11/21。
ちょっと友人を言祝ぎに上京(風邪がまったく治らず、解熱剤でごまかしごまかし)。
夜のパーティーまで時間がある、とのことだったので、「亀戸天神社」へ。
○こちら===>>>
すでに陽は傾いています。
か、亀戸にも七福神が……攻めたくなりますが、ぐっと我慢(そんな時間はない)。
鳥居。
紋付や振袖を着たお子達で賑わっていて驚きます(七五三や初宮詣でをよくわかっていない)。
「亀戸天神
由来
江戸時代から学問の神様として信仰を集め、梅や藤の名所として庶民から親しまれてきました。
寛文2年(1662)九州太宰府天満宮の神職が、飛梅の木で菅原道真の像を作り、祀ったのが創建といわれています。
毎年1月24日、25日に「うそ替え神事」が行われ、前年のウソを納め、新しいウソを求めると「凶もウソとなり吉にトリ替わる」といわれており、檜の一刀彫のウソに人気があり、たくさんの人々でにぎわっています。」
関東地方は、長く都から離れたところでしたが、人が住んでいなかったわけではありません(失礼な)。
稲荷山の遺跡から出土した鉄剣に刻まれた文章からわかる通り、古墳時代には都の朝廷の影響も及んでいたようです。
とはいえ、やはり注目されるのは鎌倉時代以降、江戸時代。
「徳川家康」入府以来、改良を加えられてきた江戸の町ですので、「歴史ある神社仏閣」とはいえ、実際には江戸時代以降のものが多いのも致し方ありません(それでも400年前ですので、古いのですけれど)。
「新東京八名勝」に選ばれていたようです。
あれ、他はどこがあるんだっけ……検索してみましたが、うまいこと引っかかりませんでした(ブログは引っかかるのですが、元情報が辿れなくて……)。
みなさんは検索してみてくださいね〜。
太鼓橋。
こちらの神社の橋は、心字池にかかっており、「太宰府天満宮」に倣っているのだそうです。
三つの橋が鳥居から、太鼓橋(男橋)、平橋、太鼓橋(女橋)と並んでいるとのことです(公式HPより)。
遠くにヤツがいますが、合成ではありません。
最初の太鼓橋の脇に、筆塚。
他にも碑文などあります。
天満宮(天神社)に筆塚はつきものです。
太鼓橋を横から(正面向かって右側)。
手前は藤棚でしょうか。
またしてもヤツがいます……ちょっと暗いですね、写真。
冬に一足踏み入れた季節ですから、陽の落ちるのも早いことで。
そのまま進むと「花園社」。
「御祭神は、菅原道真公の北の方で、道真公の父君是善公の門人であり、道真公がご幼少の時の師であった儒者の島田忠臣の御女であらせられ、御名を宜來子(のぶきこ)と申し、相殿に御子達十四方をお祀りしています。
寛文年中(1661〜1672)亀戸天神社の創建と時を同じくして、筑紫(福岡県)の地より勧請し、以来花園神社、花園大明神とも号されて、安産・子宝・育児の神・また立身出世の守護神として信仰されています。」
道真公の時代の女性で名前が残っている、ということは位の高かったという証拠でしょうか。
再び、横から太鼓橋。
そのまま進むと、次は「御嶽(みたけ)神社」です。
公式HPでは、
「卯の神として知られ、本殿の東側に建てられています。菅原道真公の学問の先生を祀ってあり、特に1月の初卯、二の卯、三の卯は卯槌(うずち)、卯の神札が配られます。又暦の十二支の卯にも関係します。卯とは、時間で午前6時頃を表し、方角は東を示し、色々な事がはじまり、広がっていく事を意味します。卯の日はその年によって異なります。火災除、雪除、商売繁盛、開運の神様です。」
と紹介されています。
学問の師匠と「御嶽」がどんな関係があるのでしょうか……(「菅原道真」公に関してもよく知らないことがどんどんとばれていきます)。
本殿左手前では、菊まつりだったんですかね……ヤツが……。
ああ、菊まつりでした……と思ったらヤツが二つも……。
改めまして、拝殿です。
老若男女で花の賑わい。
これは……本殿向かって左手奥だったかな……神輿庫と思われます。
境内には他にも、
中江兆民の碑や、
「国産マッチの創始者」清水誠に関する石碑、
「和魂漢才」の文字、
「御神牛」(たぶん、撫で牛ではないので、撫でないほうがよいかと)、
……これはなんだろう……、
五歳の頃の「菅原道真」公、右のほうには「ウソ」の碑、
といった具合に何気なく、整備された感じがワンダーランドっぽくはないですが、見ごたえはあります。
帰りは太鼓橋を渡ってみました。
「弁天社」。
「寛文五年、太宰府天満宮(福岡県)心字池畔に鎮まり座す志賀社を勧請したのを始めとしますが、時代の推移と共に、七福神の一つであり無量の福徳を与える弁財天(水の神・音楽の神)の信仰と習合し、一斑には弁天様と親しまれて(略)」
「太宰府天満宮」、行ったことがないんですよね……是非とも行ってみたい。
行ったことないので、「志賀社」がどんな社かいまひとつわかりませんが、それが七福神の弁財天と習合していくところが、江戸っぽいですね。
以上のような経緯のためか、「弁天様」には珍しく、島ではないのでしょうか。
これは、太鼓橋(男橋)からの景色です。
結構高い。
そしてヤツが……。
亀戸の名にふさわしく、なのかどうなのか、亀と、鳥のほうはなんでしょうか……五位鷺?
花にも鳥にも風にも月にも疎い、風流さのない私です。
遠景。
ヤツの圧倒的な存在感……。
さて。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第2輯第6編 江戸名所図会 第4巻
↑から引用しましょう(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
154コマです。
「宰府天満宮
亀戸村にあり。故に亀戸天満宮とも唱ふ。別当を天原山東安楽寺聖廟院と号す。司務兼宮司大鳥居氏奉祀せり。当社別当は柳営連歌の列に加へられ、毎歳正月十一日営中に至り、御連歌百韻興行す。御旅所は当社の南、北松代町四丁目にあり。筑前国榎寺の模なり。薬師堂あり。八月二十四日祭礼の時神輿を此所に遷しまゐらす。
本社 祭神天満大自在天神。相殿 天穂日命・土師宿禰 三座。
紅梅殿 本社の前、右の方にあり。筑前太宰府より栽す所の飛梅の稚木なり。
老松殿 同左の方に並ぶ。花洛北野の一夜松を栽し植ゑたり。
回廊
璥門 回廊の正面の門をいふ。左右に随身の木像を置く。
御嶽社 本社の右にあり。叡山の座主法性坊尊意僧正の霊を勧請す。菅神の師たるによりて是をまつるといふ。卯の日を以て縁日とす。ことさら正月初の卯の日は参詣群集せり。
花園社 御手洗の池の右にあり。菅神の北の方、並に御子十四前を相殿とす。
頓宮明神 同所にあり。昔菅神筑紫へ左遷の時、同国榎寺にて、夕陽に至りけれど、御宿もさだまらず、然るに賎の家を求めさせ給ふに、あるじの翁左遷の人にてましませば、御宿はかなふまじきよし情なく申しけれど、其家の老女は情ある者にて、扉の上に新薦を敷きて請じたてまつり、麹の飯を松の葉に盛りて捧げたりしに、志は松の葉に包むとのたまひしとある諺を表したり。頓宮とは其老嫗をさしていへり。老夫は縄を以て縛す。いづれも後に青赤の二鬼彳(たたず)みてあり。
兵州辺神祠 同所にあり。菅神逢ひたまふ所の河童をあがめたりといへり。水中守護の神とす。
連歌家 池の西にあり。此處において連歌を興行す。延宝五年丁巳二月十二日、大樹この辺御放鷹の時此連歌家に立ちよらせ給ひしとて、享保の頃も官府より修理を加えられたりといへり。
裏白連歌會 正月二日連歌家において興行す。
若菜神供 同七日、今朝若菜の餅をたてまつれり。すべては元日より此日に至るまで、毎朝宮司社人等神供を奉る。
菜種神事 二月二十五日、菅神の御忌によりて、二十四日通夜連歌興行、二十五日午時に至り、神前において社人等梅の枝を持ち、梅花の神詠二十八首を披講す。又夜に入りて、宮司・社人松明を照し、榊と幣とを神体とし、本社より心字の池をめぐり、橋を越えて璥門より入り、社前に松明を積んで是を焚く。この催事は宰府の形をうつす所なりといへり。
雷神祭 四月朔日より七日に至るまでこれを修行す。
神御衣(かんみぞ) 四月晦日と九月晦日の夜、御衣をたてまつる。
名越祓 六月二十五日、堅川の西大河口に至りて、船中これを修行す。
七夕和歌連歌會 七月七日これを興行す。
祭礼 隔年八月二十四日に修行す。当日堅川通北松代町の御旅所へ神幸、同日帰輿あり。後水尾帝の勅許によりて、神輿供奉の行粧すべて宰府の例式に准へて、尤壮観たり。別当大鳥居氏乗車す。生子の町々よりも練物車楽等を出して、甚にぎはへり。翌二十五日に至りて、神詠披講社頭において行ふ。
月見連歌會 九月十三日に興行す。
火燒神事 十一月二十五日に修行す。
年越神事 十二月晦日通夜修行せり。
追儺神事 節分の夜修行す。其餘一季の中、神事多しといへどもここに畧す。当社の祭式は、すべて宰府の例に准ふが故に、一社の法式あり。尤古雅にして、他に異なること多し。
社記に云く、開祖信祐 菅原善外の苗裔なり。 始筑前太宰府にありし頃、正保三年丙戌、一夜菅神の霊示を蒙る。其夢中『十立ちて栄ゆる梅の稚枝かな』といへる発句を得たり。依て其後飛梅を以て新たに神像を造り、是を護持して江戸に下り、彼天満宮を今の亀戸村に勧請す。初勧請の稚は、今の宮居より東南の方、耕田の中にあり。元宮と称して、かしこにも菅神の叢祠あり。其後寛文紀元辛丑台命を蒙り、同年壬寅始て今の地を賜ふ。同三年癸卯宮居を営み、心字の池・楼門等、すべて社頭の光景、宰府の俤を模せり。依て同十一年庚亥、後水尾帝宸翰を灑ぎ、菅神の尊号を下し給ふ。又元禄十年丁丑、一社の神事法式等、宰府本宮の例に准ずべきむね、同帝の勅許を蒙る。爾来神威顕赫として、霊瑞昭著なり。当社至宝と称するものは、菅神佩かせらるるところの天國の寳釼なり。」
「宰府天満宮」……なんて書かれていたおかげで、最初全然記事が見つかりませんでした。
公式HPでは、「東宰府天満宮」と書かれていたりしますが(これは「東叡山寛永寺」に倣ったのでしょうか)、「太宰府」ではないので「太」を外したのでしょうか。
「本社 祭神天満大自在天神。相殿 天穂日命・土師宿禰 三座。」……あそうだ、御祭神を書いていませんでしたが、「菅原道真公」と「天善日命」(相殿)となっています(公式HPより)。
「天善日命」ってなんだろう……と思ったら『江戸名所図会』のほうにはちゃんと「天穂日命」と書かれていたので安心。
「天穂日命」といえば、「天照大神」と「素戔嗚尊」の「誓約(うけひ)」によって生まれた五男三女神の一柱で、出雲臣、武蔵国造、土師連などの祖先と言われているお方ですね。
○こちら===>>>
「穴師坐兵主神社」「相撲神社」(考々々々) - べにーのGinger Booker Club
↑で紹介しましたが、「土師連」はのちに、自分たちが陵墓を作る役割を負っていたのを忌避して改姓を願い出て、「秋篠」や「菅原」になっていきました。
ですから、『江戸名所図会』では「天穂日命」や「土師宿禰」(連じゃないの?)がきちんと相殿の御祭神となっているわけです。
公式HPで「天善日命」と書いちゃったのは、「天菩卑能命」と「天穂日命」が混じった上に、「菩」を「善」と間違えちゃったのかな……直したほうがいいと思いますけれども(ひょっとして、「天善日命」という方が燦然といらっしゃったらすみません)。
「御嶽社 本社の右にあり。叡山の座主法性坊尊意僧正の霊を勧請す。菅神の師たるによりて是をまつるといふ。卯の日を以て縁日とす。ことさら正月初の卯の日は参詣群集せり。」……ああ、「御嶽社」のことがわかってよかったです。
○こちら===>>>
↑第13代の天台座主を務められたようです。
『北野天神縁起絵巻』か……機会があれば見てみたいと思います(「太宰府」どころか、「北野天満宮」すら行ったことないもので……)。
「頓宮明神 同所にあり。昔菅神筑紫へ左遷の時、同国榎寺にて、夕陽に至りけれど、御宿もさだまらず、然るに賎の家を求めさせ給ふに、あるじの翁左遷の人にてましませば、御宿はかなふまじきよし情なく申しけれど、其家の老女は情ある者にて、扉の上に新薦を敷きて請じたてまつり、麹の飯を松の葉に盛りて捧げたりしに、志は松の葉に包むとのたまひしとある諺を表したり。頓宮とは其老嫗をさしていへり。老夫は縄を以て縛す。いづれも後に青赤の二鬼彳(たたず)みてあり。」……あれ、こんな素敵なところありましたっけ?
「蘇民将来」伝説と、「縣衣翁・奪衣婆」の伝承を思い起こさせる話ですね。
いえ、「いづれも後に青赤の二鬼彳(たたず)みてあり」というのが、地獄の一丁目、三途の川という感じがしたもので。
さりげなく「賎の家」と書かれている辺りに、当時の意識が見て取れます(と簡単に書いてしまってもいけないのですが)。
<※2016/4/24追記===
「兵州辺神祠 同所にあり。菅神逢ひたまふ所の河童をあがめたりといへり。水中守護の神とす。」
……忘れてました、「菅原道真」公といえば、「河童」。
それも「兵州辺(たぶん、ひょうすべ)」です。
長々と考えているふりをした、「穴師坐兵主神社」の記事が懐かしいです。
今は残ってないみたいですけれどね……残念。
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「社記に云く、開祖信祐 菅原善外の苗裔なり。 始筑前太宰府にありし頃、正保三年丙戌、一夜菅神の霊示を蒙る。其夢中『十立ちて栄ゆる梅の稚枝かな』といへる発句を得たり。依て其後飛梅を以て新たに神像を造り、是を護持して江戸に下り、彼天満宮を今の亀戸村に勧請す。初勧請の稚は、今の宮居より東南の方、耕田の中にあり。元宮と称して、かしこにも菅神の叢祠あり。其後寛文紀元辛丑台命を蒙り、同年壬寅始て今の地を賜ふ。同三年癸卯宮居を営み、心字の池・楼門等、すべて社頭の光景、宰府の俤を模せり。依て同十一年庚亥、後水尾帝宸翰を灑ぎ、菅神の尊号を下し給ふ。又元禄十年丁丑、一社の神事法式等、宰府本宮の例に准ずべきむね、同帝の勅許を蒙る。爾来神威顕赫として、霊瑞昭著なり。当社至宝と称するものは、菅神佩かせらるるところの天國の寳釼なり。」
由緒です。
公式HPでは、
「菅原道真公をお祀りする当社は下町の天神さまとして広く知れわたり、多くの方々に親しまれております。
古くはご本社にあたります九州太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」と称されておりましたが、明治6年に東京府社となってより亀戸神社と号し、昭和11年に現在の亀戸天神社と正称いたしました。正保三年(1646)九州太宰府天満宮の神官でありました菅原大鳥居信祐公(道真公の末裔・亀戸天神社初代別当)は神のお告げにより、公ゆかりの飛び梅の枝で天神像を刻み、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもって、遠くは日光または盛岡などの諸国を巡り歩かれ 、そして江戸の本所亀戸村にたどり着かれ、村に元々ありました天神の小さなほこらにご神像をお祀りいたしました。
当時徳川幕府は、本所の町を、江戸の大半を焼き尽くした明暦大火の被害による復興開発事業の土地とさだめ、天神様を篤く信仰していた四代将軍家綱公はその鎮守の神様としてお祀りするように現在の社地を寄進されました。
そして、寛文二年(1662)10月25日に太宰府の社にならい、社殿、回廊、心字池、太鼓橋などを営み、以来約350年後の今日まで東国天満宮の宗社として崇敬されてまいりました。」
となっています。
気になるのは、「当社至宝と称するものは、菅神佩かせらるるところの天國の寳釼なり。」ですよね(刀剣女子的に……?)。
「天国」という人は、かなり初期の伝説的刀工の名前(またはその鍛えた刀剣の名前)ですが、これって今でも「亀戸天神社」にあるんでしょうか?
公式HPには載っていないんですよね。
うーん……。
「天国」の中には、刀の先端が両刃になっているものがある、と漫画で読みました(をい)。
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↑これですけどね。
○こちら===>>>
↑には、
「なお、亀戸天神社の宝剣も天国の作とされ、こちらには「一度鞘から抜き放てば決まって豪雨を呼ぶ」という伝承が残されている。」
と書かれています。
ということは、やっぱりあるのか……ひょっとして宝物殿とかあったのかしら(神社仏閣めぐりのときは、たいてい急ぎ旅なので、あまり宝物殿なんかはじっくりみないんですよね……いかんいかん)。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸叢書 : 12巻. 巻の參
↑に収録されている『増補江戸惣鹿子名所大全』もみてみましょう。
280コマです。
「宰府天神 本庄龜井戸
東安楽寺天神は寛文三卯年信祐開基、御神体は筑紫より入御、元は筑前宰府天神延喜十八年に開基公家輪番なり、後堀河院御宇天神九代目信升(しんしゃう)別当、初め其末信祐神の告ありて廻国執行の時本所奉行、御老中、言上有て宮地定る、安楽寺他國へ移す事是初めなり、信祐上京、叡分をへ祐法定る、家綱公入御あつて諸人あゆみをはこぶこと北野建立の後一条天子入御におなじ、飛梅若木筑紫より来り菅相丞御太刀天國御劔あり。」
こちらにも「天国」の剣のことが載っていますね。
『増補江戸惣鹿子名所大全』は、17世紀末に成立したもので、『江戸鹿子』の文字通り増補版です。
本当は、その後に書かれた『江戸砂子』も引用したいのですが、デジタルコレクションでは活字版がなくて……(どっかでみた気もしたのですけれど……)仕方ないので、『江戸叢書』に収められている、『江戸砂子』の考証本(らしい)『砂子の残月』を(なお、前段落、本段落はwikipediaを参照しました)。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸叢書 : 12巻. 巻の九
↑113コマです。
「亀戸天神
当社は、寛永三年三年菅家の末葉、大鳥居信祐、筑紫太宰府の天神を勧請す、安楽寺より他國へうつす事当社を初とす、故に世俗号して東の安楽寺と称す、社頭に飛梅の若木といふあり、筑紫より来れる所也といふ、餘は江戸砂子にくわし(歳時記)社頭一個の清泉ありて、常に湧出て掩ふに石亀を以す、亀の甲の上に穿て水を引、故に亀井戸といふか、(近世奇跡考)当社神寳、天國の劔といふあり、この外後水尾帝の宸筆、安楽寺の瓦硯、又紅葉の文台あり、秀吉公の御文台なり、連歌師紹巴に賜ふといふ、後当社の重宝となる、紅葉の絵蒔あり、
妙義権現は地内にあり、(花暦)正月初卯の日、今日受る所の紙符を串に捶て、諸人是を頭髪につらぬき家に帰る、正月二十五日に鳥飼神事あり、此日諸人群集、」
こちらは「亀戸」の由来にも触れていますね。
「天国」の剣、みてみたいですね……。
さて、こちらは「東京十社(旧准勅祭社)」の一社です。
これであとは……どこだったかな……王子か……。
カテゴリに「旧准勅祭十社」を加えてみました。
なかなかのワンダーランドでございました。
(※2016/4/24追記)