(※2017/5/13追記)
12/29。
半年前のことなので、そろそろ記憶が薄れつつあります……何しに大須に行ったのやら……とりあえず「北野神社」の参拝を終えまして、続いて「富士浅間神社」へ。
○こちら===>>>
↑大須商店街のHPっぽいですが……何か重い。
○こちら===>>>
「史跡散策路」中区大須コースを確認していただいたほうがいいか、と。
ええと……参拝されている方がいらっしゃったもので、写真の順番がぐちゃぐちゃですが。
ひとまず、境内社のお稲荷さんを。
「まねき稲荷」と呼ばれています。
そのお隣に境内末社。
石灯籠。
ちょっと独特のシルエット。
再びの境内末社。
「まねき稲荷」遠景。
こちらが正面。
「まねき稲荷」の南側です。
「まねき稲荷」の社標。
「之より西一丁」と読めますから、以前はもうちょっと離れたところにあったのかと。
お狐様たら
お狐様。
境内にある神馬像。
微妙な逆光。
本殿向かって左手、ちょっと奥にあります「白龍社」。
多分、「白龍樅木大神」と書かれています。
それより、ちょっとだけ覗く銅像の方が気になりますけども……。
「白龍社」からちょっと下がってみました。
拝殿。
境内の奥行きが狭いので、なかなか社殿をずばっと撮影できませんでした。
石灯籠。
建立の時節柄、「門前町南部國防婦人會」による奉納。
なんとも、しみじみ……。
よーし、と末社に近づいてみたのですが……神社名が全く読めませんでした……。
おっと、「まねき稲荷」のお狐様たら
お狐様。
神馬像越しの拝殿。
案内板発見。
「富士浅間神社
明応四年(一四九五)六月、後土御門院の勅令によって、駿河の浅間神社より分霊を勧請して奉祀したという由緒が伝えられている。
祭神は中央に木花開耶姫命、左に瓊々杵命、大山祇命、右に天照皇大神、彦火々出見命を合祀するほか、数社が祀られている。
なお、この神社には、近くの那古野山古墳から出土した有蓋脚付壺が保管されている。」
……「那古野山古墳」ってなんだ……初めて聞いた……。
いつか調べてみよう。
梅か桜か。
さて。
例によって『尾張名所図会』を探ってみたのですが、発見できず……。
というわけで今回は、
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 2 名古屋
↑『尾張志』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
16コマです。
「浅間社
南寺町清寿院境内にあり明応四年はしめて建立す大永六年当郡小林城主牧氏某これを造営すといへり
稲荷社 弁才天社 飯綱社 なとおなし境内にあり弁才天社は大永六年に勧請し飯綱社は貞享元年甲子九月瑞龍院君の命を奉して造営すといふもと此神像は春日井郡大草村福嚴寺にありしを後に愛智郡籏屋町に移し又下津村正眼寺に安置したりしを故ありて御城内に移し給へるか元禄甲子に又ここに移したりとそ」
……うーん、「後土御門天皇」の勅令、という話はなかったことになっているのか。
当時のこの辺りの城主である「牧某」が建立したのは間違いないようですが。
全然文字の読めなかった末社の中には、「弁才天社」や「飯綱社」があったようで……「飯綱社」って、結構珍しいのかな……本拠地は信州ですが、距離的には近しいので、結構流行ったのか……。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編
↑困ったら『名古屋市史』。
「社寺編」、158コマです。
「二二 富士浅間社
富士浅間社は中区門前町四丁目の西側 旧称は南寺町 に在り、境内七百十三坪七合三勺あり、当社もとは富士権現又は浅間宮と称し、明応四年後土御門天皇の勅に依り、駿河国富士権現を勧請す 市譜、椋園叢書には牧與三右衛門長清の勧請となす 、大永六年、前津小林の城主牧與三右衛門長清再興す、寛永十年、藩祖義直の室於春(高原院)再建以来、当藩より修造せらる、明治初年村社に列し、三十三年頃、社務所を建つ、祭神中央は木花開耶姫命、左は瓊々杵尊、大山祇命、右は天照皇大神、彦火々出見尊なり、殿宇には神殿、社務所等あり、境内神社は稲荷社 祭神宇賀之御魂、建立年時は詳ならず、明治四年当末社秋葉社へ合祀し、十一年六月造営遷宮す 、天神社 祭神菅原道真 、金刀比羅社 祭神大己貴命、旧称金毘羅大権現、明治四年八月、今の名に改む、勧請年時不詳 、出雲社 祭神は大己貴命 、秋葉社 祭神迦具土大神 、の五所あり(略)、寛文七年閏二月、藩主光友(二世)より修験清寿院へ給はりしものにして、明治初年まで拝領せり、例祭は六月十一日にして、市より供進使の参向及び湯立の神事あり (略) 社務は勧請当時は駿河富士権現の神職小林某之を奉仕し、其後修験良圓となり、林蔵坊 寛永年中不埒につき追放となる となり、尋いで南寺町愛宕社の別当大乗院村瀬大圓坊良清之を兼ね、寛永十六年、其子実寿院良済、藩主義直より社地及び住地を給はり、本社の別当職に補す。寛文六年十二月、実寿院を改めて清寿院となし、以来明治初年まで同院にて奉仕し、且つ代々御軍貝役をも勤め、座位は古渡稲荷神社の神主の次第に列せり、(略)
飯縄社は又飯綱社に作る、旧称は飯縄権現といふ、徳川時代には本社の奥院なりき、初め御深井矣の向島に鎮座せしを、貞享元年九月、藩主光友の命に依り、本社境内に堂宇を建立して、同年十二月之を遷す、元禄十五年三月、松寿院殿 名はよね、藩主光友の三之丸なり 、修造せらる、以後藩より修営せらる、明治初年、徳川邸より権現の身体を柳原長栄寺に移し、其社殿は村瀬喬臣に賜はる、其堂宇今喬臣宅 旧清寿院の一部 の庭前にあり、其の柱は黒木造りにして、奈良より移建せるものなりといふ、神体は仏教天部の神にして、袈裟を著せる高六尺餘の木像なりと云ふ、一説に空海の作にして、源頼朝の守護神たりといふ、春日井郡大草村(略)福嚴寺 曹洞宗なり一説に同村に一社を建てて祀ると云ひ、又往古は知多郡篠島に在りきともいへり に伝はり、次ぎに愛知郡籏屋町(略)に移り、後中島郡下津村(略)正明寺(略)に遷りしを、故ありて御深井矣に移されたり(略)
弁才天社は徳川時代には本社の境内末社なりき、大永六年の勧請なりといふ(略)
湊川神社は祭神中央は楠木正成、左は和気清麻呂、右は大連物部守屋なり、文久二年、中区天王崎町洲崎神社境内に鎮座す、明治九年五月本社の境内末社として遷座し、十八年五月修造遷宮す、大正元年十二月本社に合祀す(略)」
由緒は詳しいですが、『尾張志』より新しい時代に、古文献からまとめられたものですので、正しいかどうかはわかりません。
「弁才天社」、「飯綱社」は著名だったようですが、明治になって「洲崎神社」から「湊川神社」を遷座しているようです。
何か理由があったのか……。
市内には、「富士神社」や「浅間神社」と称するところが結構ありますが、富士塚が残っているようなところは今のところ見ていないですね。
東京には結構富士塚が残っているところを見ると、「富士講」の盛り上がりよりは、より近い「御嶽講」のほうが盛んだった、ということなのでしょうか。
名古屋からも富士山が見えることもあった……のでしょうかね……富士見って地名はあったような気がするので、見えたのかな……そういったことも知らない、残念なおっさんです……地名に関する本を読めばわかるかもしれません。
そういえば、「まねき稲荷」の由来がわからなかったな……。
もうちょっと大須をぶらぶらします。
あ、御朱印はいただけるようなのですが(神社の道を挟んで向かいに社務所があります)、私が参拝したときは人の気配がなかったもので、いただいておりません。
いつかいただけるのか。
▽※2017/5/13追記▽
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会
↑『尾張名所図会』、改めて目次を見ていたら、ありました……ただし「清寿院」の記事なんですが。
78コマです。
「富士山観音寺清寿院
同町西側にあり。山城国醍醐の三宝院の派、尾張・美濃二箇国の修験の先達なり。本尊富士権現は、土御門天皇の勅によりて、駿河の浅間大神の神職、此地に勧請して造営ありしなり。中世前津小林の城主牧與三左衛門尉源長清、富士権現を崇信して、七度参詣の志願を発し、三度駿河に下りて登山ありしが、晩年に及びて遠路に堪へがたく、残る四度を此社に詣でて、其願をはたせし故、其砌当社を再営ありしとぞ。また信長公の家臣村瀬左馬助の末孫、修験となりて大圓坊といひしが、大乗院及び此院を兼帯住持せし其子宝寿院、国君より当社の地を拝領し、清寿院の号を賜はる。
(略)
飯綱権現社 神像六尺有餘にして、おそろしき尊容なり。もとより霊験あらたなる像なり。例年六月十一日神楽あり。
末社 稲荷・金毘羅・菅神・秋葉・福天。(以下略)」
……あれ、「後土御門天皇」じゃなかったですっけ……。
小林城主の牧氏が、富士登山七度の祈願を途中でやめて(やめざるを得ない、と言うべきでしょうか……暇そうで暇じゃないっぽうしな、城主)、この神社を参拝した、というのが妙にリアリティがあります。
「飯綱権現」がその都度言及されているところを見ると、結構特徴的なものだったようです。
もうないのかな……(「清寿院」という寺院は廃寺になっているようなので、残っているとしたら「富士浅間神社」に、なんですが……何となくなさそう……)。
大須界隈は、またぶらぶらするので、もうちょっと気をつけて、あちこち歴史の後先を見つけてみようと思いました。
△※2017/5/13追記△