さて。
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国立国会図書館デジタルコレクション - 近江輿地志略 : 校定頭註
↑『近江輿地志略』の続き、行ってみましょう(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
169コマからです。
「[下八王子社]中七社の第四也、所祭天之御中主尊也。【日吉記】曰俗形衣冠、本地虚空蔵、天之御中主尊天神第一是也、明星也。祭礼七社外当社神馬有之。東方石、号天岩船、明神乗之御臨幸也、小走井明星水也云々。(略)臣按ずるに是天之御中主尊を祭り奉るなるべし。【扶桑明月集】【神祇宣令】等に天神七代に或は一神を加へ、又五男三女の事をいへども煩し。夫天之御中主尊と申奉るは我国天地の神を封ずる御名也、天を挙げて以て地を包ぬ、中は即ち天地の中也、主は即主宰の謂也とこしへに高天原にましまして、凡上下大小の神皆此尊の化する所也、八は神道のよみする處、故に八王子の名あり、王子は尊称の謂也。(略)」
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「日吉大社」(滋賀県大津市)(その1)〜滋賀巡り(再) - べにーのGinger Booker Club
今回の「日吉大社」最初の記事で、「八王子社」と書いている社です(現在は「八柱社」)。
『近江輿地志略』の筆者は、「天之御中主神」ということにしておきたかったようです(諸説あります)。
「[夢妙幢社]【日吉記】曰、俗形、妙幢菩薩是也、善夢成就、悪夢消滅、唱之獏食悪夢云々。妙幢菩薩の事【金光明経】に出たり。
[息三郎殿]【日吉記】曰、神功皇后御子也、夷三郎殿各別也云々。息長は神功皇后の姓也、何れの御子なるや考へず。
(略)
[岩瀧社]【日吉記】曰、女形竹生島弁財天是也。按ずるに岩瀧社は蹈韛姫命なり、事代主命の子也、神武天皇の皇后たりといふ。下七社の第五也。【威中記】二十八座主教円法印奉崇之云々。
[田付社]【日吉記】曰、俗形、岩瀧北立之云々。
[悪王子社]【日吉記】曰、童形愛染明王、当社後下八王子辺瑞籬、下八王子鳥居東西瑞籬と。
[船石]下八王子社の東にあり。下八王子初御降臨の地といふ事、下八王子の條下にしるす。
[明星水]船石の南にあり、一名走井ともいふ。(略)
[夷社][三郎殿]【日吉記】曰倶俗形立烏帽子、以上両社東向建之在山末北云々。」
↑この辺りは、見かけた社もあれば、神仏分離でどうにかなっちゃったっぽい社もありでしょうか。
「岩瀧社」は今の「巌滝社」だと思います。
どうして「巌」と「滝」なのか、という疑問があったんですが、「宇佐宮」の御祭神が「田心姫神」ということになっており、これで「宗像三女神」が揃う、ということですね。
『古事記』には、「田心姫」は、「大己貴命」の妻となった、という伝承があるので、「西本宮」のすぐ近くの「宇佐宮」にお祀りしてある、と考えてほしいということでしょうか……。
「[山末社]【日吉記】曰、俗形衣冠、摩利支尊天、琴御館宇志丸神位是也。上古大宮回廊内建社云々。又曰、宇志丸大宮御遷宮奉時御神詠「東より琴の御館にさそはれて此山末にとまる松風」。依此御詠歌、琴御館神位号山末大明神。社者大宮東脇建之、然後大宮御造営時山末社下引之、下八王子西、東向也。然北少引上南向建立也云々。又曰、宇志丸者活魂命後胤当社司始也常陸国鹿島上洛云々。【日吉山王記】曰、号琴御館今山末明神是也。常陸国人也、家有琴一張。宇志丸之身欲求不詳之時、琴絃自鳴敵雖来伺更不便、而有人竊懐悪心欲討宇志丸、而有琴徴不得遂本意、仍以宇志丸之女爲妻、多年之間有男女子其時語妻云、父與夫以何爲重乎、妻答云夫爲重。爰悦云然則可絶琴絃。妻即絶、其時欲討宇志丸。有人告。宇志丸曰我有琴徴更不信、人執而之見。宇志丸見絶絃驚出奔来而住志賀津云々。四月午日経供養、当宇志丸遠忌日所供養也云々。(略)」
↑こちらは「氏神神社」のことのようです。
「琴御館宇志丸」は、元々は、「日吉大社」の伝承でもよくでてきます琵琶湖畔の唐崎の住人で、「大己貴神」を「西本宮」のお祀りした人だとか……この唐崎に神が流れ着いて、地元の民が祀る、という構造がいろいろ重なっていたりするので、一層複雑で起源を探りにくくしているように思います。
要するに、何かが流れ着くらしい、琵琶湖西岸に……。
「[氏永社][王御子社]、同社なり【日吉記】曰、氏永左方始、希遠宿禰神位也、俗形。永澤社同前事云々。(略)」
↑こちらはそのまま「氏永社」で残っています。
「[二宮]上七宮の第二にして小比叡大明神是也。【日吉記】曰、御齢七十有餘、僧形、法服黄被。天神第一国常立尊、薬師華臺菩薩、地主権現、小比叡大明神、天地開闢元神、諸神総大祖神是也。宝殿建立、初琴御館造之。第六面足尊時代当山来到、天竺狗留尊仏、在世波母山小比叡杣鎮座、御詠歌日本開闢以前也「はも山やをひえの杉の獨居は嵐も寒しとふ人もなし」云々
(略)」
↑というわけで、「東本宮」までやってきました。
「【日吉山王新記】曰、【山王神道伝記】云、昔人寿二万歳時、釈尊受迦葉仏譲、住都率天時、是大海聞波浪有梵音。釈尊従浪所留止、来日本国、其波止一蘆浮海上、蘆化爲一島謂之波止土濃、今比叡山下大宮権現垂迹之地是也。其後人寿百歳時、釈尊又自天竺到豊葦原中国時、鵜葺草葺不合命之世也、釈尊到楽々浪帰志賀浦、逢漁翁。翁爲地主。釈尊曰、我此地弘仏法如何、翁答曰我久主此地、自人寿六千歳時、至今見湖水七度変枯爲桑田。若此地爲仏法結界則吾無釣處。釈尊将帰、会薬師善逝自東方来告白、我自人寿二万歳時爲此地主。彼老翁未知有我、我何惜之。今献釈尊宜爲仏法流布之山、相約巳而東西各去。翁者白鬚明神也云々。臣按ずるに所祭国常立尊なるべし。地主神といふも尤也。国は天地なり、常立は開闢より永々に至るまで堅固にして動かざる謂、尊は御事也、国常立は天地万物の霊、一にして対なき神也。(略)面足尊の時より此地に来り給ふといふ事如何。国常立尊は天地同根万物一体の神にて天地の始より天地の終まで常に天地の間に立ち給ふ神なれば地主の神ともいふなるべし。如何ぞ面足尊に至つてこれをいはんや。蓋面足尊は土徳の神なる故に土地の義について面足尊に至つてといふにや。面を陽とし足を陰とす顔面具足にして人の道也。蓋土に至て万物備はる故此時といふにや。又釈尊の鵜葺草葺不合尊の時来り給ふ事如何。日本へ西土仏法の通ぜしは、人皇三十代欽明天皇の御宇也。夫より以前は仏法といふ事も知らざればまして釈尊の御名をしるべき謂れなし。(略)然れば則かやうの事は後世仏法渡る以来両部の神道となしける時よりいひ出せる説なるべしかかる事を一々論せば限あるべからず故に省略す。」
↑伝承が書かれているのですが、「国常立尊」や「面足尊」なんかを持ち出しているのが当時のインテリ層っぽさを醸し出している気がします。
「然れば則かやうの事は後世仏法渡る以来両部の神道となしける時よりいひ出せる説なるべし」
↑と筆者が言うように、すべて神仏習合後の解釈、と考えるのが妥当なところかと思います。
本地垂跡での、日本の神々と仏教諸尊の関係が、寺や神社によって統一されていないんですが、「なぜ、この神とこの仏が結びついたのか」ということからわかるものもあるような気がします……こじつけだったりもしますけどね(「第六天」と「面足尊」なんて、「6(番目)」ってだけの関係っぽいですからね……)。
「(略)【鎮要記】に大宮二宮の号につきて数個の問答をのすれ共、皆浮屠氏附会の説也。或曰く大宮を大比叡と號し、二宮を小比叡と號す。是を以てみれば一二の儀にも通ひ侍るにやと、臣曰く然らず大小は暫く設けたるのみ、国史実録にも比叡神或は小比叡神とばかりのりて、大比叡といふことをのせず。比叡は山の名也故に比叡神といふ。小比叡とは今の波止土濃の社地を小比叡といふ也、唯其地の名によりて名付奉るまで也。小比叡は小槻小津等の小と同じ意にて大小の事に非ず(略)【三代実録】貞観元年正月二十七日甲申奉授小比叡神従五位上といふこと見えたり。同日比叡神に正二位を授けらるることも見え侍れば、当社は地主神にて古よりある處也。大宮は当社より後に鎮座なれども、朝廷よりの崇敬も重し、本社ともいふべきにや、故に大宮の名あり。総て廿一社とはいへども大宮と当社とを本とす。(略)」
↑この辺りも、「大比叡・小比叡」、「大宮・二宮」という呼称の違いから、二つの神社の関係を説明しようとしているようですが(で、ここで解かれているのはこじつけっぽいですが)、共通認識としてはこの「東本宮」のほうが古く、「西本宮」はそのあとで祀られた、ということになりますか。
うーん……妄想するには知識が足らないので、まあ、そんな感じだと思っておいてください。0
「[十禅師社]所祭天津彦々穂瓊々杵尊也。【日吉記】曰、(略)天津彦々穂瓊々杵尊地神第三尊神、延暦二年御影向、同四年七月二十四日於山上御兒形。伝教大師御拝敬、則建宝殿号皇御孫尊。中臣祓明也。御神力現形古今種々事。(略)【神祇宣令】曰、天照大神以三種神器授賜皇孫永爲天璽。彼皇孫者天照大神皇孫、天瓊々杵尊今日吉十禅師是也、私云是一説也。【扶桑明月集】曰、天児屋根尊、私曰是一説也。【日吉社参次第記】云、問如古記者十禅師天児屋根命、是云何、答未勘本據不審記也。如一記云則、天彦彦火々瓊々杵尊是契本記第十禅師名義如前、況吾山則天子本命道場、勧請鎮守亦宗廟帝祖神也。天児屋根命者人臣藤家祖也。三十二神随一故、葦原降臨之陪従是也、粗如引、具見本記亦明、各可披耳云々。又曰【扶桑明月集】曰、十禅師(若僧形童子形)桓武天皇延暦二年天降地主宮前。【神祇宣令】曰、治護宝祚之隆退去蒼生之災、神世当第十代爲受禅即位神故名十禅師神亦名十禅師云々 臣曰く大宮二宮は古昔より所在の神社也。其餘の社は皆延暦年中、伝教勧請の事なれば悉く両部の神社也、故に其家の書記のみのす、神道を以て論ずるに及ばず。(略)」
↑こちらは今の「樹下宮」のことです。
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「日吉大社」(滋賀県大津市)(その2)〜滋賀巡り(再) - べにーのGinger Booker Club
↑今は、御祭神は「鴨玉依姫神」となっています(「大山咋神」の妻)。
「瓊瓊杵尊」「天児屋命」などいろいろ登場しておりますが、結局は、
「伝教勧請の事なれば悉く両部の神社也、故に其家の書記のみのす、神道を以て論ずるに及ばず。」
↑ということにしかならないのかな、と。
「[大行事]中七社の第一也。【日吉山王新記】曰、高皇産霊尊、又曰大行事、此大神天地開闢之時天降云々。同引【神祇宣令】曰、大勅行天位事故曰大行事云々。【日吉記】曰、大行事権現、俗形猿面、弥行事猿行事同也。高皇産霊神猿田彦大士。【中臣祓】神漏岐大行事、神漏美天照大神、以此両神之力集八百萬神皇孫天降云々。 臣按ずるに先にも演説する如く伝教大師の勧請にして本より両部の神道なれば臣が知らざる所、何をかいはむ。然れども其大に違ふ事は少しく言はずんばあるべからず。【日吉新記】には、大行事を高皇産霊とし、【日吉記】には高皇産霊尊猿田彦大士といへり然れば【日吉記】の説は両座とするにや不審し。然れども猿行事同じといふ時は猿田彦なるにや。抑高皇産霊尊は天にあり、萬物を化生する功を発し給ふ、実に国常立尊の同一体也。猿田彦大神は皇孫降臨の時、天八衢に居て天鈿女命にあへる神也。高皇産霊尊とは其違へり如何、猿田彦大士は大神といふを誤れるなるべし。神漏岐は大行事、神漏美は天照大神といふこと非なるべし。【中臣祓】にいへる神漏岐は高皇産霊神をさし、神漏美は神産霊尊を指す也。(略)」
↑こちらは今の「大物忌神社」です。
御祭神は、今は「大年神」ということになっていますが、これが「高皇産霊神」だったあり「猿田彦大神」だったりを持ち出しています。
「【日吉記】曰、大行事権現、俗形猿面、弥行事猿行事同也。高皇産霊神猿田彦大士。」
↑この辺りから、昔からどうやら「猿面」の神だと考えられていたようですが、それがなぜなのかはよくわからない、と。
うーん……まだまだ引用は続きます〜。