さて。
文字だらけ……とはいっても、少ないのです。
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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 5 愛知郡
↑から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
31コマ。
「長楽寺
↑……これだけなんです。
『張州府志』の記事も似たようなもので。
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http://www.chourakuji.org/chorakuji/
↑公式HPによれば、
「811(弘仁12)年、弘法大師(空海)がこの地に巡礼したおり、夢のお告げによって、この呼続の浜に七堂伽藍を創建され、真言宗戸部道場寛蔵寺と名付け、清水叱枳尼眞天を鎮守神として安置しました。 この清水叱枳尼眞天は、現在、当山の清水稲荷殿に祀られています。
その後、寺は一山十二坊を有する大寺になりましたが、1470年頃(文明の頃)に衰微してしまいます。 それを当山2世の義山禅師が再興、宗派も曹洞宗に改宗し、第1世の明谷禅師を中興の開祖として、寺名を現在の長楽寺と改めましました。
1603(慶長8)年、徳川家康公の四男、忠吉公が当山で病気の平癒祈願をし、その回復のお礼として1606(慶長11)年、寺に書院・客殿などを報恩建設しました。 これが現在、当山に隣接している富部神社です。」
ということです。
「義山」禅師が再興された、というのは間違いないようなのですが、山号が違っているのですよね……。
『尾張志』の成立は、
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↑を見る限り天保15(1844)年で、「富部神社」を成立させた慶長8(1603)年よりはるか後なのに、山号が「稲荷山」ではなく「日恵山」となっている。
もちろん神仏混淆の季節ですから、「富部神社」と「清水稲荷大明神」、「長楽寺」が一体となっていた可能性はあります。
しかし、「富部神社」の別当は、別のところだといいますし……うーん……。
あ、そういえば、
↑この碑は、「富部神社」が創祀されたときの記念、ということになるんでしょうね。
すっかり忘れてました……
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「富部神社」(南区) - べにーのGinger Booker Club
↑自分の記事でも、『尾張名所図会』を引用して、この逸話を書いていましたのに。
なんにしろ、尾張徳川家には因縁浅からぬ仏閣ですのに、残された情報が少なくて。
再興された「義山」和尚は、
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↑の著名な方ではなさそうなので、ますますお手上げです。
さて、お寺でいただいた案内によると、
「立木観世音菩薩の由来
この立木観世音菩薩は、その昔、弘法大師が江州立木山を御通行の際、一人の老翁が顕れて「この木には観世音菩薩の影向がおられます。この立木のまま観世音の尊像を彫刻して末世の衆生のために祈りなさい。必ず有縁の霊場となるでしょう。」とお告げになったので、大師自ら立木に観世音の尊像を彫刻され、堂塔伽藍を建立された。寛政十年(一七六八年)当山十七世の智海和尚が霊夢により観音の石像を建立して玉垣を造られた。こうした夢告の謂れを伝える松の木……(略)……も大正十年の秋ついに枯れてしまった。(この松は周り一丈六尺あった)そこで伐りとろうと計画すると、その夜、清水尊天が顕れ、この松には観世音菩薩様が降臨されていらっしゃるので、立木のまま十一面大士の尊像を彫刻して供養しなさいとのお告げを受けた。(略)」
ということで、枯れてしまった松から「観世音菩薩」を彫り出した、ということのようです。
最初の「立木観音」がどこにいってしまったのかは書かれていません……。
ついでながら、
「名古屋十名所」についてですが、
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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会
↑の319コマに「櫻田」に関する記事があります。
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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯 第7編
↑『東海道名所図会』の201コマにも、
「櫻田
東海道宮より鳴海までの間に、山崎村・戸部村あり。其北にあり。今櫻村といふ。」
とあります。
というわけで、「名古屋十名所」のうち、「櫻田勝景」であることはほぼ確実なのですが(桜の名所、ではありません)、どうして「長楽寺」に碑が残ったんでしょう……。
「?」が多いです……お狐様に騙されているのでしょうか。
失礼な妄想をするとしますと、「再興された「長楽寺」だったが、何か尾張藩の気に入らないことがあったので、「富部神社」を創始するという理由で、境内の大部分を持っていかれてしまった(しかも別当にならず)。そこで、「荼枳尼天」の力を持って、「牛頭天王」に対抗しようとしたのではなかろうか」なんて……いやいやいや。
うーん、何か怪しいニオイがします……もうちょっと調べられたら調べてみようと思いますが、とりあえず今回はこの辺りで〜。