べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「松山神社」(名古屋市東区)〜高速初詣その1〜

1/2。
「泥江縣神社」を早々に駆け抜けて、何とか東区に移動、「松山神社」へ。

 

こちら===>>>

名古屋市:寺町めぐりコース(東区)

 

↑東区史跡散策路のHPです。

まるっきり存在を知らず、名前から「新しい神社なのかな」と思ってしまっていました(いえ、松下幸之助翁を祀った神社がありますから、そういった類なのかと)。

付近のコインパーキングに車を突っ込んで、スマホの地図頼りに歩いてみると、住宅密集地に忽然と出現。

 

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境内の西側から入ります。

↑の史跡散策路のHPでも紹介されていますが、

 

「天照皇大神等を祀ります。松山天道宮と呼ばれ崇拝されました。西方に向かう珍しい拝殿を持つ神社です。」

 

なのです。
確かに、ちょっと珍しい。

 

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「松山神社略記
(略)此れ地往古は松樹繁茂せる広大なる山林なり、因って松山神社といい、近世天道宮、天道社又は松山天道とも呼べり、創立年代不詳、大永年中羽前羽黒山の修験隆海之を再興し守護すること三十余年二代鑁海の後社殿大に荒廃す、元和年中美濃久々利の修験秀恵重興し且つ寿命院を建立別当となる。以来藩主の命に依り祈願所となり、崇敬篤く元文三年五月、御紋附の挑燈を寄附せらる。
明治の初年村社に列し、別当を廃して祠掌を置く、祭神中央は天照皇大神、右は品陀別命、左は市杵島姫命なり、社殿は神殿、拝殿、神饌所、神楽殿、社務所あり境内に加茂社、猿田彦社、天神社、秋葉社、津島社、福守稲荷社がある、
(略)」

 

大永という年号は1520年頃で、その頃にはすでに荒廃していたのですから、創立はそれ以前。

室町、鎌倉辺り、下手をすると平安時代……ううむ、十分な古社で、今まで知らなくてすみません(社伝を信じるなら、ですが……それでも、1500年代からであれば十分な歴史の重みです)。

しかし、「」、これで「ばん」と読むそうですが、こんな字の存在を初めて知りました(ちゃんとPCで出るのも驚き……OS違ったら出てないかもしれないですすみません……)。

 

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こちら、南側の参道。

奥に社殿が見えます。

で、急いでいたからなのか、境内の写真があまりありません。

住宅地ですので、それほど広々とした境内ではないですが、何で写真が少ないのか……多分、地域の方がお参りに見えていて、撮影しづらかったのだと思います(なにせ半年前、記憶が)。

 

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拝殿を横から。

 

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「長寿の大銀杏」なのだそうです。

昭和初期まで、名前も知られない古木があったそうです……残念、現代まで残っていれば……。

写真としては、一番上の小さく写っている瓦が見所です。

あ、小さな祠は、

 

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「福守稲荷社」のものです。

 

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拝殿左手奥に、境内末社がずらりと。

提灯のおかげでわかりやすい。

 

 

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神楽殿は、西側の鳥居をくぐりすぐ右手の手水場の東側、だったと思います。

日が暮れかけているのがお分かりかと。

 

 

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御朱印
五七桐に御朱印を重ねる……この技、新しい気がしますが、ちょっと素敵ですね。

さて。


こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

ひさびさに『尾張名所図会』から引用(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

134コマです。

 

「松山天道宮寿命院 九十軒町の北なる東側にあり。当山派の修験清寿院同行なり。大永年中出羽国羽黒山の山伏隆海の建立なりしが、累年衰廃に及びしを、元和年中に、寿命院美濃の久々利より来りて再興す。本社天道宮、左右は八幡と弁財天なり。その外境内に末社多し。」

 

うん……神社の略記のほうが詳しかった……あ、でも、次のコマに図絵がありますので、それをご参考に〜……超端っこですけども。

 

こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 2 名古屋

 

尾張志』の「名古屋」編より、17コマです。

 

「天道社
飯田町にありて松山天道といふ此地むかし松樹繁茂したる山なりし故かくいひならへりとそ勧請の年月知かたし大永年中出羽国羽黒山の修験隆海はしめて此地に来り当社を再興し三十余年仕職して後本国に帰りぬ二世鑁海(ばんかい)も又羽黒より来り同本国へ帰ける後元和年中美濃国久々利より修験秀惠入院して寿命院と称し仕職しけり今も其末絶を奉仕す今飯田町九十軒町作子町萱屋町なとの本居神なり
摂社 八幡社 弁才天社 例祭(正五九月皆十四日に試楽十五日にかぐらゆだてを執行す)」

 

……うん、神社の略記(以下略)。


こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

名古屋市史』の「社寺編」より、146コマです。

 

「五 松山神社
松山神社は東区飯田町三丁目の東側 往古は吾湯市郡山口と称す、本社の鎮座ありし以来、俗に天道町といへりと に在り、(略)、往古は松樹繁茂せる広大なる山林なり、もとは松山神社といひ、近世天道宮、天道社又は松山天道と呼べり、勧請の年時詳ならず、一に大永年中の勧請となす、大永年中、羽前羽黒山の修験隆海之を再興し、守護すること凡そ三十余年、二代鑁海の後、社宇大に荒廃す、元和年中、美濃久々利の修験秀惠之を重興し、且つ寿命院を建てて別当となす、 寿命院は寺院の部に詳なり 、以来藩主の命に依りて祈願せしこと有り、松姫 光現院と號す、藩主綱誠の女なり 御祈祷の札を江戸へ献じ、其後下屋舗より屢、祈祷せしめ、神楽、神湯を行はる、宣揚院 藩主綱誠の侍妾なり も亦本社に参詣し、元文三年五月、御紋附の挑燈を寄附せらる、 以来天保頃まで祭時には神前に之を点せり 明治初年村社に列し、別当を廃して、祠掌を置く、祭神中央は天照皇大神、左は市杵島姫命、右は品陀別命なり、 明治初年までは天照皇大神本地仏大日如来の木造を安置せしが、神仏分離の際之を取出し、今は岡町禅隆寺の観音堂に安置す、尾張名陽図会には祭神は国常立神にして、本地大日如来なりとあり 殿宇には神殿、拝殿、神饌所、献燈所、社務所、門等あり、境内神社は徳川時代には八幡社 往古は徳川時代の作子町、鳥屋町、坂井氏の屋舗の地にありしが、慶長遷府の際、本社境内に遷せり  弁才天社 往古は今の鍋屋町教頓寺の邊にあり、慶長遷府の際、本社境内に遷せり の二所なりしが、今は天神社 祭神は菅原道真 、稲荷社(略)、賀茂社(略)、猿田彦社(略)秋葉社(略)津島社(略)の六所あり、例祭は十月十四、十五日 徳川時代は正五九月の十四日に試楽、十五日に神楽、湯立あり、特に清洲越の俗家、本社の氏子として祭事を行ひ、且つ小原氏、土佐女といふ神巫ありて、神楽、湯立等を行へり にして、十四日に市より供進使の参向あり、飯田町三丁目より黒船の山車一台を出す 但し出否は毎年一定せずと (以下略)」

 

……うん、ほぼ神社の略記通り……そりゃそうだろう。

 

「土佐女といふ神巫ありて」

 

↑この辺りがちょっと気になりますね……「吉備津神社」「吉備津彦神社」の伝承では、「阿曾女」という巫女が登場しますが、何かそれに習ったものがあったのか、四国、土佐といえばいざなぎ流、そちらからやってきた巫女だったのか……とちょっとだけ妄想が膨らみました。

やってることは神楽に湯立ですから、真っ当な神事ですけども。


せっかくなので、「寿命院」というお寺の記事もこちらから。
カテゴリーとしては「廃寺」のところですけれど。
548コマです。

 

「寿命院は飯田町に在りて、清寿院の下に属し、松山神社の別当たりき、初め大永年中、出羽国羽黒山の修験龍海此地に来り、天道社を勧請して奉仕すること凡三十年、帰国の後二世鑁海、亦羽黒より来りて其職を継ぐこと数年、鑁海帰国の後、久しく其跡を絶ちしが、元和中、美濃久々利(今可児郡久々利村大字)より修験秀惠(寛文元年卒す)来りて再興し、寿命院と號す、以来相続して絶えざりしが、明治維新の際廃絶す、本地堂の本尊大日如来木立像は、今同町禅隆寺の観音堂内に在り、此外同堂に薬師如来像(俗に夢薬師と称す)、秋葉宮を安ぜり、(以下略)」

 

……うん、特に新しい情報はない……。

 

「天道」の宮、社、という言い方は日本古来のものではなく、どちらかといえば六道思想から引っ張ってきているのかな、と考えられているようです。

「天・人・修羅・餓鬼・畜生・地獄」の六道ですね。

この神社のように、神仏混淆が早々に進んだであろう修験道系の僧侶の創立だからそういう名前になったのか。

その辺りの解説はありませんので、「天道社」「天道宮」についての本とか、探してみないことにはよくわからないのかもしれないです。

一方で、「お天道様」といった太陽のことですから、そこから「天照大神」をさすのだ、というのもわからないではないです。

ただ、どっちが先なんでしょうね。

太陽を「お天道様」と呼んだから「天道宮」に「天照大神」を祀っているのか。

天照大神」=「天道」、「天照大神」=「太陽」、だから「お天道様」=「天道」になったのか。

さてはて……比較的新しい言葉だと思うので、調べれば出てくるかな……やってみ……たいですね時間があれば。

 

ふむ……ともかく、街中に溶け込んだ、なかなか味わいのある神社でしたので、いずれまたゆっくり訪れようかと思っています。

そろそろ、高速初詣その1も終了です〜(まだ行きます)。