さて。
どうもiPhoneで撮影した写真を、はてなブログにアップして、さらにそれをiOSのSafariで見ると、位置情報が残っているために、横倒しになってしまう、という現象があるらしく、前回の記事がまるっとそうなってしまいました。
修正しておきましたが、iOSでご覧でない方には関係のないお話でした。
さて。
まずは何からいきましょうか、というほど資料を漁っていないのですが(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
とりあえず、
○こちら===>>>
↑『名古屋案内』はいかがでしょう。
31コマです。
「中区天王崎町堀川の東岸に鎮座す。祭神は素戔嗚命、五男三女神、稲田姫命にして明治四十五年七月石神社の祭神たりし布都御魂を合祀せり今境内八百餘坪に過ぎざるも、往古は実に宏濶にして入口の御手洗水は今の西水主町八角堂の清水にして、境内に椋、榎、樫、松等生ひ茂り椋の森と呼びたりといふ。例祭は毎年五月十三日なり。」
すっきりまとめられていて、現在でも通用しますね。
ただ、「椋の森」というには、今の社地は小さくなってしまっていますが。
続いて、
○こちら===>>>
↑……ついに区史に手を出すようになってきました。
223コマ。
「洲崎神社 (所在 天王崎町)創立の事は詳かではないが、名古屋城築造の際堀川によつて東西に分れ、現在水主町法蔵寺門前に当社の御手洗の旧跡がある。須佐之男・命布都神命を祭神としてゐる。例祭は七月十三日、十四日の両日此の時に限り疫病除五色鈴(土鈴)を授与するが、名古屋における土鈴の創りといはれてゐる。郷社である。
(略)」
内容はほぼ同じで、この神社のポイントは、「牛頭天王」「名古屋城築城の際東西に分かれる」「法蔵寺門前に御手洗あり」、というところなんですね。
夏の最中の例祭で、疫病除けの土鈴を授与する、という「牛頭天王」らしいお祭りです。
そして、
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会
↑『尾張名所図会』です(123コマ)。
最初「洲崎神社」の記事を一生懸命探したのですが、途中で「あ、そうか江戸時代だから、『牛頭天王』を探さないと」と気付きました。
失敗失敗。
「牛頭天王社 広井堀川の東岸にあり。其辺を天王崎と称す。この地東北は甚だ高く西南はひきくして、むかしは入海の岬なりし故、洲崎天王と称せしとぞ。境内も広く、川向の八角堂門前の清泉はもと当社の御手洗にして、其辺椋・榎・樫・松等の林なりし故、椋の森とも呼べり。
本社 素戔嗚尊・稲田姫・八王子を合せ祭る。
摂社 泰産社。伊弉諾・伊弉冉の両尊・豊玉姫を配祀す。伊弉諾・伊弉冉の両神は造化の父母、豊玉姫は産屋に縁ある神なれば、泰産の神とする事ことわりなり。
船玉社 摂津国住吉郡船玉神社と同神にて、祭神異説多しといへども、実は[続日本紀]天平宝字七年壬午の條に、高麗国へ遣はされし使船暴風にあひ、船霊を頼みて難をまぬかれし故、能登といふ船に従五位下を授けられしよし見えたる如く、船舶精霊を船玉と祭りたるものなるべし。
例祭 六月十四日・十五日。近年氏子より堀川車楽船(だんじりぶね)を流す、津島の宵祭の如し。
社家 二人。永田氏・吉川氏。久住山法蔵寺八角堂 長圓寺の北にあり。天台宗、江戸東叡山の末寺なり。
本尊 薬師如来。伝教大師の作。
清水 門前にあり。ふるくしてたぐひなき名泉なり。」
まだ「石神社」が合祀される前のことです。
このころの摂社は「泰産社」と「船玉社」と書いてありますが、この前のコマの図絵には、「住吉社」も書いてあります。
江戸のころには、今の境内社もほとんど揃っていたのかもしれません。
「弥五郎社」は、
○こちら===>>>
津島神社(前編) - べにーのGinger Booker Club
「牛頭天王」つながりで、「津島神社」の「弥五郎殿社」を勧請したのではないかなと思います。
さてさて。
この「洲崎神社」、かつては西南が海に面していた、ということなのですが。
この「かつて」がいつなんだか、案内板によれば貞観年中(859〜)の創建の頃を指しているのでしょうか。
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↑は、名古屋の江戸末期と現在の町並みの地図を重ねて見ることができる、という素敵物なのですが。
この本によれば、堀川の長さは、
「開削当時の運河の全長は7236メートル(略)現在の朝日橋(名古屋城西側)から測ると熱田区の白鳥橋付近になり、当時はこの辺りが海岸線だったことが分かる」(p60)
だそうです。
「洲崎神社」の社地は、朝日橋から白鳥橋の間にありますので、堀川開削の頃はすでに海には面していなかったわけですね。
そこで、
○こちら===>>>
↑その道では超有名な、「猿投神社」に伝わっていた古地図です。
この図の右の真ん中辺り、「アツ田」というのが今の「熱田神宮」周辺で、さらにその上に「日ヲキ」と書かれていますが、「洲崎神社」があるのは、そこから少し上になります。
伝承によればこの古地図は養老年間(717〜724)のものになりますので、それから100年ほど経って、「洲崎神社」が創建されたとすれば、そして地形がこの古地図とそれほど変わっていなければ、「西南海に面」していたことがうなずけます。
もっとも、創建年代についてはわかりませんけれど。
さてさて、案内板(同社文書)によれば、「洲崎神社往昔出雲稲田宮の神を移し祭りて洲崎の鎮たり云」とあるそうです。
どこの社なのか、これだけの記載ではわかりませんが、「稲田宮」というからには、「奇稲田姫」をお祭りしていたと想像されます。
「素戔嗚尊」の妻神ではありますが、「素戔嗚尊」ご本人ではありません。
「洲崎神社」が昔から「素戔嗚尊」を祀っていた、ということはないでしょう。
ま、昔は「天王社」だったので、当たり前なんですが。
「牛頭天王」と「素戔嗚尊」が習合したのは、13世紀頃ではないか、という説があります。
それまで、「牛頭天王」は「牛頭天王」、「素戔嗚尊」は「素戔嗚尊」だったのです。
また、「牛頭天王」に関係のある「蘇民将来」の信仰は、長岡京(784〜734)の遺跡から「蘇民将来之子孫者」という木札が発見された頃から、奈良時代まで遡ることができる、と考えられています(「蘇民将来」信仰は、その伝説にもありますが、もともとは疫病除け、です)。
で、先ほどの「尾張国古地図」を見ていただくと、「日ヲキ」の西の方に、「ツシマ」があります。
その辺りが「津島神社」のあったところ、と考えていいでしょう。
「洲崎神社」の御祭神は、海で繋がった「津島神社」から勧請された、と考えるほうが妥当な気がします。
こっち側(「熱田神宮」近辺)にも、疫病に対抗しうる神社が必要だったのかもしれません。
もし出雲からお呼びしたのであれば「素戔嗚尊」でもおかしくないのですが(いや、時期と場所によっては微妙ですが)、「津島神社」からお呼びしたから「牛頭天王」だったのでしょう。
※参考
伊勢神宮と出雲大社 「日本」と「天皇」の誕生 (講談社選書メチエ)
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往時を偲ぶ景色はあまりありませんが、なかなかのワンダースポットでした。
「天王祭」というのは、江戸時代にはすさまじく盛り上がったようで、現代のもそれを復活させようという人たちがいるようです。
確かに、「なごや祭」というものに取って代わられて、伝統的なお祭りが姿を消していますから。
そういった運動もいいのかもしれません。
……あれ、トリミングしたんだけどな……。