11/26。
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「鳳凰山甚目寺」 - べにーのGinger Booker Club
↑以前の記事です。
二王門。
天気がいいです。
お猫様発見。
幸先のいい……そこは暖かいのかしら。
二王門アップ。
……なんだったかな、これ。
亀みたいな石だな、と思ったみたいです。
ええと……読めん(悔)。
本堂。
手水舎。
遠景。
仁王様。
たら仁王様。
御朱印。
ふう……途中でお隣の「漆部神社」にも寄りました(が、そちらはお昼休みで御朱印いただけず)。
次回「漆部神社」の再訪記事を〜。
さて。
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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第9編尾張名所図会
↑『尾張名所図会』からいってみましょう(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
101コマです。
「鳳凰山甚目寺(じんもくじ)
甚目寺村にあり。真言宗、府下真福寺末。寺伝に云く、当寺は甚目(はだめ)龍麿の創建にして、龍磨常に漁猟を業とせしが、一日網を携へ、海浜に出でんとし、傍なる入江に網を下しけるに、たちまち網の裏に物あると覚えければ、力を出し網を引きしに、紫金仏の一體を得たり。つらつら見奉るに、聖観音の霊像なれば、且驚き且悦び、合掌礼拝し、立所に己が罪劫を後悔し、所業を捨てて道心を発し、江の側に一宇を造立し、彼尊像を安置し、吉貴四年丁巳 推古天皇の六年也。 其姓氏を以て寺号とす。こは往昔釈尊出世の時、南天竺毘舎離国の月蓋長者の息女如是女、五種の悪病をうれへける時、釈尊より弥陀・観音・勢至の三尊仏を授与し給ひて、彼劫病を救はせ給ひし霊像なりしが、其後我が日本に伝来し、弥陀の尊像は信濃国善光寺に安置し、観音の像は即当寺の本尊とならせ給ふ。或時、天智天皇御不豫にましましけるが、帝当寺の霊験あらたなる事を聞し召し、御祈願ありけるに、御悩忽ち御平兪あらせられしかば、勅使左小辨兼盛を以て、八葉の宝鏡 今に寺伝す。 を仏殿に懸け給ひ、勅願寺となし給ひぬ。白鳳八年己卯又勅宣ありて、堂舎を建立し、鳳凰山の勅額を下し賜ふ。仁寿三年癸酉、更に一宇を造営して、龍磨の像を安置 後回禄せり。 す。康和五年癸未、散位藤原連長・僧智能、共に私力を盡し再営す。寺僧及び下司大江重房等も亦合力して、堂舎終に復古せり。天治元年甲辰二月朔日の地震に、又堂宇破毀す。建久七年丙辰、聖観上人檀越に勧め、施入を請い経始す。二月十日山に入り木を伐る。是を釿始とす。同八年四月四日石台を居ゑ、五月八日柱を立て、七月十一日上棟す。正治二年庚申堂宇を葺き、建仁元年辛酉十一月三日落成し、同十八日午時堂供養、勅使大膳大夫安倍資元なり。さて上人一力にて大宇を修造し、供養を遂げければ、即上人を以て中興の開祖とし、木像を堂内に安置せり。上人曾て観音池を巡礼して後、其行方をしらず。又来日も知る人なければ、恐らくは、観音の権化ならんかと、諸人奇異の思をなせりとぞ。夫よりして法灯絶ゆる事なく、堂塔も厳然たる無垢清浄の古名刹なり。
本尊聖観音 三国伝来閻浮檀金の秘仏なり。左右に毘沙門・持国二天の尊像を安置す。往昔一遍上人当寺へ参詣ありて、踊念仏執行ありし時、此毘沙門天僧俗と共にをどり給ふ。故に踊毘沙門と称す。上人廻国の序、当国に来られし時は、必堂前にて今猶念仏行導あり。是当年の余波なるよし。又持国天は俗に田植毘沙門と称して、むかし萱津の里に千木下長者といふものあり。此尊像を深く信仰しけるが、或時一夜の中に十餘町の田を植ゑ給ひしかば、夫よりして田植毘沙門と號す。をどり毘沙門と共に霊像なり。また堂内に一木巨像の四天王を安置す。即行基菩薩の作にして、いづれも霊像なり。
寺宝 阿弥陀の木像 曽我十郎祐成が妾虎女尼となりし後、六十六軀の阿弥陀仏をつくり、六十六箇国の寺院に納めし其一體なりといひ伝ふ。 (以下略)
釈迦堂 堂内に聖僧の木像を安置す。白き帽子冠りけるゆゑ、諸人女体と心得、白粉をほどこすによろしとて、尼僧に乞へば白粉を與ふ。俗におそうざうといふ。此外準提堂・薬師堂・十王堂・地蔵堂・阿弥陀堂・開山堂・護摩堂等の数宇、いづれも皆境内にあり。
三重塔 本尊愛染明王。弘法大師の作。(略)
二王門 本堂の南にあり。建久七年再建のままにて、今も猶存す。棟札に『梶原景時奉行』とありといひ伝へたり。
(略)
鎮守 八大明神・山王権現の二社、其外白山社・天満宮社・金毘羅社等数祠あり。大師堂・弁財天社等、二王門の外にあり。
観音池 寺の東南の畑中に、江上と云ふ所あり。ここなる池即古観音の上り給ふ所なり。故に今に至る迄、正月三日には、未明より一山の衆僧集りて、本堂の後なる鳳凰山を巡り行列して、其後此池辺に至り、大般若を転読す。
(略)
網之衆三家 甚目龍磨の末裔にして、妻帯の僧徒なり。按ずるに、甚目連は尾張海部郡本貫の氏姓にて、[三代実録]に『貞観六年八月八日壬戌。尾張国海部郡人治部少録従六位上甚目連公宗氏、尾張■師従六位甚目連公冬雄等。同族十六人賜姓高尾張宿禰。天火明命之後也。』としるせり。今の印行本に甚目連を其目連とあるは誤なり。
(略)」
図会には鳳凰山という小山が描かれていたりします。
二王門、十王堂なんかも見えますね。
「甚目寺(じんもくじ)」
括弧は、ブログ筆者が便宜上つけたものです。
江戸時代には「じもくじ」ではなく「じんもくじ」だったんですね。
音便変化が起こるのは意外にも早いようです。
「こは往昔釈尊出世の時、南天竺毘舎離国の月蓋長者の息女如是女、五種の悪病をうれへける時、釈尊より弥陀・観音・勢至の三尊仏を授与し給ひて、彼劫病を救はせ給ひし霊像なりしが、其後我が日本に伝来し、弥陀の尊像は信濃国善光寺に安置し、観音の像は即当寺の本尊とならせ給ふ。」
おっと、ここでまさかの「善光寺」登場。
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「定額山善光寺」 - べにーのGinger Booker Club
「善光寺」(2) - べにーのGinger Booker Club
「善光寺」(3) - べにーのGinger Booker Club
善光寺(4) - べにーのGinger Booker Club
↑こちらの(3)(4)辺りに、『善光寺道名所図会』などからの引用がありますので、よろしければ。
確かに、「善光寺」の縁起でも、「月蓋長者」が三尊を釈迦より賜った、というようなことが書かれています(戦国〜安土桃山にかけて、「善光寺」の本尊があちこちに移ったときに、「甚目寺」にもいらっしゃっていますしね)。
自分のところの御本尊の記述しか残さないのは仕方ないとして、まさかそのとき捨てられた仏像が、難波から流れ流れて尾張まで……ん、海流的に可能ですか?
紀伊半島沿いにどんぶらこ、とやってきたのでしょうか。
うーん……まあ伝説ですのでいいのですが。
尾張といったら、どちらかといえば物部系の勢力も強いところだったようです、そこに仏像が流れてきてお祀りしたというのもちょっと疑問。
「本尊聖観音 三国伝来閻浮檀金の秘仏なり。左右に毘沙門・持国二天の尊像を安置す。往昔一遍上人当寺へ参詣ありて、踊念仏執行ありし時、此毘沙門天僧俗と共にをどり給ふ。故に踊毘沙門と称す。上人廻国の序、当国に来られし時は、必堂前にて今猶念仏行導あり。是当年の余波なるよし。又持国天は俗に田植毘沙門と称して、むかし萱津の里に千木下長者といふものあり。此尊像を深く信仰しけるが、或時一夜の中に十餘町の田を植ゑ給ひしかば、夫よりして田植毘沙門と號す。をどり毘沙門と共に霊像なり。また堂内に一木巨像の四天王を安置す。即行基菩薩の作にして、いづれも霊像なり。」
↑この辺りも面白いですね。
「持国天」が「田植毘沙門」と呼ばれたというのも、適当というか、おおらかというか。
「釈迦堂 堂内に聖僧の木像を安置す。白き帽子冠りけるゆゑ、諸人女体と心得、白粉をほどこすによろしとて、尼僧に乞へば白粉を與ふ。俗におそうざうといふ。」
↑「おそそ様」のことにも触れられています。
「梶原景時」
↑この名前に聞き覚えがあったのですが、
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↑……うん、聞き覚えしかなかった。
鎌倉〜戦国時代の知識は本当にからきしで……。
例えば、
「寺宝 阿弥陀の木像 曽我十郎祐成が妾虎女尼となりし後、六十六軀の阿弥陀仏をつくり、六十六箇国の寺院に納めし其一體なりといひ伝ふ。」
↑ここに出てくる「曽我十郎」は、
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↑で有名な人だと思うのですが、本当に何も知らず……不勉強で申し訳ないです……『曽我物語』か……名前しか知らないです。
「網之衆三家」
↑何か、かっこいい。
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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 9 海東郡,海西郡
↑『尾張志』の記述も、『尾張名所図会』とあまり変わりませんが。
51コマです。
「甚目寺
甚目寺村にあり 鳳凰山といふ 名古屋宝生院の末寺也 推古天皇の御代五年丁巳のとし(略)甚目龍磨ここの海中より当寺の本尊観世音紫金の形像を網曳出し奉れる故に其姓によりて甚目寺といふよし縁起に見えたり されと創建の年月詳ならす かかれは此龍麻呂を開祖とす 天智天皇の御代主上俄に御不豫の事ましまししに此観音の霊験いちしるしき事天聴に達し遙に御祈願ありけれは新たなる夢想ありて忽御平癒ましまししを叡感のあまりに勅願寺たるへき綸旨となし下され左少辨兼盛を勅使として御鏡を御奉納あり 天智天皇の御代白鳳年中(略)三間四面二蓋の堂舎一宇御建立ありて東門に法皇寺といふ額をうたれたり 其後文徳天皇の御代仁寿三年癸酉八月八日甚目連僧麻呂(略)といふ人精舎一宇を造営し始て同四年甲戌二月二十一日其功終ぬ 其後堀川天皇の御代康和五年癸未正月十七日丁酉散位藤原連長僧智能大江の重房等をはしめ寺家諸僧地下人等とひとしく同心加力して修造の功を終て上等せり 又崇徳天皇御代天治元年甲辰二月一日地震にて破壊したるを大治元年丙午(略)春当庄下司散位大江朝臣爲道並女及長谷部の氏人と共に是を修理す 其後後鳥羽天皇の御代建久七年丙辰二月十日より同八年丁巳七月十一日迄に聖観上人勧進造営上棟せり 又土御門天皇御代正治二年庚申七月二十六日より建仁元年辛酉十一月十八日まてに造営終り供養せしよし迄文永元年書る縁起に見えたり 推古天皇五年この本尊出現今年天保十五年まで千二百四十八年に及ふ かはかり久遠の年序を経たる寺院は■に国中無双にして四観音と俗に呼ならへる霊場旧地の最第一也
本尊(正観音三国伝来閻浮檀金の霊像秘仏也といへり 前立十一面観音立像聖徳太子の作といふ 左右に持国天毘沙門天二像を安置す 又堂内に行基の作と云四天王の像あり)(略)」
「国中無双にして四観音と俗に呼ならへる霊場旧地の最第一也」
↑忘れていました、「尾張四観音」を巡ろう、と思っていたんでした。
一応、
東海道名所図会〈上〉京都・近江・伊勢編 (新訂 日本名所図会集)
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『東海道名所図会』も見ておきましょう(上巻、P374)。
「甚目寺
尾州(尾張)海東郡江上庄にあり。真言宗。鳳凰山と号す。
本尊正観音 長丈六(十六尺)。腹内の小仏、勢州(伊勢)甚目浦より出現。
三層塔 愛染を安ず。
二王門 右大将源頼朝公建立。梶原景時奉行す。」
おっと……御本尊は「甚目寺」の辺りで引き上げられたようですが、お腹の中の秘仏は伊勢の「甚目浦」に出現した、と。
これはどういうことでしょう……確かに、松坂市に今も甚目町があり、伊勢湾にも比較的近いです。
ん〜……多分、たくさんの諸先輩がたがこのことに挑んでおられると思います(どんな説があるのかはわかりませんが)。
伊勢の「甚目」と、尾張の「甚目」で、仏像を取り合ったりしたのでしょうか……『新撰姓氏録』かな……尾張「甚目」に関しては、
「網之衆三家 甚目龍磨の末裔にして、妻帯の僧徒なり。按ずるに、甚目連は尾張海部郡本貫の氏姓にて、[三代実録]に『貞観六年八月八日壬戌。尾張国海部郡人治部少録従六位上甚目連公宗氏、尾張■師従六位甚目連公冬雄等。同族十六人賜姓高尾張宿禰。天火明命之後也。』としるせり。」
↑『日本三代実録』に登場しているようなので……うん、機会があったら、これに関する書物を探してみようと思います。
松阪まで行ったら、かもしれません(三重県の神社仏閣も、もう少し回ってみないとね、とは思っているのですが……なかなか……四日市ジャンクションの渋滞が……)。
とりあえず、「甚目寺」はこの辺りで〜。