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ついに、2021年の記事に突入しました……まだ去年かい。
さて、どんな理由で参拝を決めたのか、全く思い出せませんが、愛知県は半田市の「神前神社(かみさきじんじゃ)」へ。
◯こちら===>>>
目の前に海……海かな……を臨む立地、小高い丘の上に鎮座ましまして。
いきなり扁額ですが……何か、催し物ではないですが、人が多かったような記憶があります。
「神明宮」って書いてあるな……これは、参道入り口近くに御鎮座だったと思います(多分)。
神の井。
「昔神武天皇御東征の折当地にお立ち寄りになり湧き水に映りしお姿をご覧になりその水の清らかさに心なごまれた由緒ある神の井であります
以来井戸のぞき神事は子供の疳の虫が治まると云い伝えられております(略)」
井戸と、夜泣きや疳の虫が関係するのはなぜなのか……という論考を探してみます。
「神明宮」遠景(というほど遠くはない)。
摂社。
左から「御首社」「海亀大明神社」「御鍬社」「恵毘須社」「大国主社」「一之神社」……だと思います。
「天満宮」なので、撫で牛と筆塚。
「和魂漢才」、久々に見た文字の並び。
「天満宮」と摂社の間を通って、神社の上手というのか裏手というのか、に出られます。
どうやら「観月亭」という露台があったようです。
伊勢湾台風で倒壊、という言葉が、この地域のことをよく表しているように思います。
「亀崎十景」の一つだったようです。
こんな景色です。
わりと朝早かったので、ちょっと良い感じに見えますね。
「亀崎場跡碑
稲生七郎左衛門政勝の城跡。富士山と言う地に館を築く。
小川の水野忠政の船奉行に召され、名を重勝から政勝に改める。
北側の高台にこの碑が建っていたが、衣浦干拓工事のため城址を削られ碑はこの地に移された。」
こちらは歌碑ですね。
悠紀殿屏風歌……大嘗祭のときのものですか。
忠魂碑です。
こちら「神宮遥拝所」。
再び、衣浦港。
よい景色でした。
戻って来て、急に拝殿、と。
神馬と「菅原道真公」はいいとして、赤い……。
最初の鳥居を、参道側から。
参道脇にある「多賀社」。
小さい狛犬さん可愛い。
「亀崎月」。
確かに、あの風景の中、月が浮かんでいたら、それは見事だろうと思います。
やっぱり移されたみたいです。
狛犬さん。
鳥居。
謎の龍神様ズと池、なので祠は「弁天」様かな。
急に「加農(カノン)砲」。
そういえば、「山車」を出す祭りが、ひっくるめてユネスコの文化遺産になったんでしたっけ。
これだけ登っていると、古墳じゃないかな、と思ってしまいそうになります。
御朱印……あれ、なかったっけ。
さて。
◯こちら===>>>
大日本名所図会. 第1輯第9編尾張名所図会 - 国立国会図書館デジタルコレクション
『尾張名所図会』より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
23コマ、まずは亀崎の図絵が掲載されております。
もちろん、「神前神社」もばっちりと。
「亀崎 乙川村・半田村辺より一里餘東の方、海へ張出づる地にして、正面は三州高浜・鶴ケ崎に相対し、北は境川の下流ここに入りて、初て海となれり。また当初の山下に一つの名井あり。寒暑にも増減なく、水至つて清ければ、村中是を汲む。其他の井水はみな塩気ありて用ひがたりといへり。」
「神崎天神社 亀崎村にあり。今神明と称す。祭神 神日本磐余彦尊・天照大神を祭れり。[本国帳]に従三位神崎天神とあるこれなり。
例祭 二月二十五日・三月十六日。
摂社 天神社・山神社・鍬神社・蛭子社
当社は頗る大社にして、数百磴の上にあり。眼下に海面を見おろし、島嶼をかぞへ、遠山を指点するまで、分明晴朗の一勝槩なることは、図を見て知るべし。
(以下略)」
「神崎天神社」と書いた時期もあったのですね。
◯こちら===>>>
『半田市』というそのまんまな本もあったので、こちらも。
13コマです。
「【神前神社】 亀崎の東北方海中に突出せる突端に在り神倭磐餘彦命を祀る。初め神前天神と称し後亀崎神社と改め、明治四年郷社に定められ、同十八年二月二日神前神社と改称し、同じ七月十三日県社に列せらる。創立年月不詳なるも伝説には、昔神武帝不逞を征して伊勢より此地に上陸せられしを以て天神岬と称し後社を建てて神武帝を祀り産土神として崇敬せりと伝ふ、天神の所在地として昔は神崎と称せしが何時の間にか亀崎と転訛するに至つたものであるとの説あり、社前に立てば亀崎港を下瞰し衣ヶ浦は真帆片帆を浮かべて盆水の如く四季の絶景に富めるあり、此社の祭礼汐干祭は有名なるものにて、諏訪の人立川和四郎及越前守岸駒等古名匠の妙技を刻みたる五輌の山車を干潮に乗じ波打際に曳下ろし再び社前に曳上ぐる様は頗る壮観である。往古は八月仲秋なりしを天候険悪の為、文政十一年より今の陰暦三月十五、六日に変更す。社前の広場にて毎年夏には盆踊等ありて賑合ひ社の境内に接して古松参差たるあたりに観月台あり観月の賞地たり、古より海岸に存せる敬神の風習として船が此神前神社の社前を通過する時は、必らず帆を下げて敬意を表す風ありしが、後、略して帆綱に手を掛くるのみとなりしが、文久の頃よりそれすら行はれずなつた。」
「神武天皇」が上陸した、というのはもちろん伝説なのですが、山車といえば「八坂神社」の祇園祭や、「津島神社」系の天王祭で使われる船が思い浮かびます。
地理的には「津島神社」が割と近く、水辺にある、ということは、元々は「牛頭天王」系の神社だったのではないか、と思われるのですが、何しろ起源が不明なので何とも。
旧暦八月、中秋の頃といえば、今でいう十月、「牛頭天王」は疫病とともに水辺からやってくる神で、夏の湿気の多い頃に流行る疫病を象徴していたりするので、季節がちょっと合いません……のでやっぱり違うかな。
祭礼の時期をずらしたのは、台風がたくさんやってくる季節だったからでしょうか……何しろ伊勢湾台風……。
世界遺産やら何やらはともかく、良い神社でした。