べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「上野天満宮」(再々)(名古屋市千種区)

……しばらく更新をしておりませんでしたが、やっとこさ……とりあえずリハビリ程度、ということで。

 

1/11(※やっと2020年ですよ……)。
初詣に出かけていなかったので、「上野天満宮」へ。

 

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「上野天満宮」他 - べにーのGinger Booker Club

「上野天満宮」(再)(名古屋市千種区) - べにーのGinger Booker Club

 

↑過去記事です。

 

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狛犬さんには相変わらずの小さい天神さんが。

 

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牛さんにはもう、これあれですね、そのうち食われるやつですね……。

 

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で、整備中だった摂社が、「晴明殿」となっておりました。
「晴明社」……あれ?

 

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「晴明神社」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑「上野天満宮」近くには「晴明神社」というのがあったのですが……合祀になったのか。
また調べてみないとな……。

 

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立派な社殿、というか建物でした。

 

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……こっちもか……。

 

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御朱印
新しく「晴明殿」のものもいただけるようになっておりました。

 

というわけで、リハビリがてら、ゆるゆるっと更新を再開したいと思います〜。

「福徳神社」(東京都中央区)〜日本橋界隈短時間ぶらぶら〜

11/17。
ぶらぶら旅もそろそろ終了、ということで、福徳神社へ。

 

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mebuki.jp

 

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えっと、横向いてますね……なんでだろう……。

 

福徳神社由緒
当社伝来の稲荷森塚碑文によれば、九世紀後半、当地は福徳村と呼ばれ、穀物・食物を司る稲荷神が鎮守の森に抱かれて鎮座していた。福徳村の稲荷は往古より源義家太田道灌ら武将の尊崇を受け、ことに最初の江戸城を築いた道灌との縁は深く、彼の神霊は当社に合祀されている。徳川家康天正十八年江戸入部直後に当社を参詣、二代将軍秀忠も慶長十九年に参詣し「福徳とはめでたい神号だ」と称賛し、また当時の福徳稲荷の椚の皮付き鳥居(黒木鳥居)から春の若芽が生えているのを見て「芽吹稲荷」の名を与えた。秀忠は江戸城内の弁財天を合祀し、社地を三百三十坪と公定するなど当社を篤く尊崇した事跡が伝わっている。
その後、江戸の町の発展と度重なる火災や社家の事情などにより境内地をほとんど失い、一時は消滅の危機に瀕した。それでも氏子有志が福徳神社の祭祀を継承してきた結果、平成二十六年秋、日本橋地域諸氏の尽力により往時の姿を彷彿とさせる境内・社殿が再建されるに至った。」

 

……再建、ついこの間でした。

 

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日本橋の、なんというのか、オフィスビルの合間にたたずんでおられて……。

 

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拝殿。

 

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鳥居。

 

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うーんこの……。
あれですね、新しい歌舞伎座、みたいな感じですね。

 

写真はここまで……いや、小さいながらも参拝客は多くて、境内に植えられた木々が確かに鎮守の森的な演出になっていて、都会のオアシスという死語がぴったりくる感じでした。

 

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御朱印
シンプル。

 

さて。

 

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日本橋区史. 第4冊 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

今回も『日本橋区史』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
17コマです。

 

「村社福徳神社
瀬戸物町二十四番地にあり。社地もと浮世小路の内にあり。祭神は倉稲魂命を祀り、相殿には東照宮及び穂日命、大己貴命、少名彦命、事代主命三穂津姫を祀り、又太田道灌をも合祀したり。創立の年時詳らかならざれども、社伝によれば、古く貞観年間にありて、往古鎮座の地、武蔵野の村落にして福徳村といひ、田野の中に社ありて其の森を稲成の森と呼び、森の一端に立てる石標には稲成の森塚と記し、武将の尊信浅からざりしが、元和中三百三十三坪を社地と定められ、爾来地域を縮小して今に至るといふ。明治七年村社に列す。祭日は五月九日にして、社宝として徳川家康本多忠勝に与へしといふ紙入一個、大和錦の幌(徳川秀忠の寄附)、茶釜、本多忠勝の使用せしと伝ふる軍用鍋等あり。」

 

なるほど。
なお、公式HPに載る御祭神は「倉稲魂命天穂日命、少名彦名命、事代主命、三穂津媛命」となっています。
大己貴命」がどこかいっちゃいましたな……その理由はわかりませんが、「大己貴命」が入っていれば、「少名彦名命」「事代主命」「三穂津媛命」「天穂日命」ですので、出雲系、武蔵国造系の神々が集められている、と……いうことは、

 

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「鷲宮神社」(埼玉県久喜市)〜関東巡り〜 - べにーのGinger Booker Club

 

↑「鷲宮神社」がどこかの段階で合祀されたのではないか、と思われます。
証拠はもちろんありません。
日本橋区史』が書かれた頃、大正年間には、

 

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日本橋区史. 参考画帖 第1冊 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑の88コマに神社の写真があります……小さくてちょっといろいろわかりづらいのですが……ともかくあります。
ただ、「水天宮」や前回の「小網神社」に比べると規模的に小さいのは否めなかったようです。
武蔵国の神社としては、由緒正しい御祭神(いつの合祀かわからないのでなんとも言えませんが)ですので、再興され、地域で崇敬されていくのは喜ばしいことかと思います。
いや、写真が少なく、妄想の余地もないので、淡白ですが……。

 

 

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おまけ。

麒麟がくる』を前に(※2019/11/17の写真です)、麒麟を見てきました。

まじまじと見たのは久しぶり。

「小網神社」(東京都中央区)〜日本橋界隈短時間ぶらぶら〜

11/17。
引き続き日本橋界隈をぶらぶらしておりまして、たどり着いたよ「小網神社」。

 

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www.koamijinja.or.jp

 

 

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ビルの合間に、というかマンションの合間に。
これまた、都会の中に残されているという感じがなかなかなロケーション。
参拝されている人が多かったので、写真は少なめです。

 

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狛犬さん。
正統派……イケシブオヤジな感じです。

 

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小網神社
社伝によれば、当社は小網山万福寺を別当寺として、室町時代中期、当地に祀られた稲荷社に起源するという。稲荷社は、明治時代初めの神仏分離令により、小網神社と称し、東堀留川の河岸地の一画であった現在地を社地と定めた。そして現在、小網町及び人形町の一部の氏神として、また東京下町に広く信仰を集めている。
境内には、昭和四年(一九二九)の造営による社殿及び神楽殿が残っている。社殿は伝統的な神社建築の形式を備え、向拝には優れた技法による昇り龍・降り龍・獅子・ばく・鳳凰等の彫刻がほどこされている。また道路際に建つ神楽殿は、五角形という特殊な平面形態を持つ。この社殿及び神楽殿は、中央区に現存する数少ない木造の神社建築として、棟札等の造営に関係する資料とともに中央区文化財に登録されている。」

 

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灯篭。

 

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鳥居。

 

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提灯。

 

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御朱印

 

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日本橋七福神詣では「福禄寿」と。

 

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こちらは「弁財天」ですが……肝心の像の写真は、神社のHPをご覧ください。
「東京の銭洗弁天」と呼ばれているそうで、ご利益をさずかろうという参拝のかたが多くいらっしゃったもので……写真がないのです。

 

◯こちら===>>>

「銭洗弁財天 宇賀福神社」 - べにーのGinger Booker Club

 

銭洗弁天」といえば、鎌倉でしょうかね(またいきたいな……)。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

dl.ndl.go.jp

 

探し方が悪かったのか、『日本橋区史』をようやく発見……『江戸名所図会』には記事なかったし、『新編武蔵風土記稿』は御府内ないし……(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

「五 村社小網神社
小網町二丁目東萬河岸にあり。祭神は倉稲魂命にして境内狭少、社殿又大ならざるも、その草創は古く、文正元年にあり。これより先数年、恵心僧都、豊島郡入江が岡に笈を止め、小庵を結びて萬福院といふ。文正元年稲荷の像を刻し、祭りて小網神社といふ。文明年中、太田道灌又寺地を給し、新に寺院を経営して小網山稲荷院萬福寺と號す。徳川氏入国の後、産土神として崇敬し、慶長初年附近を小網町と號し、同十六年田所町に移り、又谷町に転じ、正保元年浅草新寺町に新地七百坪を給せらる。明治二年蛎殻町に遷座し、六年村社に列し、九年九月旧地に復し社殿を建築したり。末社保食神を祀れり、毎年五月四五の両日祭礼を執行す。社記あり、左の如し。

祭神倉稲魂命。本社は足利等持院将軍治世、叡岳の沙門恵心僧都武蔵国豊島郡入江の岡に笈を止め、其處に小庵を結で萬福院と唱ふ。其後八代将軍義政の治世、霊夢により僧都自ら稲荷の尊像を彫刻して村民と共に神祠を建立し、小網稲荷神社と稱す。爰に領主太田君より地所を賜はり、寺院を造立し、小網山稲荷院萬福寺と號す。其後徳川家入国の後、入江邊町家となり、社号を以て小網町と唱へ、稲荷社を産土神と崇敬す。慶長十六年公命により、中興開祖秀舜法印の時、田所町に移り、亦谷町に移り、正保元年三世宗榮法印の時、浅草新寺町に於て新地七百坪を拝領し社殿を造立し寺院を再建す。落成の時依台命寺号を長寿院と改む、天台宗東叡山末薬王山東光院に属す。明治二年十一月四日神仏分離の令あるに際し、当地へ遷座、六年七月五日村社に定められ、七年二月十九日、蛎殻町一丁目二番地へ借地鎮座、九年九月廿五日小網町二丁目旧地を以て社地と定め、十月十四日遷座す。云々、」

 

なるほど、浅草に遷座されていましたか……と、『江戸名所図会』を見直してみましたが、発見できず……再建されているようなので、いっときは廃れてしまったということでしょう。
昭和の初めのころから、境内は狭かったようです。

「日本橋日枝神社」(東京都中央区)〜日本橋界隈短時間ぶらぶら〜

11/17。
前日は、さいたまのほうでギャラクシーな宴がありまして、早起きができず、ぐったり……年だ……ということで、東京駅周辺をぐるぐるしよう、ということにしまして、日本橋日枝神社へ。

 

◯こちら===>>>

www.hiejinjanihombashisessha.tokyo

 

赤坂の「日枝神社」の摂社なんですね。

 

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いきなり拝殿です。
神紋が、当たり前ですが「日枝神社」です。

 

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天水桶って、惹かれるものがありますよね……これは、ちょっと新しそうですけれども。

 

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こちら、境内にある「明徳稲荷神社」の由来。
頑張れば読める……かな。

 

「当神社は遠く元禄の頃より南茅場町(現茅場町一丁目)の稲荷社として現六番地附近に鎮座し、明治十八年回禄の災後は社殿神楽殿再築せられ、町内睦組方々により日枝摂社、薬師堂と共に江戸の御縁日の情緒豊かに霊顕崇かなり、大正十二年関東大震災後小宇再建間もなく區劃整理にて十四番地十四坪六合の換地に社宇再建せられたるも昭和二十年三月戦火に依り烏有に帰せし(以下略)」

 

特に、火事に見舞われることが多かっただろうお社ですが、結構畳み掛けるように災難にあっていますね……往時の東京の、いや日本の神社仏閣は、みんな似たようなものだったでしょうか。

 

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おキツネ様
素朴。

 

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よいロケーションです。

 

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拝殿を向かって左側から。

 

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狛犬さん。
胸筋が素晴らしくストレッチが効いている感じですね。

 

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「摂社日枝神社(山王御旅所)
(略)
由緒 摂社日枝神社天正十八年(一五九〇)徳川家康公が江戸城に入場、日枝大神を崇敬されて以来、御旅所の存する「八丁堀北嶋(鎧島)祓所」まで神輿が船で神幸された事に始まります。
完成十二年(一八〇〇)の江戸名所図会巻二では、神主樹下氏持ちの山王宮と別当観理院持ちの山王権現の遥拝の社が並び建ち、隔年六月十五日の山王祭の際は、この二社の手前に仮殿が設けられ、永田馬場の本社からの神輿三基を中心とする供養行列の神幸があり、実に大江戸第一の大祀にして壮観であったと伝えられています。
境内地には天満宮、稲荷社、浅間社のほか、山王の本地とされる薬師堂や閻魔堂も建立され、縁日や勧進相撲も行われていました。
明治元年神仏分離令により薬師堂と同別当智泉院の敷地は境内から分離されました。明治十年に山王宮は無格社日枝神社に、大正四年には本社の官幣大社昇格に伴い摂社日枝神社と改称されました。現在の社殿は大正十二年九月の関東大震災後、昭和三年に造営され、境内末社(北野神社・稲荷神社・浅間神社)が合祀されました。昭和二十年三月の東京大空襲により罹災しましたが、直ちに補修を行い、昭和四十一年に御屋根葺替と大修理を加えました。平成二十二年には再び、老朽化した社殿に外装工事を施し今日に至ります。なお正面の石鳥居は、万治年間に本社石階段下に設けられておりましたが、昭和三十六年に現在地に移設されました。(以下略)」

 

 

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この鳥居さんが、本社赤坂の「山王日枝神社」のものだったと……いうか、鳥居の正面に社標って、今気づいた……区画整理のせいでしょうね……こんな感じに、ビルの合間にあるので、ちょっと気づきにくいかもしれませんが、狛犬さんがよいので是非ご参拝を。

 

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御朱印

 

さて。
神社の案内板にも書かれていたのですが、

 

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大日本名所図会. 第2輯第3編 江戸名所図会 第1巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

『江戸名所図会』の第二巻です(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
89コマより。

 

「永田馬場山王御旅所 茅場町にあり。遥拝の社二宇並び建てり。寛永年間此地を山王の御旅所に定めるるといへり。一宇は神主樹下氏持なり。一宇別当観理院持なり。隔年六月十五日御祭礼にて、永田馬場の御本社より、神輿三基此所に神幸あり。仮に神殿を儲け、供御を献備し、別当は法楽を捧げ、神主は奉幣の式を行ひ、夜に入りて帰輿なり。其行装榊・大幣・菅蓋・錦蓋雲の如く、社司社僧は騎馬に跨り、或は輿に乗じ、前後に扈従す。諸侯よりは神馬・長柄槍等を出されて、途中の供奉厳重なり。又氏子の町々よりは、思ひ思ひに練物あるひは花屋台・車楽等に、錦襴緞子抔のまん幕を打ちはへ、各々其出立華やかに、羅綾の袂錦繍の裔をひるがへし、粧巍々堂々として、善美を盡せり。此日 官府の御沙汰として、神輿通行の御道筋は、横の小路小路は矢来を結ばしめて、往来を禁ぜらる。実に大江戸第一の大祀んしいて、一時の壮麗たり。

薬師堂 同じく御旅所の地にあり。本尊薬師如来は、恵心僧都の作なり。山王権現本地仏たる故に、慈眼大師勧請し給ふといへり。縁日は毎月八日・十二日(正五九月廿日には開帳あり)にして、門前二三町の間、植木の市立てり。別当は医王山智泉院と號す。元は鎧島山と號けしとなり。本尊縁起に曰く、恵心僧都は、其父母大和国高尾寺の薬師仏に祈りて設くる所の霊児なり。僧都仏門に入りて後、法恩を謝せんが為、自ら本尊を彫刻ありて、高尾寺に安置せられしに、遥の後相州大場村に遷し奉りたり。然に慈眼大師東叡山にうつし奉る。此地や大城の東に位し、しかも山王の本地仏たるにより、ここに安置なし奉らるるとなり。

天満宮 同境内にあり。社司諸井氏奉祀す。二月・八月共に、二十五日を祭日とせり。神像は画幅にして、寛永年間柳営に奉仕の春日局、大樹より拝受せられしを、山王の神主日吉右京進へ附与あり。其後諸井氏請ひ得て、ここに勧請なし奉るとなり。(略)」

 

なるほど……なお、「智泉院」は、神社のすぐ裏手に現在もあるようです……下調べしないもので……。

 

◯こちら===>>>

「日枝神社」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑赤坂の「日枝神社」は、何度か参拝しています(その都度御朱印をいただいてはいないので、結構前の記事です)。

 

◯こちら===>>>

「日吉大社」(滋賀県大津市)(その1)〜滋賀巡り(再) - べにーのGinger Booker Club

 

↑「日吉大社」の記事はこちら(いくつか続いております)。

 

往時とは異なり、日本橋付近にひっそり、という感じですが、狛犬ハンター的には見逃せない神社ではないかと思います。
東京駅からぶらっと歩いていけますので、時間があまりないときにはおすすめです(?)。

 

というわけで、日本橋界隈短時間でぶらぶら御朱印ゲットの旅でございます〜。

「明智城跡」「太元神社」「天龍寺」(岐阜県可児市)

11/10。
本日は、可児市で行われておりました、「全国山城サミット」へ出かけてきましたよ(注:一昨年の気分で書いています)。

 

◯こちら===>>>

akechimitsuhide.com

 

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いやぁ……二年前……山城の熱気はすさまじく、『麒麟がくる』放送前だったにも関わらず非常に盛り上がっていたように思います。
初心者の私は、ちらちらとブースを眺めて……遠い山城に思いを馳せながら、実際の山城に行きましょうか、ということで、明智城跡」を目指しました。
ええと……どこかの駐車場からぼちぼち歩いたかな……あ、花フェスタ記念公園の駐車場か……。
道中、素敵な感じの神社を発見。
明智城跡」目当ての方は、ちょっとスルーな感じでした、太元神社」

 

◯こちら===>>>

www.gifu-jinjacho.jp

 

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社標。

 

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鳥居。

 

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太元神社 
一、御祭神 国常立尊 応神天皇
一、由緒(沿革)
当地に住み始めた古代の人々は東方に見える奥山の上に大県大明神を祀り、産土神として崇めました。平安時代中頃には京都の石清水八幡宮の御分霊を迎えて一緒にお祀りしました。更に室町時代の後期には国常立尊を合祀し、神社の名も太元宮と改め御祭神は頭記の二座としました。太元神社と改称されましたのは明治維新以後のことであります。国常立尊天地開闢の一番初めに現れ給える神でこの世の大もとの神様です。国や部落やそこに住む人々がいつまでもしっかり立って発展してゆくようにお守りくださる、神徳広大な神威です。応神天皇は八幡さまとして広く親しまれあらたかな御神徳をもって学問の成就・交通安全・産業の発展・安産・厄除開運等をお守りくださいます。」

 

なるほど……「太元」といった書き方が、若干の陰陽道っぽさを感じます。

 

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社殿を向かって左側から。

 

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瓦に鳩……そうか、「八幡」さまか……。

 

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太元神社奥之院
(略)
一、由緒沿革
遠い昔この土地の人々は信仰心厚くこの奥山の上にお宮を建て地主神やその祖神を祀り、大県大明神と呼んでいました。
千年程前当地が明智荘の中の一村として京都の石清水八幡宮の御領所(荘園)になりますと、その御分霊を迎えて一緒にお祀りする事になりました。その後室町時代の後期吉田神道の影響を受けて国常立尊を祀る事になりました。国常立尊は地主神や大県大明神と神格が似ていますので、御祭神を国常立尊八幡大神応神天皇)の二座とし、社名も太元宮と改めました。太元神社となたのは明治維新以後です。(略)現在は東屋敷の太元神社を本社としここを奥之院として奉斎しております。」

 

……肝心の奥之院がどれだったのか覚えていないという……。

 

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こちら、お「稲荷」さん。

 

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社殿を向かって右側から。
いいお天気でした……一間社流造、かな。

 

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狛犬さん。

 

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尻尾にかまきり。

 

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なかなか造作がよかったのでたくさん写真を撮りました。

 

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手水……じゃないか、池か。

 

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拝殿を正面から。
瓦屋根なので、寺か神社かわかりませんが、江戸時代は瓦屋根の神社が多かった、と思います。

 

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で、つらつらと移動しまして、「明智城跡」の近くにありました、「若宮神社」。
いくつか山城を見てきて、域内といいますか、近くに神社があることが多いことに気づきました。
実際、当時は、城主の守護仏やら守護神やらを、近くに祀ることが多かったのではないか、と思います。
それが城の外に出されて、城が放棄されても寺や神社は残ったりしていますよね。

 

では、メインイベントの「明智城跡」です。

 

◯こちら===>>>

kani-sengoku.jp

 

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「山城サミット」開催中だけあって、人が多かったです。

 

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入り口、「大手門」。

 

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なんか、陽が当たっていたもので。

 

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いい天気だったなぁ……。

 

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途中、かなり端折っていますが、結構登りました。

 

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石碑。

 

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明智城之記
美濃国諸旧記」によると、土岐頼兼が康永元年(一三四二)にこの地に城を築き、以後二百余年に渡って明智氏の居城であったとされる。
当時の城郭には、天守等の派手な建物はなく、周囲に土塁などを廻らしたものが多いが、本城にはそれらの遺構がほとんど残されていない。
同書によると、明智城は弘治二年(一五五六)斎藤義龍に攻略され、明智氏は落城とともに滅んだとされる。一族のうち、明智光秀は一門の再起を期してここから脱出、諸国流浪後、織田信長に仕えて、その重鎮となるなど、天賦の才を発揮した。
明智光秀は、本能寺の変において主の信長を討ったことにより、長く逆臣の代名詞とされてきた。しかし近年においては、優れた政治手腕と軍事能力で織田政権を支えた武将として、その人物像の再評価が進んでいる。」

 

令和元年に建てられてますな、これ……三ヶ月前……『麒麟がくる』に備えて、でしょうね……まさかコロナがきちゃうとは誰も思わないわけで……。

 

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これは、展望台が設置されていたところからの風景です……多分。
結構高いんです。

 

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「搦手曲輪」の跡、のようです。
ううむ、妄想ができない……まだまだだな……。

 

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「西出丸」の跡。

 

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こちら、裏手に回っての風景。
やはり、なかなかの絶景です。

 

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「馬防柵」が再現されていました。
この高さを考えると、馬は上がってこられないんじゃないかと思ったり。

 

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ずらっと柵。

 

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「逆茂木」……なんだろう……記憶が……。

 

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「七ツ塚」というからには、お墓なのだと思いますが……案内板がほしい……もっともっと宣伝できる要素があるのにもったいない……まあ、ニッチなニーズですが。

 

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……盛り上がりにかける、山城の旅でした……構造物がないと、妄想ができない残念な脳みそなので……申し訳ない……。

 

そして、帰り際に寄ったのが天龍寺

 

◯こちら===>>>

akechimitsuhide.com

 

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いきなり、墓所です。
明智氏歴代之墓所」ということです。
ぎゅっとされちゃった感じが……。

 

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全景。

 

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天龍寺 山号 青雲山
天龍寺永平寺を本山とする曹洞宗のお寺で、「聖観世音菩薩」を本尊としています。このお寺は寛永2年(1625年)武儀郡下有知村(現関市)龍泰寺の末寺として同寺20世鰲山正雪禅師を招請して開山した由緒あるお寺です。
大正12年3月の焼失以前は、本堂、開山堂、明王堂、鐘楼門などを有する堂々とした一大伽藍のお寺でした。本堂は昭和45年10月に落慶、その後庫裏、山門、開山堂、などを再建し現在に至っており、可児新四国36番札所ともなっています。また、明智一族の菩提寺として毎年光秀公の法要が営まれており、本堂には日本一といわれている大きな光秀公の位牌がまつられています。境内の東北部には、日本では3つしかないという北向地蔵がみられます。(略)」

 

「北向地蔵」……見逃したのか、写真に撮れなかったのか……もう少し説明がほしいところです。

 

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遠景。

 

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御城印。

 

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そして、「天龍寺」の御朱印

 

いや、『麒麟がくる』は途中から見たもので、最初の方、「明智城」落城辺りは全くさっぱり……なので、補完する意味では、重野なおき先生の漫画がよいと思うのです。

 

 

 

 

さて……いや、特にないですが、

 

◯こちら===>>>

美濃国諸旧記・濃陽諸士伝記 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑『美濃国諸旧記』はこちらに収録されておりますので、一度ご確認いただくのもよいかと思います。

 

◯こちら===>>>

神社覈録. 下編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

また、『神社覈録』に付録としてくっついている『美濃国神名記』の可児郡の項目には、「正二位大縣明神」とあります。
これが後々、現在の「太元神社」になっていったのだろうと思われますが、何しろその当時の資料が……「大県」は、地方の有力者といった意味合いでしょうから、そこから正体を推理していくのは難しそうです……。
ともかく、私には、構造物を伴わない城跡に対する妄想力が不足していることがわかりましたので、その辺り、ぼちぼちと修行していきたいと思います。

 

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「伊勝八幡宮」(名古屋市昭和区)

さて、いろいろありまして、なかなか更新できずの日々でしたが、再開再開。

11/9です(一昨年の)。
昭和区と聞いてちょっと驚いた場所にあった(千種区だと思い込んでいた)、「伊勝八幡宮に出かけてきました。

 

◯こちら===>>>

www.city.nagoya.jp

 

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北側の参道入り口。

 

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思いの外新しい、本殿と拝殿かな……八幡宮なのに尾張造のイメージなのか……。

 

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牛さん、「伊勝天神」。

 

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狛犬さん。
真新しいですが、朱色は流れてしまっているようです……これはこれで、この時代っぽくてよいですね。

 

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拝殿。
尾張造じゃないですね……。

 

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御祭神として、「正八幡宮」は「品陀和氣命」、「天王社」に「素盞嗚尊」、「白山社」に「菊理姫命」、脇殿……ってあまり聞かない気がしますが、「熊野社」は「五十猛命」、「天神社」は「菅原道真公」。
大集合といった感じですね……「熊野社」で「五十猛命」は、もちろんあるのですが、ちょっと珍しいかも。

 

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「伊勝八幡宮
尾張志』に応神天皇を祭神とするとあり 拝殿の東西に摂社である白山及び熊野大権現が合祀されている
当社には陶製の狛犬一対と一体を蔵している その一対の台座裏に「応永廿五戊戌歳十二月朔日熊野願主浄通」(一四一八)と墨書の寄進銘文があることから狛犬の制作年もその頃のことと推察できる 銘文のある狛犬一対は愛知県有形文化財 もう一体の狛犬名古屋市有形文化財に指定されている」((引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

狛犬ハントをしている身としては、見てみたい……ですが、文化財ですから、ほったらかしにはされていないでしょうからねぇ……難しいかな。

 

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拝殿遠景。
一段上がっています……そうそう、所在地自体が、高台にありますので、神社としての好立地でしょうか。

 

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狛犬さんその2。

 

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こちらの境内社狛犬さんでした。
「山神社」「富士浅間社」、あと一つ、見えませんな……。

 

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忠魂碑。

 

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狛犬さんその3。
こちらはまた真新しい感じです。

 

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南側に出てきました。
左手、赤いコーンの奥が、

 

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「別社 伊副神社」となっております。

 

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「御祭神」は「龗神」と「罔象女神」。
クラオカミ」と「クラミズハ」。

 

延喜式神名帳に記載されているが、鎮座年代は不詳 伊勝八幡宮所蔵の棟札には「伊副神社 天明三年癸卯年春伊勝村神主」と記されている。
江戸時代の絵図等さまざまな記録を調べると伊勝八幡宮正面(現在の前山町三丁目付近)に伊副池(通称イイバ池)が有り小山に社祀られていた 「尾張地名考」に「伊勝は井河津の約なり」と記されており副は「寄り添い助ける分ける」の意がある
伊副大神は生きとし生ける者全てに最も大切な清らかな水を豊富に授け給い又多くの恵みをもたらし給える大神と崇められて来た
その貴い御神徳を称え第六十二回伊勢神宮式年遷宮の良き年に世の中の恒久平和と国や此里の安全弥栄を祈りここに再建した」

なるほど、再建でしたか……式内社にしても、古くに失われたっぽいですね……。

 

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あ、こちらは「伊勝八幡宮」の南側からの参道です。

 

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鳥居……黒い文字が珍しいけれど、石造りだからまあしょうがないか……。

 

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第二の鳥居。
実は、かなり広い境内なのです。

 

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狛犬さんその4。
階段下に鎮座まします。
ひょっこり仔狛犬……蛙っぽいけども……かわいい。

 

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御朱印には、文化財の陶製狛犬の姿がありました〜。

 

さて。

◯こちら===>>>

神社覈録. 上編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

まずは「伊副神社」のことということで、久々の『神社覈録』、409コマです。

 

「伊副神社
伊副は仮字也◯祭神在所詳ならず
考証、集説共に、姓氏録曰、伊福部宿禰尾張連同祖、火明命之後也と云り、当国葉栗郡伊富利部神社同神歟と云り(以下略)」

 

……ふうむ、さっぱりです。
「伊福部」については、

 

◯こちら===>>>

「大神神社」(考々々々) - べにーのGinger Booker Club

「穴師坐兵主神社」「相撲神社」(考々々々々々々) - べにーのGinger Booker Club


↑この辺りで触れておりますがそれはさておき、所在は不明、祭神も不明、ということで、式内社制定の時代ですらどの程度栄えていたのか判然としませんが、古い神だったことは想像に難くありません。

 

◯こちら===>>>

dl.ndl.go.jp

 

こちらもお久しぶりの『特選神名牒』より、168コマ。

 

「伊副神社
(略)
今按昔円融帝の朝郡司藤原元命と云暴悪の吏丈六の地蔵大士を彫せしめ伊副神社の傍に安置すと云事或書にみゑ如意寺由来記に元命伊副宮司に命じて祭りせしを是より毎年正月十五日御宝前に於て流鏑馬を行ふ其後星霜を経て社跡なく廃し終に祭事断絶せり中興地蔵尊の宝前に於て毎年の正月二十四日漁父驛士の輩集ひて的を射給をささげて放生会を執行すとあるを張州府志に是は伊副神社の本地仏なるお故に其祭礼の遺意を修むと云る如く応永二年寺を遷すとき神社も遷てありしを此後社は絶て祭のみ遺れるなるべし其他同郡祐福寺村また春日井郡宇福寺村又愛知郡沓掛村上高根村伊副狭間の若王子と云ひ又相原村のいふかねにます熊野社などいささかの縁語を以ていへる説あれど皆うけがたし」

 

◯こちら===>>>

円融天皇とは - コトバンク


コトバンクによれば、「円融天皇(帝)」というのは、

 

「959-991 平安時代中期,第64代天皇。在位969-984。
天徳3年3月2日生まれ。村上天皇の第5皇子。母は藤原安子(あんし)。同母兄冷泉(れいぜい)天皇の譲位をうけ11歳で即位。藤原氏が政治を牛耳り,在位中は藤原氏内の政権争いに翻弄(ほんろう)された。26歳で譲位して仏門にはいり,円融寺に住した。正暦(しょうりゃく)2年2月12日死去。33歳。墓所は後村上陵(のちのむらかみのみささぎ)(京都市右京区)。諱(いみな)は守平(もりひら)。法名は金剛法。歌集に「円融院御集」。
【格言など】春日野に多くの年はつみつれど老いせぬ物は若菜なりけり(「拾遺和歌集」)」

 

ということで、同じくコトバンクから、

 

◯こちら===>>>

藤原元命とは - コトバンク


「生年:生没年不詳
平安中期の貴族。経臣の子。村上朝(946~967)の蔵人藤原雅材の異母弟,花山朝(984~986)の蔵人藤原惟成の叔父。従四位下。寛和2(986)年,尾張守に任じられて赴任したが,租税調庸の不法な増徴をはじめ,公費の横領,息頼方や一族郎等による狼藉,官物の京宅への運送など,苛斂誅求の限りを尽くしたとして,永延2(988)年11月8日,郡司,百姓らから31カ条にわたる罪状を訴えられた(「尾張国郡司百姓等解文」),悪徳受領の典型。その結果翌永祚1(989)年4月5日の除目で罷免されたが(代わって藤原文信が任命),長徳1(998)年4月,吉田祭の上卿(行事の責任者)が不参のため散位の元命が代わりにこれを勤めており,罷免は当面のトラブルを避けるための糊塗策であったか。もっとも『尾州鳴海地蔵縁起』には,元命は解任されたあと「術ツキテ東寺門ニテ乞食ケルガ,終ニハ飢死タリケリ」とあって,史実ではないが,その暴政ぶりが語りつがれ説話になったことが知られる。<参考文献>阿部猛『尾張国解文の研究』」

 

……やばい、「藤原元命」、(悪名のほうで)有名人だった……そんな人が丈六の「地蔵菩薩」を祀った、というのは、どんな意味があるのでしょう……何か裏があるかもしれないですけれども、「伊副神社」とは直接関係なさそうです。
で、肝心の「伊勝八幡宮」ですが、神社にあった案内板の文章と、↑の歴史散策路のHPからの引用、

 

「古くから伊勝村の氏神様として崇敬される伊勝八幡宮は、熱田神宮とほぼ同じ時代に創建されたと言われています。主祭神は、品陀和気命(ほむだわけのみこと)です。宝物の一つである狛犬は、瀬戸で焼かれた陶製で、底部に応永25年(1418)の墨書きがあることから室町時代のものと推測されます。愛知県指定文化財として、現在は名古屋市博物館に保管されています。
 境内には、千年以上の樹齢を持つ御神木のアベマキ(名古屋市指定保存樹)や、秋に小さな白い花を咲かせるリンボクが自生しています。」

 

……あ、狛犬さんは博物館か、よかったよかった……じゃなくて、「熱田神宮」と同じ時代の創建ということであれば、いっそのことこちらが式内社でもおかしくなさそうですけれど、『尾張名所図会』には掲載されていないようなので、それほど大きくはなかったのか……。
とはいえ、室町時代奉納の狛犬さんが残っているのですから、大切にされてきたのは間違いないようで、地域の宝ですね。

 

「美濃金山城跡」(岐阜県可児市)

11/4。
言ってまいりましてございます、美濃の山城「美濃金山城

 

○こちら===>>>

kani-sengoku.jp

 

なにぶん、一昨年のことか……さっぱり出かけられない時期が続いておりまして、過去の記事を何とか書かねばと思いつつもこちらもなかなか時間が……というわけで、たしか、第一駐車場から出かけたと思います。

 

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まだ紅葉が青かったですね……一昨年は紅葉が遅かったかな……。
駐車場から結構登りました……ええと、天気がよかったからか、トレッキングのみなさんが多くいらっしゃり、写真が少なくなっております。

 

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いきなり、城跡、への階段です。

 

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「三の丸門跡」。
礎石が残っております。

 

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この城跡が珍しい、と話題になっているのは、「破城の痕跡」が残っているから、のようです。

 

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こちら、その痕跡……まだまだ城の知識が足りないので、私にはまだその味がわかりません……。

 

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「古城山払下げ記念碑」。

 

「古城山とはこの山のことで、江戸時代には兼山の地を治めた尾張藩のお留山となって村人の立ち入りが禁止されていました。
明治時代には皇室の御料林になっていたと伝えられ、昭和20年(1945)以降は国有林となりました。(以下略)」

 

なるほど、尾張藩支配下でしたか……。

 

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「虎口」の跡。

 

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明治三十八年の従軍の碑、です。
日露戦争ですか。

 

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「二の丸跡」。
礎石から、過去の幻を想像できない自分が情けない限りでございます。

 

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「大手枡形」。

 

「枡形は、攻め寄せてきた敵の進む勢いを鈍らせるために設けられた正方形の平地である。
普段は、登城する武士たちへの威厳を示すためのもので、ここまで登ってきた武士はここで呼吸を整えながら、本丸へ上るための衣服の乱れなどを整える場でもあった。
犬山市瑞泉寺の表門と裏門は、ここにあった大手門と城門を移したものと伝わっており、ここの大手門の土台石の寸法が全く一致している。」

 

なるほど……これはあれですか、「瑞泉寺」へ行かねばということですか……。

 

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石垣……と、違和感ないコンクリートのベンチ……。

 

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「枡形虎口」。
お、ちょっと、城の様子を妄想できるぞ……。

 

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天守台西南隅石」。
これが算木積か……うん、まだよくわかっていない。

 

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別角度から。
これは破城の跡ではないのかな……。

 

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「本丸跡」。

 

「(略)。
高石垣、建物礎石、豊臣秀吉やその家臣たちが造った城の特徴を語るものです。豊臣秀吉の家臣でもあった森忠政が城主であったことから、この城には天守も存在したと想定されています。
建物が解体され、その材木などを木曽川を下して犬山城建築の材料としたという「兼山城」の伝承も残っています。」

 

なるほど……天守もあり、とは……おっと、森家……。

 

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「美濃金山城 ー興亡の歴史ー
室町末期天文六年(一五三七)斉藤道三の命をうけ、その猶子斉藤大納言正義はこの山頂(標高二七三メートル)に築城、鳥ヶ峰城と称し、中井戸の庄の地名を金山村と改めた。
豪勇無双近隣に武威をふるった斉藤氏も同十七年(一五八四)久々利城主土岐三河守に討たれた。正義時に三十三才。
時移り永禄八年(一五六五)織田信長は東濃経略の拠点として森三左衛門尉可成を封じ、金山城主七万五千石とした。以来森可成・長可・忠政父子三代の居城として戦国波乱の歴史を彩った。すなわち、可成は元亀元年(一五七〇)九月二十日近江宇佐山で浅井朝倉軍と戦い討ち死(四十七才)、これより先長男可隆も四月二十五日朝倉攻めに初陣・敦賀手筒山で討ち死している(十九才)。天正十年(一五八二)三月九日には甲州武田征伐の途中、信長は金山城に一泊している。同年六月二日未明、明智光秀謀反による本能寺の変で信長(四十九才)とともに討ち死した可成三男蘭丸長定(岩村城主五万石十八才)四男坊丸長隆(十七才)五男力丸長氏(十六才)の三兄弟はともに金山城で出生・信長の側近、近習として仕えていた。
二代城主二男長可はことのほか武勇にすぐれ鬼武蔵といわれた。岩村城主五万石も兼ね信州海津城主でもあった。伊勢長島一向一揆征伐、武田征伐等に偉功をたてた。可成寺を創建、城の改築や城下町づくりにも意を用いたが、天正十三年(一五八四)四月九日、長久手の合戦において討ち死(二十七才)、僅々十五年ほどの間に父子六人もの悲報に接した可成室妙向尼の悲嘆のほどが偲ばれる。
三代城主六男忠政金山城で出生、長可の跡目を継ぎ十五才で七万石を領し豊臣秀吉に仕えた。金山城の整備拡充を手がけたが、九州、小田原等に転戦、智略の将と重んぜられた。
慶長五年(一六〇〇)徳川家康の命により、信州海津城(十三万七千五百石)に移封、金山村及び金山城犬山城主石川備前守光吉の領有となる。天守諸櫓等一切をとりこわし木曽川を下して、犬山城郭の増築修覆に使われたという。
忠政は慶長八年(一六〇三)美作国十八万六千五百石に国替えとなり以後十三年かけて津山城を完成、現在の岡山県津山市の基をつくった。
斉藤・森両氏を通じ、在城僅か四十数年であったが戦国動乱の世に名将として武威発揚もめざましい一方で、城郭整備「六斉市」をはじめとする商業振興など城下町づくりにも力をつくした。(略)」

 

なるほど……いや、のぼってくる途中に公園っぽいところがありまして、さかんに「森蘭丸生誕の地」となっていたので……「森蘭丸」ばっか有名になってしまったのは、もちろん「織田信長」の小姓(というのかな、今も)だったからですが、「鬼武蔵」なんて呼ばれたお兄ちゃんの「森長可」もおもしろそうだし、「森忠政」も有能だったっぽいし、森家あなどれず……講談の影響とかもあるんでしょうかね(「森乱丸」が正しい、という話もあるようですが、とりあえず「蘭丸」で)。

 

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天守があった場所からの眺望。
絶景っすな……。

 

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「本丸虎口」。

 

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これはいい石垣だと思う……たぶん……。

 

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「自然岩盤を利用した石垣と集水桝(井戸)跡」。
どれだ……。

 

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これもいい石垣だと思う……角度の問題か。

 

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「石段趾」。
石段を登らないと本丸にはいけなかったわけですね。

 

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さっきみた、「天守台西南隅石」を別角度から。
ここまで、どうやってめぐったのかさっぱりわからない写真になっておりますが、人を避けて撮影してたらこんなになってしまいまして。

 

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これは、確か、「出丸」にあった展望台からの眺望です。

 

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案内図。
ええと、第一駐車場からですね、蘭丸広場のわきをぬけて、物見台も通り過ぎ、まずは本丸跡まで上って、それから出丸に行って、帰ってきましたよ、と。
で、「可児市戦国山城ミュージアム」に行こうとしたんですが、駐車場が空いてなくてね……御城印はいただけませんでしたよ、と。

 

さて、も何もないですが、美濃の山城もこれで三つ目、そろそろ石垣の遺構だけでなく、堀とか礎石とか、そういうものからも妄想ができるようになりたいものですな……。

 

◯こちら===>>>

「苗木城址」(岐阜県中津川市) - べにーのGinger Booker Club

「岩村城趾」(岐阜県恵那市) - べにーのGinger Booker Club