べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「笠寺界隈」(補)

しばらく時間があきまして。
年賀状を書いたりほにゃららしたりしていたもので。

 

さて。

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「笠寺観音」 - べにーのGinger Booker Club

「笠寺観音」(余) - べにーのGinger Booker Club

「天林山笠覆寺」(名古屋市南区)(再)〜笠寺界隈(1) - べにーのGinger Booker Club

「七所神社」(名古屋市南区)〜「笠寺界隈」(2) - べにーのGinger Booker Club

「笠寺天満宮 東光院」等(名古屋市南区)〜「笠寺界隈」(3) - べにーのGinger Booker Club

 

↑一応、これまでの記事なぞも参考に。


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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑まずはいつも通り『尾張名所図会』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
315コマより。

 

「天林山笠覆寺
笠寺村にあり。真言宗、名古屋真福寺末。尾張四観音のその一所なり。聖武天皇の御宇、呼続浦に一つの浮木漂着し、夜な夜な光を放ちけるを、見る人疫癘の患をなしけるに、其わたりに住みける禅光上人不思議の夢想を蒙り、天平五年其浮木をもつて十一面観音の像を彫み、一宇の精舎を建立し、其霊像を安置し、小松寺と名づけしが、はるかの年月を経て堂舎自ら雨に朽ち風に倒れ、辱くも本尊のみ朽ち残り、曠野の中に立ちて雨露に浸され給ひしに、此辺に住みける貧女是を憐み奉り、己がきたる笠を脱ぎて尊像の頂に覆ひ参らせ、をりをり仏前に詣でて礼拝し祈念しけるに、ふしぎなるかな此女太政大臣基経公の三男兼平朝臣に馴れ親しみ終に夫婦の契約をぞなしたりける。ある時彼女夫兼平朝臣に、此観音の利生あらたにましましながら、雨露にされされ給へるを歎きしかば、醍醐天皇の延長年中奏聞、勅許を得て此寺を造立し、笠寺と名づけ、数百町の寺領を寄附ありて、一度願を興して歩を運ぶものは、忽ち三毒の苦悩を免れ、現末二世の安楽を得せしめ給ひけえrば、結縁参詣の諸人たゆる事なく、誠に繁昌の霊地となれり。さしも多き寺領の田畠、熱田の神領に混じければ、沙門阿願及び念阿弥陀仏 宣陽門院の皇后に申して、嘉禎四年十二月その妨なからん事を乞ふの解状を奉りしかば、忝くも 勅裁を蒙り、暦仁元年十二月阿願が望むに任せ堂宇を再興し、社役・院役を免許せられ、敷地荒野の内、殺生禁断等をも命ぜさせ給へり。
其嘉禎の解文、暦仁の院庁の御下文等数通、今に現在して当寺の霊宝とす。 (此[笠寺縁起]は[続群書類従]にも載せて、希代の古縁起なり。)
本尊 十一面観音。
鐘楼 鐘甚古く、四面に龍虎・獅子を鋳る。銘に、『尾張國星前笠覆寺建長三年辛亥五月二十三日阿願拝』とあり。
(略)
塔頭 昔は十二院ありしが、廃して今東光院・泉増院・西福院・慈雲院・宝寿院・西方院の六坊残れり。」


聖武天皇の御宇、呼続浦に一つの浮木漂着し、夜な夜な光を放ちけるを、見る人疫癘の患をなしけるに、其わたりに住みける禅光上人不思議の夢想を蒙り、天平五年其浮木をもつて十一面観音の像を彫み」

 

↑よく流れ着きますよね、仏像とか、貴重な木とか。
それだけ漂着物が多い地理なのでしょうか、日本。
まあ、伊良湖には南方からヤシの実がやってくるらしいので、伽羅やら香木やらが流れ着いても不思議ではありませんが。
「禅光上人」って、ひょっとして「善光」だったりすると、この話自体が「善光寺」の縁起から拝借している可能性もあるのではないか、と思います(「善光寺」の話は、ネットで検索するか、このブログでもちょっと書いているので、興味があればブログ内検索をしてみてくださいね)。
「藤原兼平」は実在していたようですが、

 

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藤原兼平 - Wikipedia

 

(↑wikipediaです)、「玉照姫」の存在は記録されていないようです。
これはひょっとすると鎌倉における「源頼朝」の伝承(地元の有力者の娘に手をつけちゃって云々)のように、「藤原兼平」が地元の娘に手をつけちゃって、いろいろ揉め事があって、寺の再興という形で手を打った、ということなのでしょうか。
うーむ、ロマンがない
いずれにしろ、結構な期間、大きな勢力を誇ったのは間違いないようです。

 

「天神祠 東光院にあり。祭る所天満宮の画像は、山口半左衛門入道小雲の所持にして、うらに銘あり。『近江蒲生郡菅田神社神主左近将監藤原安長。暦応三年庚辰八月八日。応永八年辛巳八月十一日在大風。懸高木枝不思議也』と見えたり。小雲は秀次公生害の時亡ぶ。此神像は秀吉公より当寺へ賜はりしとぞ。」

 

↑続き。
東光院」と「笠寺天満宮」についても触れられています。
317コマからは図絵がありまして、317コマには「東光院」が描かれています。
「くまの」「聖天」とあるので、「熊野三神」と「歓喜天」がお祀りされていたようです。
「神酒天神」ともありますので、例の「酒をお供えすると顔が赤くなる天神様の画像」の話は、江戸時代にはあったようです(そりゃそうでしょうね)。
318コマは、「笠寺観音」全体の図絵。
堂宇の配置はそれほど変わっていません。
西門を入ったすぐ左手には「行者」とありますので、「役行者」のお堂もやはりあった、と。
「白山」もありますね。
本堂から向かって右手にあった、プレハブみたいなお堂が、当時も同じような位置にあったこともわかります。
池のそばには「弁財天」も。
現在と比較するとなかなか面白いと思います。

他には何かないかな、と検索検索。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 5 愛知郡

 

↑『尾張志(5)愛知郡』の26コマを見てみますと、「禅光」は「善光」となっており、さてどちらが元々の伝承なのか。
また、『尾張名所図会』では、「藤原兼平」と結婚したのは「貧女」でしたが、『尾張志』では「鳴海の長者太郎成高が家女」になっています。
「家女」は、その家の娘という意味ではないようなので、「貧女」でもいいのかもしれません(あるいは、「長者」の「家女」ということは、つまり「貧女」だということが、江戸時代の人には了解されたのか)。
こんな感じで、伝承の差異が見られます。

 

「本堂 南面 大師堂 同 薬師堂 西面 護摩堂 南面 宝蔵 辨財天女堂 西面 二重塔 阿弥陀堂 地蔵堂 南面 鎮守白山社 玉照姫仮堂 稲荷社 地蔵堂の傍にあり 二王門 西門 鐘楼(以下略)」

 

↑堂宇の構成はこんな感じです。

 

東光院 創建の年月知られす 天正五年僧乗圓再建す よりて中興開祖とす 境内に熊野社天神社 この天神の画像(略)は文禄四年豊臣関白秀次公自害の時其縁坐によりて山口少■誅さるる時■箱一ツ当寺に預れる中にありしを■使の時見もらしたるに■箱の中に残れるを此院内にいつき祭れる也と寺伝にいへり 又聖天堂一宇あり」

 

↑「東光院」のことも少々書かれておりました(略した部分は、『尾張名所図会』でも書かれていた、天神様の画像の裏書きの内容です)。
記事の最後の方には、

 

「ただし往古は今の地にはあらす六町はかり南の方に旧址あり 又二町はかり南の方には池あり 二王堂の池と呼べり 今の地に移せるは何ばかりなりけむ知かたし」

 

とありまして、移築された可能性、旧地の候補なども書かれています。
「藤原兼平」による再興のときなのか、その後の再興のときなのか、移動した可能性があるようです。
同じ『尾張氏(5)愛知郡』の8コマに、笠寺の「七所社」の記事があります。

 

「笠寺村にあり 熱田七社神をまつる 天慶四年戊戌勧請すと社説に云り 摂社に稲荷社 天王社 神明社 子安社 秋葉社あり 社人を伊神右衛門と云」

 

ま、簡単ですが。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 張州府志. 第2

 

↑『尾張志』の元となっている『張州府志』では、「藤原兼平」と結婚したのはやはり「貧女」となっていますね(40コマ)。

尾張四観音を巡ったのはずいぶん前で、その頃は『尾張名所図会』の引用もしていなかったかと思いますので、再訪の機会を得て、ご紹介してみました。
特に何か妄想しているわけではないですが……「玉照姫」に関しては、やはり鎌倉「御霊神社」の「面掛行列」にまつわる伝説と似ている部分があるのではないかな、と思った次第。

 

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「御霊神社」 - べにーのGinger Booker Club

 

あるいは、どこでも似たようなことがあった、ということなのかもしれません。
もちろん、ロマンはありませんが。