11/5。
「白龍神社」を堪能したあと、たまたま第一土曜日だったので、「久住山法蔵寺」というお寺へ。
○こちら===>>>
↑ウィキペディアさんです。
2004年に、「八角堂」が再々建されてからは、第一土曜日のみ拝観できる、とのことでしたので。
お寺の前の掲示板。
マスク姿の怪しい人影が写っていますが、通報しないでくださいね。
いきなりですが、「八角堂」。
お寺でいただける案内によると、現在は阿弥陀如来を安置しているようです。
八角。
こちらは、その奥の稲荷堂。
ご本尊は「豊秋稲荷大明神」で、「伏見・豊川の両稲荷大明神を勧進・合祀」したとのことです(お寺の案内より)。
扁額にはおそらく「吒枳尼真天」と書かれていると思われます。
稲荷堂の前の地蔵堂。
そこから奥に進むと、「不動明王」と「二大童子」がいらっしゃいます。
で、さらに奥に行きますと「黒龍社」。
「不動明王の持物、知恵の大剣と絹策が倶利伽羅の利剣を意味し、火焔は煩悩を焼き尽くす。不動明王に祈願すれば、知恵の利剣をもって心の悩みを断ち切り幸福になれるといわれる。
黒龍社の御神体は倶利伽羅龍王豊春大社と倶利伽羅龍王豊秋大社で、不動明王の化身といわれる。」
とお寺でいただける案内には書かれています。
先ほどの「白龍神社」からは、徒歩で10分ほどの距離にある「法蔵寺」。
あちらが「白」で、こちらは「黒」、ということに何か意味があるのでしょうか。
むむむ。
……自分で撮影しておいて、正体がわかりませんが……石庭的な者と思えばよろしいのでしょうか。
瓦が埋まっていますね……こういった様式を表す言葉を、申し訳有りません、私は存じ上げないもので。
虫塚。
これは、いわゆる害虫駆除の供養なのか、鈴虫なんかの観賞用の虫の供養なのか、どちらなのでしょう。
仏教的には、害虫の供養、ととらえるほうがしっくりきます。
石庭。
手水舎など。
門はこの右手、「八角堂」は左手、です。
宝塔。
三鈷杵、独鈷杵、転法輪、と『孔雀王』大好きな人にはたまらないレリーフ。
「華堂先生之碑」。
どなたなのかわかりませんが……碑文を読むに、画家だったようです。
詳しいかたにお任せします……。
これは多分、「放生池」の碑でしょうか(いえ、わかりません)。
「廣井天王みたらし」の碑。
「広井天王」は、前回もご紹介した、
○こちら===>>>
「洲崎神社」(名古屋市中区) - べにーのGinger Booker Club
「洲崎神社」(補) - べにーのGinger Booker Club
↑現在の「洲崎神社」のことです。
数百メートルは離れていると思いますので、往時の「洲崎神社」の境内の広さが偲ばれます。
お寺でいただける案内には、「この周囲はむかし入江の岬で、天王崎と呼ばれていたと伝えられる。この地に古くから清水井があり、堀川対岸の洲崎天王社のお手洗いであったことが記された石碑。裏面の文字から、享保九年頃建てられたとされる。」と書かれています。
横からですが、「藩学聖堂」と彫られています。
こちらを向いているほうには、「源敬公創建 舊在城郭内穪先聖殿」とあります。
お寺でいただける案内には、「尾張徳川藩初代藩主、徳川義直は儒学を厚く奨励し名古屋城二之丸庭園に孔子霊廟の先駆けとなる、聖堂(学問堂)を建立、「先聖殿」と名付けた。堂内には五聖七十二賢人の像がまつられ、義尚は儒学の教えをもとに藩政の理想を追求したと伝えられる。七代藩主徳川宗春の頃、城下の法蔵寺へ移築、阿弥陀如来を本尊として安置。」とあります。
なるほど、元々は孔子廟的なものだったのを、宗春ぼっちゃんがとっぱらっちゃった、という伝説が残っているわけですね。
門から中を。
季節や時刻、向かいの建物などの関係で、ちょっといい写真になっちゃいました。
寺院によく見られるやつ。
「酒飲んで門をくぐるなよ」、という意味だと思います。
「八角堂」、と。
遠景がとれないかな……と思ったんですが、なかなか無茶な話でした。
さて、今回は御朱印もありませんので、引用をいってみましょうか。。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会
『尾張名所図会』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
123コマです。
「久住山法蔵寺八角堂 長圓寺の北にあり。天台宗、江戸東叡山の末寺なり。
本尊 薬師如来。伝教大師の作。
清水 門前にあり。ふるくしてたぐひなき名泉なり。」
↑あら、あっさりな……。
122コマの図絵もご参照ください(現「洲崎神社」と八角堂の位置関係がわかるかと)。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 2 名古屋
↑『尾張志』も確認。
21コマです。
「法蔵寺 府志に法の字を寶に作る今町方府志徇行記及寺記によれり
廣井村のうち堀川の西水主町にありて久住山と號し江戸東叡山寛永寺の末寺なり 享保元年尊壽院の住僧智鋒か本願にて新尾頭町なる扣屋敷うちに一寺を建立し 法蔵寺といふ号は舊く巾下にありし廃寺の号也徇行記には替地出来町にありしよしに記したれと貞享名古屋絵図の替地出来町の所に寺院の跡ありしとも見えす且張州志畧に名古屋村六区町にありしよしに見え寺傳にも法蔵寺といふ廃寺の巾下に在し其号を移ししよしにいひ傳へたれはしはらくそれらの説にしたかいぬ 密蔵院の末寺となりしを同九年今の處にうつし比叡山安楽院の末寺となり僧玄門を開山とし天台律院とす 其後寛延四年今のことく江戸東叡山の末寺となれり
本堂 享保九年七月建立して八角堂と呼り本尊は阿弥陀の木造持国天毘沙門天なり 放生臺 山王社」
↑……うーん、思っていたより全然少ないな。
「先聖殿」に関しては、
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 1 名古屋
同じく『尾張志』にさらっとありました(「明倫堂」の記事中/15コマ)。
「(略)其後今の学館の東長者町の方に聖堂を御創建ありて源敬公御真蹟の先聖殿の扁額を掲げさせ玉へり また源敬公より御伝来の聖像二軀 銅木 御側にありしを文政六年八月堂中へ遷し給ひ同七年二月聖堂の側東北の方に祠を造りて木造はかりを安置し銅像は御文庫に収め置玉へり 聖堂御造作半途にして天明六年二月十三日まず假釋菜を行ひ玉ひ(略)」
ということなんですが……そのあとにどこかへ移したようなことは書いていませんでした。
うーん……。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編
↑『名古屋市史 社寺編』ではどうなっているでしょう。
233コマです。
「法蔵寺
法蔵寺(略)は久住山と號し、俗に八角堂と称す、中区水主町一丁目 もと廣井村と称す の西側に在り、境内は九百二坪五合八勺 徳川時代には三千二百八十三坪七勺あり、内百五坪清水井竝水汲道は除地にして、餘は年貢地なり、年貢地の内五百八十五坪程は智鋒の隠居地にして、尊壽院の後住へ譲れるものなり あり、一等寺にして、比叡山安楽院の末寺なり、 初め野田密厳院の末寺なりしが、享保九年安楽院末となり、寛延四年、東叡山寛永寺末となり、後復今の末寺に改む 、もと清須に在り、開基詳ならず、慶長遷府の際、住僧豪三、名古屋に移し、愛知郡名古屋村六区 今西区六句町 に在りしが、其後頽破に及びしを、貞享二年、今の桶屋町福泉寺の支配となし、新田出来町 徇行記に替地出来町となし、張州志略には廣井村信行院(今高田本坊)西となし、海邦名勝志には廣井町西となす、今の西区替地町なり、年貢地也 に移し、享保元年、神宮寺六世智鋒 維摩院又は界如院と號し、寛道と名く、密厳院三十六世なり、元文元年十二月八日寂す 、熱田新尾頭町 神宮寺扣地なり、海邦名勝志に熱田一の鳥居の北とせり に移し、 維摩院より法蔵寺へ引渡の記録には、巾下より此地に寺号を引移すとせり、蓋し替地町をも巾下となししものならん 、享保九年、今の地に替地を請ひて移転す、同年七月藩祖義直 敬公 より御吹井丸に在し六角堂を賜はり、九月天台律院として、安楽律院末となし、寺務は神宮寺の取扱となす、十年三月、本堂の移建落し、四月安楽院第三世玄門を請じて、律規を定めしむ、由りて玄門を中興開祖となし、智鋒を中興開基となす、(略)本尊は木造阿弥陀如来坐像 傳曰恵心僧都作、尾張名所図会には本尊薬師如来、伝教大師の作とあり 、夾侍は同持国天、毘沙門天の立像 作者不詳 なり、現今の堂宇には、本堂 八角堂 、庫裏、座敷、鎮守日吉山王権現堂 享保十年建立 、孥吉尼天堂、門等あり(以下略)」
↑うん……よくわかりませんが、「法蔵寺」には「法蔵寺」の歴史が、「八角堂」には「八角堂」の歴史があって、享保の頃に「八角堂」を「法蔵寺」に移したので、そこから「法蔵寺八角堂」になった、という理解にしておきましょう。
どうして移ったのかがよくわかりませんけれども。
何かそこに秘密があるのか、ないのか。
むーん……そんなに昔のことでもないのに、もやもやしますね。
↑最後に、『密教辞典』から。
「倶利伽羅龍王[梵:Kulika(略)訳:黒龍・尊勅(略)]不動明王を念じる功力によって、この龍を駆使し、または保護を受ける信仰から出発して、不動明王の化身とし三昧耶形とする龍。(以下略)」
深くはわかりませんが、そもそも梵語のの「Kulika」を訳すと「黒龍」になるので、「黒龍社」と呼ばれているようです。
「豊春大社」「豊秋大社」については、よくわかりません。
モヤモヤのまま終了〜。