11/10。
本日は、可児市で行われておりました、「全国山城サミット」へ出かけてきましたよ(注:一昨年の気分で書いています)。
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いやぁ……二年前……山城の熱気はすさまじく、『麒麟がくる』放送前だったにも関わらず非常に盛り上がっていたように思います。
初心者の私は、ちらちらとブースを眺めて……遠い山城に思いを馳せながら、実際の山城に行きましょうか、ということで、「明智城跡」を目指しました。
ええと……どこかの駐車場からぼちぼち歩いたかな……あ、花フェスタ記念公園の駐車場か……。
道中、素敵な感じの神社を発見。
「明智城跡」目当ての方は、ちょっとスルーな感じでした、「太元神社」。
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社標。
鳥居。
「太元神社
一、御祭神 国常立尊 応神天皇
一、由緒(沿革)
当地に住み始めた古代の人々は東方に見える奥山の上に大県大明神を祀り、産土神として崇めました。平安時代中頃には京都の石清水八幡宮の御分霊を迎えて一緒にお祀りしました。更に室町時代の後期には国常立尊を合祀し、神社の名も太元宮と改め御祭神は頭記の二座としました。太元神社と改称されましたのは明治維新以後のことであります。国常立尊は天地開闢の一番初めに現れ給える神でこの世の大もとの神様です。国や部落やそこに住む人々がいつまでもしっかり立って発展してゆくようにお守りくださる、神徳広大な神威です。応神天皇は八幡さまとして広く親しまれあらたかな御神徳をもって学問の成就・交通安全・産業の発展・安産・厄除開運等をお守りくださいます。」
なるほど……「太元」といった書き方が、若干の陰陽道っぽさを感じます。
社殿を向かって左側から。
瓦に鳩……そうか、「八幡」さまか……。
「太元神社奥之院
(略)
一、由緒沿革
遠い昔この土地の人々は信仰心厚くこの奥山の上にお宮を建て地主神やその祖神を祀り、大県大明神と呼んでいました。
千年程前当地が明智荘の中の一村として京都の石清水八幡宮の御領所(荘園)になりますと、その御分霊を迎えて一緒にお祀りする事になりました。その後室町時代の後期吉田神道の影響を受けて国常立尊を祀る事になりました。国常立尊は地主神や大県大明神と神格が似ていますので、御祭神を国常立尊と八幡大神(応神天皇)の二座とし、社名も太元宮と改めました。太元神社となたのは明治維新以後です。(略)現在は東屋敷の太元神社を本社としここを奥之院として奉斎しております。」
……肝心の奥之院がどれだったのか覚えていないという……。
こちら、お「稲荷」さん。
社殿を向かって右側から。
いいお天気でした……一間社流造、かな。
狛犬さん。
尻尾にかまきり。
なかなか造作がよかったのでたくさん写真を撮りました。
手水……じゃないか、池か。
拝殿を正面から。
瓦屋根なので、寺か神社かわかりませんが、江戸時代は瓦屋根の神社が多かった、と思います。
で、つらつらと移動しまして、「明智城跡」の近くにありました、「若宮神社」。
いくつか山城を見てきて、域内といいますか、近くに神社があることが多いことに気づきました。
実際、当時は、城主の守護仏やら守護神やらを、近くに祀ることが多かったのではないか、と思います。
それが城の外に出されて、城が放棄されても寺や神社は残ったりしていますよね。
では、メインイベントの「明智城跡」です。
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「山城サミット」開催中だけあって、人が多かったです。
入り口、「大手門」。
なんか、陽が当たっていたもので。
いい天気だったなぁ……。
途中、かなり端折っていますが、結構登りました。
石碑。
「明智城之記
「美濃国諸旧記」によると、土岐頼兼が康永元年(一三四二)にこの地に城を築き、以後二百余年に渡って明智氏の居城であったとされる。
当時の城郭には、天守等の派手な建物はなく、周囲に土塁などを廻らしたものが多いが、本城にはそれらの遺構がほとんど残されていない。
同書によると、明智城は弘治二年(一五五六)斎藤義龍に攻略され、明智氏は落城とともに滅んだとされる。一族のうち、明智光秀は一門の再起を期してここから脱出、諸国流浪後、織田信長に仕えて、その重鎮となるなど、天賦の才を発揮した。
明智光秀は、本能寺の変において主の信長を討ったことにより、長く逆臣の代名詞とされてきた。しかし近年においては、優れた政治手腕と軍事能力で織田政権を支えた武将として、その人物像の再評価が進んでいる。」
令和元年に建てられてますな、これ……三ヶ月前……『麒麟がくる』に備えて、でしょうね……まさかコロナがきちゃうとは誰も思わないわけで……。
これは、展望台が設置されていたところからの風景です……多分。
結構高いんです。
「搦手曲輪」の跡、のようです。
ううむ、妄想ができない……まだまだだな……。
「西出丸」の跡。
こちら、裏手に回っての風景。
やはり、なかなかの絶景です。
「馬防柵」が再現されていました。
この高さを考えると、馬は上がってこられないんじゃないかと思ったり。
ずらっと柵。
「逆茂木」……なんだろう……記憶が……。
「七ツ塚」というからには、お墓なのだと思いますが……案内板がほしい……もっともっと宣伝できる要素があるのにもったいない……まあ、ニッチなニーズですが。
……盛り上がりにかける、山城の旅でした……構造物がないと、妄想ができない残念な脳みそなので……申し訳ない……。
そして、帰り際に寄ったのが「天龍寺」。
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いきなり、墓所です。
「明智氏歴代之墓所」ということです。
ぎゅっとされちゃった感じが……。
全景。
「天龍寺 山号 青雲山
天龍寺は永平寺を本山とする曹洞宗のお寺で、「聖観世音菩薩」を本尊としています。このお寺は寛永2年(1625年)武儀郡下有知村(現関市)龍泰寺の末寺として同寺20世鰲山正雪禅師を招請して開山した由緒あるお寺です。
大正12年3月の焼失以前は、本堂、開山堂、明王堂、鐘楼門などを有する堂々とした一大伽藍のお寺でした。本堂は昭和45年10月に落慶、その後庫裏、山門、開山堂、などを再建し現在に至っており、可児新四国36番札所ともなっています。また、明智一族の菩提寺として毎年光秀公の法要が営まれており、本堂には日本一といわれている大きな光秀公の位牌がまつられています。境内の東北部には、日本では3つしかないという北向地蔵がみられます。(略)」
「北向地蔵」……見逃したのか、写真に撮れなかったのか……もう少し説明がほしいところです。
遠景。
御城印。
いや、『麒麟がくる』は途中から見たもので、最初の方、「明智城」落城辺りは全くさっぱり……なので、補完する意味では、重野なおき先生の漫画がよいと思うのです。
さて……いや、特にないですが、
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美濃国諸旧記・濃陽諸士伝記 - 国立国会図書館デジタルコレクション
↑『美濃国諸旧記』はこちらに収録されておりますので、一度ご確認いただくのもよいかと思います。
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また、『神社覈録』に付録としてくっついている『美濃国神名記』の可児郡の項目には、「正二位大縣明神」とあります。
これが後々、現在の「太元神社」になっていったのだろうと思われますが、何しろその当時の資料が……「大県」は、地方の有力者といった意味合いでしょうから、そこから正体を推理していくのは難しそうです……。
ともかく、私には、構造物を伴わない城跡に対する妄想力が不足していることがわかりましたので、その辺り、ぼちぼちと修行していきたいと思います。