10/1。
あれ、もう十月だ……。
とりあえず、1日ですから、月次祭のところも多かろう、という目論見で「富部神社」へ出向き、やっぱり神職さんにご連絡しなければいけなかったので、とぼとぼと歩いておりますと、
↑こんな案内を発見。
「長楽寺」のときに発見したものとは、道路を挟んだ反対側。
なるほど、と思い「桜神明社」へ出かけることに。
◯こちら===>>>
予備知識は全くないのですが、スマートフォンの案内に従って進むと、どう考えても神社がありそうにない、名鉄名古屋線の線路に近づいていきます。
道は狭い、路地裏的な。
こりゃ大丈夫だろうか……と思っていたら、
踏切の手前にありました。
「富部神社」方面からの道は、車通れるのかな……。
旧社格は村社、のようです。
てっきり神社の説明かと思ったら、古墳の案内でした。
「この古墳の名は、墳頂に桜神明社が祀られていることに由来するが、別に「ひめ塚」とも呼ばれていた。
直径三六m、高さ四・五mの円墳で、墳丘裾の西から北にかけて周濠が残っており、比較的保存状態が良好な古墳である。
かつて墳丘上から須恵器が採集され、五世紀末頃のものと考えられる。」
とのこと。
そういえば、
◯こちら===>>>
名古屋市:桜田勝景(さくらだしょうけい)跡と古墳めぐり(南区)
↑南区の史跡散策路の名称も「桜田勝景跡と古墳めぐり」となっていますから、この辺りは古墳がたくさん残っているのでしょうか。
「清洲越」のあと、あまり開発されなかった、ということなのか……でも塩付街道も東海道も近いし、熱田の宮宿もそれほど遠くないし……。
古墳は門外漢すぎて、何も申し上げることがありませんです。
すみません、撮影順で……。
「桜神明社
御祭神
御主神 天照皇大神
御相神 伊邪那岐大神
事解之男命
速玉之男命
木花咲耶媛命
倉魂命」
いろいろ合わさってますね。
「神明」なので、「天照皇大神」はいいとして、「応神天皇」は「八幡」、「木花咲耶媛命」は「富士」、「倉魂」は「稲荷」……で、残りの三柱は「熊野」っぽいですけれど。
明治のときに整理されたのだと思いますが、それ以前が気になります。
拝殿……なのか。
古墳の手前にあります。
神明造です。
狛犬さん。
苔むしていると、何か、それっぽいですね(偏見)。
拝殿奥のこんもりとした……古墳……があまり見えません(曇ってるからか……)。
ぐぐっと寄ってみました(どうでしょ?)。
上ってます。
もうちょっと角度をつけてみました。
上ってます。
「秋葉神社」のさらに左手にまわってみると、こんな感じです。
本殿・拝殿の屋根の葺き替えは昭和49年、玉垣は50年。
つい最近……と思ったのですが、私の年と変わりません。
拝殿のお賽銭箱。
石造りでした。
拝殿前の鳥居からの遠景。
緑が多いですね。
鳥居の近くの、「津島神社」。
どうやら賽銭泥棒が横行しているようですが、この「近頃」がいつ頃なのか……。
ご神木(くろがねもち)と、村社の碑。
逆光。
おっと、「熊野三社合祀之記」とありますから、御祭神のうちの「熊野」社系は、大正五年に合祀されたようです。
え〜……読めるかな……。
「大正五年桜神明社に合祀された熊野三社は現在の鯛取通一丁目桜◼︎町一丁目に跨り約五百坪の境内地を有し松杉等の大木が密生していた 時の氏子は十三戸で時代の趨勢と神社法規の改正により合祀されたものである。当時の地名は愛知郡呼続町大字千竈字市竈と云い往時には分野迎山と称し鎌倉街道と塩付街道の交叉する要衝の地であつた 熊野三社は平安時代の創建で本地垂迹記によると僧侶が代々奉仕し又修験者の道場としても広く知られていた 御神体は薬師如来の垂迹として仏像に似た御神像と伝えられる
ここに歴史の変遷を古人の記憶に辿り永く氏子々孫に伝えるためこの碑を建立す」
……もうちょっと読みやすく残していただけたら……私は氏子ではないので文句は言いませんけれども。
手水舎。
参道を入ってすぐ、くらいのところです。
鬱蒼……こりゃ、夜は怖いでしょうね……こういうものが、鎮守の杜、というやつだったのでしょう。
境内を出て、ぐるっと左手の細い道を行きまして、古墳の形がわかるくらいのところまで。
確かにこんもりしています。
古墳……古代史に思いを馳せるものとして、もちろん興味があるのですが……勉強不足です。
しかし、なかなかなワンダーランドでございました。
御朱印をいただけるかどうかはともかく、南区にもまだまだ、ぐるぐるしたい(小さい)神社がいくつもありまして、やはり当面は県内を攻めることにしましょう。