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桜を求めてさまよって、中区あたりをぶらぶらしていたら、そういえば来たことなかったな最近、の「東別院」へ。
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「真宗大谷派名古屋別院」が正式名称ですが、「東別院」のほうが名古屋人には通りがいい。
なお、「西別院」もあります。
メインは桜だったりしますので。
最近、『信長の忍び』(重野せんせ〜)他で勉強しているので、「古渡城址」でも足が止まる、と。
「東別院
(略)
元禄三年(一六九〇)、東本願寺一如上人によって開創。諸堂は名古屋の宮大工伊藤平左衛門家の手により元禄十五年に完成した。本堂は壮大な規模と精緻な建築美を誇ったが、昭和二十年(一九四五)の戦災で焼失した。現在の本堂は昭和三七年の再建である。
……あれ、鐘楼いったかな、俺。
もちのろんで、御朱印をもらい忘れる。
さて。
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大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会 - 国立国会図書館デジタルコレクション
『尾張名所図会』から引用(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
167コマです。
「東本願寺掛所
橘町の東二町にあり。天正九年八月、僧祐賢海東郡蟹江村に一寺を建立して、泉龍寺といひしを、慶長十一年名古屋の地(御遷府の◼︎袋町)へ遷せり。其後東本願寺十六世の門主一如大僧正、名古屋に掛所営建の志願ありて、御国の御免許を得、元禄三年七月より福路町川柳寺を掛所となせり。同年十二月古渡村の内にて、境地御寄附ありて、掛所を今の所へ引きうつし、同五年の夏頃より、坊舎を営みはじむ。同十三年四月十二日、一如上人京都本山にて遷化せしも、其子真如大僧正の代、同十五年十月二十八日経営成就し、本堂をはじめ諸堂ことごとく修造卒りしかども、真如上人の開基とせずして、本願一如上人を以て開山とせり。
本尊 阿弥陀如来。
(略)」
壮大かつ精緻、といわしめた諸堂の様子も、『尾張名所図会』ですからばっちり見られます。
また、同じコマに、
「古渡古城
東掛所境内則其あとなり。織田備後守信秀名古屋の城にありしが、天文三年嫡男信長誕生ののち、名古屋の城は信長に譲り、自身は古渡に城を築きて移住せり。卒去の後廃城して田畠となりしが、そののち掛所の境内となりぬ。[信長記]には、信長公ここにて元服せられしよしにしるし、宗牧が[東国紀行]には、禁裡御修理の義を宗牧が東国へ下る序なればとて、則宗牧に仰せ添へられて、ここなる城主信秀に、勅宣を伝へしよしに記せり。こは戦国の有りさま思ひやられぬ。詳なる事は紀行に譲りてここに略しつ。」
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東国紀行(Adobe PDF)www.klnet.pref.kanagawa.jp/.../018tougokukikou.pdf
……まだまだ「織田信長」の勉強をはじめたばかりなので(漫画で、四コマで)、昨日読んだのは、尾張統一のやつで、「古渡城」もばっちり出ていたけれど、「宗牧」は出てないかなぁ……愛知県民ながら情けない話ですが、往時の終わりがどっぷり織田家、ということすら知らず……面目ない……。
近年、「織田信長」像がまた刷新されているようですので、ちょっとずつ勉強しようと思います。