天満宮を巡る「洛陽天満宮二十五社巡拝」のお社の一つとして信仰を集めました。文政四年(一八二一)に奉納された第三番巡拝所であることを示す石碑が現在も建っています。なお第十七番とする説もあります。

また社前の狛犬は台座の銘文から、明和四年(一七六七)十月、木屋町二條(現、京都市中京区)の人々によって建立されたことが分かり、年代が明確な石造狛犬としては京都市内最古として有名です。

(略)」

 

……そういえば、「菅原院天満宮」も「洛陽天満宮二十五社」に入っていたのではなかったか……どこかで一覧を探してみましょうか。

 

f:id:bennybebad:20250402220837j:image

f:id:bennybebad:20250402220859j:image

なるほど、趣がありますな……キャラクターとしての味が出ています。


f:id:bennybebad:20250402220639j:image

「久志塚」……櫛の塚ですね。

どこかでも見たかな……芸術系の神様(「天鈿女尊」とか)の神社にあったような。

こういったものも、だんだんと薄れていくんでしょうね……悪くないものだと思うのですが。

 


f:id:bennybebad:20250402220925j:image

櫛、といえば、「八岐大蛇」退治の頃は、まだ大陸から櫛が伝わってきていなかったのではないか、という話がありますね。

だからどうした、ですが。


f:id:bennybebad:20250402220917j:image

末社 八大力尊社

御祭神 八大力尊

(略)

八大力尊は、この地にあった蓮華光院の御堂の柱を支えた力石であったと伝えられております。当宮の鎮座する東山安井には、明治時代まで安井門跡「蓮華光院」という真言宗の寺院がありました。明治維新後の神仏分離の影響を受け、明治四年(一八七一)、鎮守社であった金比羅宮のみが残され、寺院は大覚寺へ合併され廃寺となりました。その後、地中より発見された御像を奉祀奉祀したのが八大力尊社といわれています。

当神社に残る唯一の蓮華光院ゆかりの八体の御石像は、基壇の一部として建物を支え続けたことに由来して、基礎を固めて困難や逆境に打ち勝つ力、社会を生き抜く能力を授けてくださる神様として、また現在では基礎能力の向上、スキルアップの御利益・御神徳の神様として崇敬されています。平成二七年に社殿の建替工事を行い、大覚寺御門跡とともに同年十月十日正遷座祭を斎行致しました。」

 

なるほど、神仏習合な存在ですね。

何かの基礎になる、ということは「そこから動くな」ということでもありますので、仏像ではよく夜叉が踏まれていますね……もちろん、単純に力持ち(力士とか)にあやかって、基礎にすることはあると思われますが、やっぱりSF古代史好きとしては、人柱的なものではなかったか、と妄想してしまいます。

 


f:id:bennybebad:20250402220851j:image

あれ、「八大力尊社」じゃないな……。

秋葉社」、「人丸社」、「咡社」。

秋葉社」は、火伏せですね。

「火之焼速男神(ひのやぎはやおのかみ)」という表記は、多分神仏分離の頃につけられたのではないか、と思います(「秋葉権現」ですから)。

「火気の元の火止まる」の語呂合わせで「防火」の神様と……知らなかった

「咡社」はまた珍しい……御祭神が不詳、「密語社」とも言われている……「密教の呪文」の意味もあるらしく、真言宗らしい神仏習合ではないか、とも考えられますね……しかし、「白山比咩大神」という可能性はないでしょうか……記紀神話で内緒話といったらもう、「白山比咩大神」でしょう。

何ら証拠はない、ただの妄想ですよ。


f:id:bennybebad:20250402220814j:image

あ、こちらが「八大力尊社」です。


f:id:bennybebad:20250402220842j:image

裏に回っていけます。


f:id:bennybebad:20250402220908j:image

「御背の御扉

主祭神 崇徳天皇様がお鎮まりになる御本殿中御座の御内陣の真後、即ち御神座の背面に位置する御扉。

神社建築では、本殿裏側に扉を設ける事は非常に珍しく、当宮は明治維新まで安井門跡蓮華光院という寺院の鎮守社であったため、仏教建築の影響によるものかと思われます。仏堂では背後に「後戸」という入口を設ける事があり、神仏習合(神仏混交)時代の様式を残すものと考えられます。

本殿外からとしては、御神座に最も近いことから、いつの頃からか御本殿正面のみならず当御扉にも手を合わせて祈願する習わしがございます。

なお「お百度参り」の際は、【①本殿正面で参拝②右回り(時計回り)で本殿真裏に至る③「御背の御扉」で参拝④右回りで正面に戻る⑤「お百度石」に至る】という一連の流れを一回と数え、百回繰り返して祈願する方法が伝わっております。現在では殆ど見受けられませんが、古くはより一層の御神徳を受けたいと切実に願う人々がお百度を踏まれました。」

 

というわけで、いわゆる「後戸」にまわることができるのですね。

案内文にもありますが、お百度の踏み方も(右回り、つまり右繞)、仏教的な要素が加わっているように思います。

天台宗で「後戸」といったら「摩多羅神」で、主祭神の「崇徳天皇」とはあまり共通点はないように思われます……が、怨霊ですからね……。

 

 


f:id:bennybebad:20250402220806j:image

これは……何だったかな……。


f:id:bennybebad:20250402220715j:image

「御背の御扉」。


f:id:bennybebad:20250402220731j:image

拝殿正面。


f:id:bennybebad:20250402220847j:image

「稲荷社」「厳島社」。


f:id:bennybebad:20250402220833j:image

……これも何だったか……二階建ての構造物が神社には珍しいので撮影したみたいです。


f:id:bennybebad:20250402220756j:image

松。


f:id:bennybebad:20250402220735j:image
f:id:bennybebad:20250402220659j:image

狛犬さん。


f:id:bennybebad:20250402220801j:image

社標。

薄いですね……「郷社 安井神社」。


f:id:bennybebad:20250402220827j:image

縁切り……あれ、この狛犬さんはアップで撮影していないぞ……。


f:id:bennybebad:20250402220707j:image

安井金比羅宮

祭神として崇徳天皇大物主神源頼政の三神を祀る。

社伝によれば、保元の乱(一一五六)に敗れて讃岐(香川県)で崩じた崇徳上皇の霊を慰めるため、建治年間(一ニ七五〜一ニ七七)に大円法師が建立した光明院観勝寺が当社の起こりといわれている。その後、観勝寺は応仁の兵火により荒廃し、元禄八年(一六九五)太秦安井(右京区)にあった蓮華光院が当地に移建され、その鎮守として、崇徳天皇に加えて、讃岐金刀比羅宮より勧請した大物主神源頼政を祀ったことから、安井の金比羅さんの名で知られるようになった。

本殿東の絵馬館には、当社に奉納された代償様々な絵馬が陳列されており、江戸時代の画家山口素絢等の作品も含まれている。

また、境内にある「久志塚」は、古い櫛の供養のために築かれた塚で、毎年九月の第四月曜日に櫛祭が行われる。」

 

なるほど、移ってこられたのか……それにしても、「崇徳院」と「源頼政」を一緒に祀っているのはどんな理由なんでしょうね……保元の乱では敵対関係ですし……何か逸話があったかな……「源頼政」は、怨霊になるにはちょっと弱いし……ううむ……。

あ、それはともかく、こちらの有名な「縁切り縁結び碑」ですが、あまり天気のよくない日にも関わらず、多くの方が順番待ちをされていたので、撮影はしていません。

縁切りたいのか、縁結びたいのか、どちらもなのか……「崇徳院」もお困りなのではないでしょうか(「日本の大魔縁」になったお方ですので、合縁奇縁自由自在、ということなのか……)。

 

さて、そこから足を伸ばして、六道珍皇寺にもお参りに。

 

◯こちら===>>>

www.rokudou.jp


f:id:bennybebad:20250402220818j:image

短い時間しかいられなかったのですが。


f:id:bennybebad:20250402220643j:image

「大石地蔵菩薩立像(大石地蔵尊)縁起

平安の昔、この寺の界隈は今日の東の葬地、鳥辺山へと続く道の出入り口付近にあたり、現世と冥界の境「六道の辻」と呼ばれていました。

また、徒然草に「あだし野の露、鳥辺山の煙・・・」とあるように、当時は飢饉や疫病の流行により、鳥辺山にはいつも骸を荼毘に附す煙が絶えず、また裾野一帯には火葬にすらできない人びとの遺骸や髑髏が散在するといった、まさに寂寥だけが支配する荒無地であったのです。

こうした人の世の無常とはかなさの光景を憂い、亡者の魂魄(霊魂)の弔いと冥界での往生を願われた弘法大師空海)が、今より千年以上前に、この「六道の辻」の地に身の丈七尺七寸(約二メートル三十センチ)の大きな石仏を一夜にして刻まれたのが、この『大石地蔵尊』と伝わります。

この地蔵尊の持ち物は左手に「宝珠」、右手には「錫杖」を持たれていますが「宝珠」とは「如意宝珠」にて意のままに願望を成就させてくださり、「錫杖」は、この世で迷い苦しみの世界にある衆生から地獄に堕ちた亡者まですべての救済のためどこにでもこの杖をついて出向いてくださり、そして時にはこの杖上部の金の輪を鳴らし、悪をも退け救っていただけることを表しています。

こうした地獄の果ての罪人までにも慈悲の目をそそいでくださる地蔵尊だからこそ、いく世紀も前より今もって京の人びとに篤い信仰があるといえるのです。(略)」

 

 


f:id:bennybebad:20250402220822j:image

なるほど……この屋根の趣の無さよ……。

 

f:id:bennybebad:20250402220912j:image

境内。


f:id:bennybebad:20250402220711j:image

「平安の銘鐘」は鳴らせたようです。

 


f:id:bennybebad:20250402220752j:image

「閻魔・篁堂

堂宇には、右手に笏を持った等身大の衣冠束帯姿の小野篁立像(江戸時代)と善童子や獄卒鬼さらにはその傍には、閻魔大王坐像(小野篁作)を安置するとともに弘法大師空海)坐像等を合祀する。

小野篁(八〇二〜八五二)は、参議小野岑守の子で嵯峨天皇につかえた平安初期の政治家であり文人歌人としても知られる。

文章生より東宮学士(皇太子の先生)などを経て閣僚級である参議という高級官僚にまでなり、また乗馬・弓術・剣術など武芸百班にも優れた文武両道の人物であった。

不羈な性格で、「野狂」ともいわれるように奇行も多く、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔王宮の役人であったという奇怪な伝説は、「江談抄」や「今昔物語」などの説話集や「元亨釈書」等にも数多くみたれることより、平安末期頃には篁が、独特の神通力を有しつねに現世と冥府の間を往来する閻魔庁における第二の冥官であると語り伝えられていたことがうかがえる。

また、篁は承和五年(八三八)三十代半ばで遣唐副使に任じられながら、大使の藤原常嗣と争い、「西道謡」という詩を詠んで遣唐使制度を風刺したことなどにより嵯峨上皇の怒りに触れて、隠岐流罪となり、一切の官位官職を奪われたこともある。しかし、承和七年(八四〇)には帰京・復位を許され、その後は学殖を高くかわれて順調に官位を登り、承和十四年には従三位という高位に就いていることからも篁の尋常でない才能のほどがわかる。

篁が流刑地隠岐へ流されるときに詠んだ歌は小倉百人一首にも採られ、知る人も多い。

わたの原 八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり船(略)」

 


f:id:bennybebad:20250402220748j:image

「地獄の冥官 小野篁の伝説が残る現世と冥界の境界にある寺

古来、化野、蓮台野とともに風送の地として知られていた鳥辺野。かつての五条通であった門前の松原通は鳥辺野へ亡骸を運ぶ際の通路であった。現世から冥界へ行く際の入り口とされたこの寺の界隈にはさまざまな伝説が残る。

平安時代五条坂から今熊野あたりの阿弥陀ヶ峰の麓一帯は鳥辺野と呼ばれる京の東に位置する葬送の地であった。

都人たちは、人が亡くなると亡骸を棺に納め、鴨川を渡り、鳥辺野へ至る道筋にあたる六道珍皇寺にて野辺の送りの法要を営み、この地で最後のお別れの後、隠亡により風葬の地である鳥野山の麓へと運んで行かれた。

そんな風習のためか珍皇寺の辺りを中世以降「六道の辻」と称し、他界(冥界)への入り口とされてきた。

この六道とは、仏教の説く六道輪廻の死後の世界のことで、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界の六つの世界をさす。

衆生は死後生前の善悪の業(行い)により、六道のいずれかに赴くとされ、珍皇寺はこの六種の迷いの世界への入り口にあたり、こここそが人の世の無常とはかなさを感じる「あの世とこの世」の分岐点と信じられてきた。

この寺と冥界にまつわる伝説がもう一つある。それは、平安時代初期の官僚で、閻魔大王に仕えたとされる小野篁は、この珍皇寺の庭の井戸を使い、夜毎冥界へ通ったという。また、その出口として嵯峨野の大覚寺門前の六道町に明治頃まであった福生寺の井戸を使ったとの説もあるが近年当時の隣接民有地(旧境内地)より、冥土からの帰路の出口に使ったのではと伝わる「黄泉がえりの井」も発見され、神秘の世界との繋がりをより深めることとなった。(略)」

 


f:id:bennybebad:20250402220723j:image

「お迎え鐘

この鐘楼にかかる鐘は、毎年盂蘭盆にあたり精霊をお迎えするために撞かれるが、古来よりこの鐘の音は、遠くは十萬億土の冥土まで響き渡り、亡者はそのひびきに応じてこの世に呼び寄せられると伝わることより「お迎え鐘」と呼ばれている。

古事談」によれば、この鐘は、当時開基の慶俊僧都が作らせたもので、あるとき僧都が唐国に赴くときにその鐘を三年の間、この鐘楼下の地中に埋めておくようにと寺僧に命じて旅立った。

ところが留守をあずかる寺僧は待ちきれず、一年半ばかりたって掘り出して鐘を撞いたところはるか唐国にいる僧都のところまで聞こえたといい、僧都は「あの鐘は三年間地中に埋めておけば、その後は人手を要せずして六時になると自然に鳴るものを、惜しいことをしてくれた」といって大変残念がったという。

しかし、そんなはるか彼方の唐国にまでも響く鐘なら、おそらくは冥土までも届くだろうと信じられ、このような「お迎え鐘」になったと伝えられている。かかる話は「今昔物語」巻三十一にも同巧異曲の物語で出てくる。こうした由来の鐘であるから、お盆の時期にはこのお迎え鐘を撞く順番を待つ参詣人の列が八坂通りまで蜿蜿と続く。

そんな風景をみて昭和初期の歌人、川端茅舎は次のような俳句を詠んでいる。

金輪際 わりこむ婆や 迎え鐘 

迎え鐘 ひくらしろより 出る手かな

毎年お盆の時期になると、このお迎え鐘は千年もの長きにわたり澄んだ音色を時空をこえて冥土まで響かせ、旅立たれた多くの精霊たちを晩夏の都に迎えている。そして、また来るお盆を迎えるまでは、この寺を訪れる多くの人たちの心の安らぎと幸せをもたらす「慈しみの鐘」として、その穏やかな音色は渇いた心をやさしく癒してくれる。(略)」

 

……『今昔物語』、全部読んでいないな……大事だ。


f:id:bennybebad:20250402220929j:image

「薬師堂」。


f:id:bennybebad:20250402220647j:image

六道の辻」。


f:id:bennybebad:20250402220727j:image

小野篁卿舊跡」。

今までこの辺りはよく通っていたんですが、どうしても「六波羅蜜寺」に行ってしまう、という……(いや、結構離れているだろう……)……「六道珍皇寺」、中の写真はあまりありませんが(仏像は基本撮影できませんから)、やっと私も「六道の辻」に……で、結果解脱はできないのですね……悟ってからここに立つべきか……。

 

 


f:id:bennybebad:20250402220921j:image
f:id:bennybebad:20250402220855j:image
f:id:bennybebad:20250402220739j:image
f:id:bennybebad:20250402220743j:image
f:id:bennybebad:20250402220651j:image

御朱印は、「八坂神社」と「安井金比羅宮」。

「八坂神社」は、昔もらい忘れていた分をいろいろと。

六道珍皇寺」は、本当に立ち寄っただけで、御朱印がいただけるのかどうか、わかりません。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第1輯第1編都名所図会,大日本名所図会刊行会,大正7-8. 国立国会図書館デジタルコレクション

大日本名所図会 第1輯第1編都名所図会 都名所図会. 上,下巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2025-04-16)

 

『都名所図会』から。

まずは、p220。

 

「安井観勝寺光明院 は安井御門跡前大僧正性演再興し給ふ。古より藤の名所にて、崇徳天皇の后妃阿波内侍、此所に住ませ給ふ。天皇保元の乱讃岐国へうつりましまして、御形見に束帯の尊影、御随身二人の像を画きて、かの地より皇后に送り給へり。其後天皇(讃岐院とも申す。)配所松山に於て、大乗経を書写し、和歌一首を添へ給ひて、都の内に納めんとて送り給ふ。

濱千鳥跡は都にかよへども身は松山にねをのみぞなく 讃岐院

然るを小納言入道信西奏しけるは、若咒咀の御心にやとて、御経をば返しければ、帝大に憤り給ひて、大魔王となつて天下を朕がはからひになさんと誓ひて、御指の血を以て願文を書き給ひ、かの経の箱に、奉納龍宮城と記し、椎途といふ海底にしづめ給ふに、海上に火燃えて、童子出でて舞踏す。是を御覧じて、所願成就すと宣へり。夫より爪髪を裁り給はず。六年を経て長寛二年八月二十六日に崩御し給ふ。御年四十六、讃州松山の白峰に葬り奉る。(已上[保元記]に見えたり。)夫より御霊此地に来りて、夜夜光を放つ。故に光堂ともいふ。然るに大圓法師といふ真言の名僧、此所に来つて参籠す。崇徳帝尊体を現じ、往時の趣を示し給へり。大圓これを奏達し、詔を蒙りて堂塔を建立し、かの尊体を鎮め、奉り、光明院と號しける。仏殿の本尊は准胝観音なり。御影殿は後水尾院の宸影、明正院并に東福門院の尊牌を安置し奉。又弘法大師像あり。奥の社は崇徳天皇、北の方金比羅権現、南の方源三位頼政、世人おしなべて安井の金毘羅と称し、都下の詣人常に絶ゆる事なし。崇徳帝、金比羅同一体にして、和光の塵を同じうし、擁護の明眸をたれ給ひ、利生霊験いちじるしとぞ見えにける。当寺の門前を新更科と號し、中秋には洛陽の騒客ここに集りて、東山の月を賞す。今は家居繁く建てならびて、風景を喪ふ。」

 

半分くらいは「崇徳天皇」の伝説で、あとは「光明院」だった頃の描写。

最後に「風景を喪ふ」っていうのは、なかなかすごい表現だな、と思います(江戸末期〜明治に書かれているので、さもありなんか)。

 

続いて、p100に戻りまして、

「珍皇寺 は建仁寺の南、松原通にあり。(六道と號す。)本尊薬師仏は、伝教大師の作にして、開基は慶俊僧都、中興は弘法大師。篁堂には小野篁の像を安置す。(此所より冥土へ通ひし道なりとぞ。)閻魔堂は東の方にあり。迎鐘は七月九日十日、参詣の人此鐘を撞いて、聖霊を迎はしむなり。

六道辻 本堂の南にあり。当寺は久代平安城墓所なり。桓武天皇延暦十三年に、長岡より此京にうつらせ給ふ時、此所を諸人の墓所に定め給ふ由、[遷都記]に見えたり。又ここを愛宕ともいふなり、([源氏物語]に、桐壺の更衣を葬り、おたぎといふ所に其さまいかめしうしてと書けるも、此所の事なり。[河海抄]には、弘法大師の聖跡として、東寺の長者管領しけるとかや。今は建仁寺塔頭大昌院の兼◼︎所となる。)」

 

ちょっとあっさりですが。

 

小野篁」といえば、我々世代には、『篁・変成秘抄』なのですが、これが不思議なことに読んだ記憶がない、という……『宇宙皇子』は読んでいたんですがね……ともあれ、初めて「小野篁」を意識したのはこの本であることに間違いはないです。

 

 

いやあしかし、年に一度は京都に出かけて、「萬福寺」でのんびりしたいものですね(祇園も東山も嵐山も、観光客だらけ……)。

六道珍皇寺」は、もっといろいろと妄想したかったです……。