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神社仏閣ラブ(弛め)

「橘樹神社」(補)

さて。

 

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横浜市史稿. 神社編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

他に文献探さないのねそうなのね、というわけで、『横浜市史稿』です今回も(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

268ページです。

 

「三三 橘樹神社
橘樹神社は、保土ケ谷区天王町三百八十三・四番地に跨つて鎮座し、境内は二段一畝二十七歩、同町の鎮守である。
明細帳に據れば、文治二年に源頼朝が、天下の平定を賀して、尚、子孫の繁栄を祈らんがために、国中の大小神祇を奉幣して、祭祀の典を行はれた時の創建であると云ふ。中世に於て永正七年の兵火と、文政八年との両度、回禄の厄に罹つて旧記等は悉く烏有に帰し、沿革等は詳かに知る事を得ないが、口碑に據れば、文治二年九月、京都の祇園社から分霊を勧請し奉祀した所で、当社も又祇園社と称したのであつた。永正七年七月、上杉治部少輔の家臣上田蔵人が、北条早雲に一味して、神奈川の権現川の管領の軍と合戦した時に、当社及び付近の民家を共に兵火に滅盡せしめたので、翌八年に社殿の造営を行つて後、徳川氏に至り、牛頭天王社とも称したのであつた。当時は村内の遍照院が別当となつて居た。文政の回禄後、天保十三年、時の代官たる関保右衛門が名主苅部清兵衛・年寄大須吉右衛門・足立平兵衛・氏子総代岡野勘四郎・石田萬蔵・足立善兵衛。磯貝萬右衛門等に諮り、金一千二百両を以て、本殿及び拝殿の再建を遂げた。今の本殿は、その当時の再建に係るものである。爾来、星霜を重ねて、更に大正十二年九月に至り、震災のために社殿が大破に帰したので、これが再建を企画起工し、昭和四年九月、拝殿・覆電・幣殿・水屋等の落成を告げて、同月十四日に落成式を挙行した。当社は明治六年、村社に列せられ、又、大正五年十月十三日、神饌幣帛料供進社に指定せられたのである。
祭神は素戔嗚命
(略)
境内末社は左の如くである。
神明社。祭神は天照皇大神・国常立命・阿夜訶志古泥命・宇迦乃魂命・猿田彦命。由緒は不詳。(略)
三保神社。祭神は大山咋命・斎火彦霊命・天児屋根命。由緒は不詳。(略)
豊営神社。祭神は市杵島比賣命・玉依姫命・誉田別尊。由緒は不詳。(略)

史料
[新編武蔵風土記稿]牛頭天王社。(帷子町)帷子川ノ辺、縄手ニテ、江戸ノ方ヨリ宿ヘ入所ノ右ニアリ。相伝フ当社ノ神体ハ、モト仏向村ノ内寶寺ト号スル寺ニアリシモノナリシガ、戦争ノ間、破却セラレシ頃、此神体帷子川ヘ入テ流レ来リシヲ、其辺ノ百姓等三人ニテ取アゲ、今ノ所ヘ社を造リマツレリト。此ニヨリテ今モ社修造ノ後、遷座ノタビゴトニ彼三人ノ子孫進退セリト云。(略)神体秘物ナレバトテ、後口ヘ向ケテ座セリ。故ニ祈願ノアル者ハ、社ノ後ノ方ヘ廻リテ拝スト云。(略)
末社 五座相殿社。本社ノ左ノ方ニアリ。山王権現・天神・三法荒神・第六天・蔵王権現ノ五社ナリ。
四座相殿社。本社ノ右ノ方ニアリ。御嶽権現・稲荷・八宮・弁財天ノ四座ヲ合祀セリ。」

 

うむ、当時の境内社どころか、昭和の頃の境内社もきちんと見つけられていませんな……急いでたのかな……。

どうも『新編武蔵風土記稿』の記事によれば、廃棄された御神体(何かは不明)が川を流れて来て、よっこいしょと百姓が三人拾い上げた……あれ、どこかで聞きましたねこの話。

 

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「浅草神社」(浅草名所七福神) - べにーのGinger Booker Club

「漆部神社」(あま市)(再) - べにーのGinger Booker Club



↑これですね。

拾った仏像を祀って、祀った人も祀られちゃう、っていうのは「善光寺」もそうでしょうか。

このネタ、日本人はよほどお好きなようです。

浅草神社」が古いのか、「善光寺」が古いのか、さてはて。

 

「神体秘物ナレバトテ、後口ヘ向ケテ座セリ。故ニ祈願ノアル者ハ、社ノ後ノ方ヘ廻リテ拝スト云。」

 

↑この辺りから、天台宗の「後戸の神」が想起されますね……ということで、結構な感じで後世の牽強付会だと思いますけれども、まあ、日本人が好きなネタということで。

 

(ああ、8月なのに、去年の8月の記事が終わらない……)。