9/10。
職場の盆休みが日付固定のため、特に夏休みめいたこともなく(そもそも、盆は出勤なのですが)。
『◯◯◯◯G◯』でぶらぶら歩いてはおりましたが。
九月になってしまっていたので、ふらりと「金刀比羅神社」へ。
うーん、リンクするHPがない……。
場所としては、久屋大通駅の東側、店舗やオフィスビルの中にひっそりと佇んでいる感じです。
どうも、元々は別の場所にあったらしいのですが……その情報もオフィシャルでは見つけられず。
狛犬さん。
おっと、そういえば「名古屋十名所」の一つでした。
「お摩り大国さん」。
お寺の「賓頭盧」さんや、天神様の「撫で牛」みたいなものですね。
形代を用いた呪術。
ええと、摂社のほうを先に撮影してしまいました。
「春日社、天神社、住吉社、松尾社、稲荷社、豊受社、白山社、水天宮、秋葉社、金山社、御嶽社」。
かなりまとめられましたね。
社殿はこんな感じになっています。
狭隘な敷地にはめ込まれております(「桜天神社」に似ていますね)。
右手前は神楽殿かと。
手水舎と神馬像。
「名古屋十名所」の碑の裏側。
「大正十四年八月當選新愛知新聞社」。
ええと、まあ、どうやって撮影しても拝殿の全体像は写らず、でございます。
めでたそうな石灯籠。
十二支ですね。
拝殿の前から、鳥居方向を。
この角度でしか写せないのです……。
神楽殿の瓦。
うん、いまひとつわかりづらい。
手水舎の瓦。
神紋が珍しかったもので。
ご神木と、ビルの谷間と、社殿と。
遠景……は向かいの歩道から。
御朱印。
実は、10日であればいただける可能性が高い、というネット情報を頼りに足を運んだのでした。
氏子の皆様が例祭を月次祭をやられているようでした。
お手を煩わせました。
さて。
◯こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編
なにしろ「金刀比羅神社」というだけでは、昔の資料がなかなか検索しづらいので、とりあえず『名古屋市史 社寺編』より。
148コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
「七 金刀比羅神社
金刀比羅神社は東区久屋町二丁目の西側に在り、境内二百四十六坪七合七勺、徳川時代には八十坪あり、役地なり、旧称は金毘羅社、或は金毘羅宮と云ふ、文化十三年九月の建立にして、讃岐の金毘羅宮の勧請なり、明治初年村社に列し、八年十月、四十三年十月竝に営繕正遷宮あり、二十年十一月神楽殿を新建す、祭神は大物主神とす、殿宇には神殿、拝殿、社務所等あり、境内神社は春日社祭神は健御賀豆智命、豊受社祭神は豊受大)、稲荷社祭神は倉稲魂命、御嶽社祭神は大己貴命、少彦名命、住吉社祭神は底筒男命、天神社祭神は菅原天神、白山社祭神は白山比咩命、金山社祭神は金山彦命、秋葉社祭神は火結神、松尾祭神は大山咋神、水天宮祭神は安徳天皇、両社合殿の十所あり、例祭は十月九、十日(旧時は正五九月の十日なり)にして、市より供進使の参向あり、臺尻一臺、山車二臺を出す、本社はもと瑠璃光寺寺は廃寺の部に詳なりの境内に建立せられ、維新までは同寺にて守護したりき、明治初年同寺を廃毀(以下略)」
なるほど、あのまとめ摂社は、もともとそれぞれ社殿があったようです。
それにしても、
「本社はもと瑠璃光寺寺は廃寺の部に詳なりの境内に建立せられ、維新までは同寺にて守護したりき」
廃仏毀釈め……通りでそれっぽい神社が『尾張名所図会』等では見つからないはずで。
とりあえず、同じく『名古屋市史 社寺編』より、554コマ。
「瑠璃光寺は医宝山一に医王山に作ると号して、久屋町今東区久屋町二丁目金刀比羅神社の境内に在りて、境内八十坪役地有りき、永安寺の末寺なり、もと金泉庵一に全泉菴に作ると号して、清須に在り、大宛慶益寂年詳ならすの開基にして、孝國東順永安寺第二世、慶長十八年八月九日寂を以て開山となす、慶長遷府の際一書に元和中、久屋町寺地拝領に移り、万治三年正月十四日の大火に類焼して、後再建せらる、もと平僧地にて小菴なりしが、寺内に金毘羅宮を勧請其年時詳ならざれど、尾張名所図会に近年と見ゆれば、おそらくは文化文政の頃なるべし、清須時代は勿論、元禄七年の覚にも之れ無しして以来興隆し、文政中、瑠璃光寺と改めて法地となる、本堂本尊薬師如来木像は空海の作と伝へ、又行基とも云ふ、もと春日井郡阿原村常安といふものの持仏なりしが、一時盗難に遇ひ、後寄附せられたるものと云ふ、秋葉堂、金毘羅堂今金刀比羅神社となる等有り、明治維新の際、金毘羅宮と分離して廃絶す、本尊薬師如来は同町誓願寺に遷し、今町内火防の守仏として崇敬せらる、旧門は愛知郡御器所村島田地蔵の門となると云ふ。(略)」
「永安寺」というのは、
◯こちら===>>>
↑おそらくこちらではないかと思われます。
もともと、「金泉庵一に全泉菴に作る」という清須にあったお寺が、「清須越」で名古屋にやってきたものの燃えてしまい、その後「金毘羅宮」を勧請したら何故か勢いを増し、「医王山瑠璃光寺」に改称するも、明治の廃仏毀釈で寺は廃寺に、「金毘羅宮」だけが「金刀比羅神社」として残った、と。
ご本尊の「薬師如来」は、今は中区にある「誓願寺」に移されて、火伏せの霊験あらたかだったようですが、
◯こちら===>>>
↑Wikipediaの記述を信頼するなら、どうやら空襲で焼け落ちたようで……やっぱり「焼夷弾は専門外」なんでしょうね……。
一応、
◯こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会
↑も見ておいてください(147コマ)。
「医王山瑠璃光寺
久屋町一丁目西側にあり。曹洞宗。僧桂安の建立にて清須に在りしを、元和年中ここにうつす。本堂の本尊薬師如来は、常安といふ者の守護たりし霊仏なり。又境内に近年金毘羅を勧請して繁昌す。又秋葉の社、其餘観音・地蔵等を安置す。」
あ、それから、
◯こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張名陽図会. 巻之3
↑という本があるのですが、デジタルコレクションに収められているものは残念ながら活字ではなく……15コマに「瑠璃光寺」の記事と絵図がありますので、よろしければ。
『尾張名陽図会』に関しては、素敵ブックショップ「マイタウン」さんのHPの、
◯こちら===>>>
↑の記事をご参照ください。
『鸚鵡籠中記』、高力猿猴庵、天野信景……尾張にだけ変態的な記録魔がいたわけではないでしょうが、こういった人たちのおかげで、後世の我々がいろいろと妄想できるというのは、非常にありがたいことです。
ところで、どうして「瑠璃光寺」に「金毘羅宮」を勧請したら繁盛したんでしょう?
元々、「金泉庵」だったので、試しに「金」のつく神様を勧請したら大当たり……などと罰当たりなことではなかったと思います(が……)。
いえ、何を本地仏とするのかは、神社によって違っていたりしますが、「薬師如来」と「金毘羅」様があんまり結び……ああ、「薬師十二神将」でしたか。
いや、これはうかつ。
この日は、この後で「建中寺」に参拝し、無事御朱印をいただきました。
よい休日でした。