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「松尾大社」の参拝を終えまして、手前の道をずいずいっと南に向かっていくと、到着、「月読神社」。
○こちら===>>>
「松尾大社」の境外社となっているんですね。
御祭神はもちろん、「月読尊」。
社殿。
解穢の水。
飲めません。
「御船社」。
割と唐突な感じがあります……確かに桂川は近いですが……。
陰陽石、だそうです。
並んでいるだけでそう呼ばれるのは珍しいかも(普通、割れているだけのものは陰で、棒状のものを陽、とすることが多いのではないかと)。
「聖徳太子社」。
この近辺は、秦氏の影響が強かったようなので、祀られていても不思議ではないかも。
遠景。
山を背に。
「月読神社境内
月読神社は延喜式では名神大社の一つに数えられる神社で、元は壱岐氏によって壱岐島において海上の神として奉斎されたものです。
文献によれば、顕宗三年(四八七)阿閉臣事代が朝鮮半島に遣わされる際に、壱岐で月読尊がよりついて託宣をしたので、これを天皇に奏上して山城国葛野郡歌荒樔田の地に社を創建したとされ、斎衡三年(八五六)に松尾山南麓の現在の地に移ったと伝えます。
境内は、江戸時代に建てられた本殿、拝殿を中心に、御舟社、聖徳太子社などから構成されています。
月読神社が京都へもたらされるにあたっては渡来系氏族、なかでも山城国と深く関係する秦氏が関わった可能性が強く、古代京都の神祇信仰やまた渡来文化を考える上で重要な意味をもつ神社であるといえます。」
おっと、元々は壱岐島にあった、と。
なるほど、それで「御船社」ですか……それならわかる気がします。
石灯籠には、「月読宮」。
鳥居から。
鳥居の外から(斜めっているのはご愛嬌)。
御朱印。
さて。
いつもの『都名所図会』では、「月読神社」は「松尾大社」の摂社の一つとして書かれていました。
いつもの『神社覈録』『特選神名牒』では、基本的には案内文の内容が書かれていました(『日本書紀』と『文徳天皇実録』)。
ちょっと前に、
↑という本を読んでいるのですが、さっぱり思い出せず……。
ちょっと前に、
↑という小説を読んでいるのですがこれも思い出せず……家の中のどこにあるのか、見つからず……そもそも、この本を読んでいたから、「月読神社」まで足を伸ばしたのですけれども……ううむ……。
あんまり妄想もない……「月読神社」の旧地がよくわからないので、なんとも言い難いのですが、壱岐から山城国に遷した(勧請した)という伝承について妄想してみますと、そもそも「顕宗天皇」時代の山城国がどうなっていたのか、そこに遷したと『日本書紀』が記述したことにどんな意味があるのか(実際に遷したかどうか、ではなく)……という辺りを探ってみると面白いのではないかと思います(自分ではやらない)。
太陽と月、をセットとして考えるのは、日本古来のものと言えるのか、あるいは大陸から入ってきた思想が元になっているのか、浅学の身ではわかりかねます……しかし、壱岐に先にあり、そこから遷した、ということであれば、わざわざ山の中に遷したことには何か理由があったのでしょう。
ひょっとすると、「月」という属性はあまり関係なく、「顕宗紀」にあるような加護があったのがたまたま「月」の神だっただけ、かもしれません。
『日本書紀』に書かれるくらいですから、それは印象的な出来事だったのでしょう。
で、「月」の神を遷すのに相応しい場所、というのを考えてみると、対となる「太陽」の神の近くではないか……と単純な私なんかは考えまして、とすると、その頃はそこらじゅうに太陽神がいらっしゃったのではないかと思いつつも、「木嶋坐天照御魂神社」が割と近くにありますね……だからこの辺りになったのではないか、と……。
この感じ、「伊勢神宮」の「内宮」の神のために、御饌津神として「籠神社」から「豊受大神」を勧請した、という伝承とちょっと似ているような気がします(気がするだけです)。
壱岐の「月」の神は、多分航海に関係する神だと思うのですが、何しろ「月読尊」、「夜の食国(おすくに)」を統べる(ことになっているby『古事記』)神ですからね……。
元々の「月」の神の属性に広く穀物神があったかどうかはわかりませんが。
この辺りを交えて妄想すると、楽しくなってきたりしないでしょうか。
というわけで、結構歩いて(相変わらず、何も食べずに歩いていたので)、日もだいぶ傾いたので、ちょっとゆっくりしたいな……と思い、京都の旅は「萬福寺」でしめることにしているので、宇治へ移動します〜(もちろん電車です)。