9/5。
お盆休みがまだ1日残っていますが消化できず。
9月には連休もあるし……。
というわけで、天気がよかったので、比較的近くを攻めることにして、「川原神社」へ。
○こちら===>>>
↑公式HPが閉鎖中だったので、やむなくWikipdiaさん。
飯田街道沿いに鎮座まします。
まず池と、たくさんの亀さんが目に入ります。
旧県社で式内社。
池を左手に見ながらの参道です。
「弁天社」。
しっかり島です、いいですね。
直接参拝することはできないようです……舟があったのかな。
いただいた由緒書きによれば、
「川名弁天社(市杵島姫命)
海上交通・道の守護神、心身ともに美しく、聡明にご守護下さる福の神、金運開運の神、音楽芸術の神、雄弁の神です。
弁才天は、近世になると弁財天となり、福の神、金運、開運の神となりました。」
とのこと。
「川原神社」の社名が昔からだとすれば、この辺りは川原だったのでしょう。
だから、海上交通の守護神としての「市杵島姫命」がお祀りされていたと。
「弁才天」はもともと、インドの川の女神です。
参道右手に太鼓橋。
もともとは小川があったのでしょうか。
「川原神社
摂社 弁天社
うーん、ワンダーランド。
なお、ここに「戸隠社」の賽銭箱があります。
見落としがち。
「戸隠社(天手力男神) 御創建・江戸時代初期
八方塞で暗中模索の時、守護して下さる神です。天照大御神が、天の岩戸にお隠れになった時、天の岩戸をお開きになった力持ちの神様です。」
池の向こうに「戸隠社」。
「川原神社
平安時代初期の年中行事や制度などを記した「延喜式」に載る「愛智郡川原神社」にあたるとされる格式の高い神社で、日神(ひのかみ)、埴山姫命、罔象女命の三神を祀っている。創建年代は明らかでないが、鎮火の神として知られている。
戦災にあい、昭和二八年再建された。
境内に大きな池があって、弁財天を祀っているところから、「川名弁天」の名で知られている。」
これは東側の鳥居。
こちらの鳥居から入ると、「津島社」があります。
これはまた、豪壮な感じですね。
「津島社(建速須佐之男命) 御創建・明治晩年
心身の迷い、疫病、災厄を吹き払って守護して下さる神。病気平癒の神です。」
案外新しい……もともとの「牛頭天王社」から「津島社」になった、ということでしょうか。
木製の鳥居と、蕃塀。
何年か前にもきたのですが、こんなに広かったっけ……。
消失にあい、再建された社殿がまた立派です。
「川原神社は飯田街道沿に有り、日神、埴山姫神、罔象女神の三柱の神様をお祀りしています。
御創建は、不詳ですが、平安時代醍醐天皇の延喜五年(905)撰上の『延喜式神名帳』に記載されていますので、今から約千百有余年前既に御創建されたのは明らかです。
又「鶏長六年(1601)に、松平忠吉(徳川家康の四男)が、神領二十石を寄進され、当社崇敬の誠を尽くされ、寛文四年(1664)には、藩主徳川光友は、灌漑用水「猫ヶ洞」完工にあたって、川原神社神池へ溝渠を通じ初穂水を奉り豊作を祈願した」との記録があります。
明治五年(1872)の社格制度により郷社となり、昭和十四年(1937)には県社となりました。しかし社格制度の廃止に伴い現在は等級制度となり、七等級社となりました。
明治五年(1872)五月 郷社に列格
境内(8383.5㎡)弁天池196.6坪(650㎡)
昭和十四年(1937)七月
御本殿、諸殿舎造営(工費十余万円) 県社に昇格
昭和二十年(1945)三月
戦禍(第四二回空襲夜間焦土作戦第二波)にて社務所、手水舍以外消失
昭和二十七年(1952)一月
本殿(43坪)造営(工費金五百余万円)
昭和三十七年(1962)
拝殿改築・境内・・3067坪、氏子数・・4500戸
旧拝殿を稲荷社、龍神社前に移転。
現在両社の拝殿となっています。
平成四年(1992)二月
不慮の火災にて本殿、社務所、社守宅消失
平成十年(1998)六月
本殿再建御造営
(略)
日神は、太陽を司る神として農作物を産し、衣食住を満たすなど天地自然の生成に無限の恩恵を賜わる神です。
(略)
埴山姫神は、祭器とする陶器を作る材料としての神聖な土の神であり、大地を司る神です。大地もまた生きとし生けるものに無限の生育を賜わる神そのものです。
罔象女神は、水を司る神です。動植物ことごとく水が無くては生きてゆくことはできません。
(略)
「日神」をあえて「天照大御神」としてないんですね。
したら神明社になっちゃうからでしょうか……皇祖神としての「天照大御神」ではなく、あくまで太陽神としての属性が重要だった、と。
「埴山姫神」と「罔象女神」は、『日本書紀』一書では、「伊弉冉尊」が「軻遇突智神」を生んで死にゆくときに生まれた二柱の神、とされています。
「埴山姫神」は、「軻遇突智」との間に「稚産霊神」をもうけています。
このあたりの神話から、「鎮火の神」ということになったのかもしれません。
↑の由緒書にあった、旧拝殿です。
本殿向かって右手にあるのは「川名龍神社」。
御祭神は「高龗神」。
昭和60年に「川名龍神社」「川名稲荷社」ともに再建されたそうです。
同じく、本殿向かって右手にある、「川名稲荷社」。
なかなかお稲荷さんしています(?)。
こじんまりと美しい。
こちら、多分、神楽殿。
末社「川名社」。
「川名社(戦没者四六三柱・神社功労者二柱) 御創建・・昭和二八年
氏子を守護してください神です。川名山の日清・日露戦没者を祀る招魂社と、大池の同戦没者を祀る忠魂社を併せて川名社としました。戦後氏子功労者を併せ祀りました。」
「秋葉社」は「迦具土神」、「山神社」は「大山祇命」(創建明治五年)、「若宮社」は「仁徳天皇」(創建明治五年)。
普通八幡様は「応神天皇」ですが、その御子である「仁徳天皇」だけを祀る場合に「若宮八幡社」という言い方をします。
鳥居ありで特別扱い「猿田彦社」。
昭和三七年創建、だそうです。
「川名天神社」。
立派なのか、そうでないのか。
こちらは昭和五五年の創建です。
境内の様子。
広い……おかしい……記憶だともっとこじんまりとしたところだったのに……。
鳥居近くの大灯篭を。
見づらいんですが、十二支が彫刻されています。
境内の脇から本殿を覗き見るも、写真ではよくわからず……。
さて。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会
↑から引用(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
275コマです。
「川原神社
川名村にあり。鎮座の年月定かならず。[延喜式]に、愛智郡川原神社、[本國帳]に従三位川原天神とある此社なり。今神明社と称す。伊勢國度会郡川原神社と同神なるべし。境内に藤多く、春夏の交は新樹のみどりに打懸りて、鬱々たる森林青紫とをまじふる、実に壮観の一勝地なり。
末社 山神祠・若宮祠・弁財天祠等あり。」
図絵もあります。
「神明社」……あれ、やっぱり「神明社」と呼ばれていたんですね。
末社も、今あるのとあまり変わらない感じです。
うーんむ、あんまり面白くないので、
○こちら===>>>
↑の408コマから。
「川原神社
川原は加波良と訓べし ○祭神詳ならず ○鳴海庄屋川名村に在す、 集説府志 今神明と称す 府志 張州府志云、今失社伝、中世號嶋寺、今祠廃矣、天和元年黄檗派僧結小庵居之、遂爲仏院、」
……あれ、祭神がわからないことになっています。
「神明社」なら、要するに「伊勢神宮」の分霊ですから、「天照大御神」のはずなのに。
「今失社伝、中世號嶋寺、今祠廃矣、天和元年黄檗派僧結小庵居之、遂爲仏院」……「社伝は失われたが、中世には嶋寺と呼ばれた、その祠も荒廃した、天和元年に黄檗宗の僧侶が庵を結び、仏院となった」、くらいの意味でしょうか。
「嶋寺」と呼ばれたのが本当なら、当時から「弁財天」はいたのかもしれませんね。
○こちら===>>>
↑の169コマでは、
「川原神社
祭神 天照大御神
彌都波能賣神 埴夜須毘賣神
(略)
社格 郷社
所在 鳴海庄川名村(愛知郡御器所村大字廣路)
今按この社の所在は神名帳考證本国帳集説等同説にて更に疑もなきを同郡鳴海駅八幡社の元文四年釣燈籠また明和五年神輿の幕寛政七年の棟札等に河原神社とあるを證として八幡即川原神社なりと云説あれど其社家の弘治天正の古證文に正しく八幡宮とのみあれば元文以来のもののみにては證としがたし故今とらず」
「鳴海八幡」が「川原神社」じゃないのか、という説が書かれています。
実際のところよくわからないんですが、末社に「若宮」があるところから考えると、かつては「八幡社」だった、という可能性も否定しきれません。
『尾張名所図会』にあった、「伊勢國度会郡川原神社と同神」というのが気になったので、『神社覈録』から拾ってみました。
327コマに、
「川原神社 (略) ○祭神月讀神御玉 ○沼木郷佐八村に在す 神名略記 ○式四、 伊勢大神宮 大神宮所摂廿四座の第廿四に載す、 ○儀式帳云、称月讀神御玉、形無、倭姫内親王定祝、」
また、328コマに、
「川原神社 (略) ○祭神川神、水神、神名秘■ (略) ○式四、伊勢大神宮 度会宮所摂十六座の第十一に載す
速胤云、式内小の社にて、大社とあるは当社と近江國栗太郡小槻大社のみ也、当社は上に川原神社あり、小槻大社も同郡に小槻神社あり、共に同称を分むためかくいふにて、大社といふに深き心あるに非ずと知るべし、」
とありまして……いえ、どちらも度会郡にあるはずなんですが、327コマの方は「皇大神宮」の摂社、328コマの方は「豊受大神宮」の摂社、ということになっているようです。
でもまあ、327コマのほうだと御祭神が、「○祭神月讀神御玉」、で真逆なので、328コマのほうだと思います。
328コマは「川原大社」と書かれていることもあるようですが、このように「川原神社覈録」が二つあるので、区別するためだけにそう書くのだ、ということのようです。
……怪しいけどね。
さて、尾張の延喜式式内社といえば、『尾張神社考』(津田正生著、原題『尾張神名帳集説本之訂考、ブックショップ「マイタウン」発行)ですので、こちらからも引用を。
「従三位河原天神 [近藤利昌曰]上中村天神はその俤なるべし。村落より東三町許に在 集説に川名村神明といふは誤れるべし [里老曰]此村むかしは草津川と高須賀川との間に挟れたり。故に中村と号く 萱津川は後世東宿の西にかはる高須賀川も今の川にあらず [和名抄]愛智郡中村郷。
[附言]名古屋袋町條本町西の閑所福性院 真言宗 は蜂須賀村蓮花寺の末寺にて中村より御治国の後今の地へ引超たる寺也。此寺に出世天神といふ祠ありて、竝に中村より遷したる祠也といふ。然れば中村天神歟といへり。 [一人曰]予出世天神の神像を拝見に束帯して側に刀掛に太刀を架たり。出世天神といひ、太刀掛といひ、かたがたおもふに、是は豊臣秀吉公を齊ひて然申つたへたるならむといへり。なお訂爲べし。」
……わかるようなわからないような。
『尾張神名帳集説』を書いたのは、博覧狂記・天野信景なんですが、そこに「河原天神は、川名村神明と書いてあるが、そりゃ間違いだよ」と津田正生は言っているわけですね。
式内社としての「川原神社」と、川名村にある神明社=今の「川原神社」は違っているはずだ、と。
わかりません(お手上げ)。
せめて、もうちょっと妄想に足るくらいの資料があればいいんですが……。
図書館とか探ったら、出てくるのかなぁ……。
ともかく、ワンダーランドでした。
いや、身近にこんな神社があるのは、なんだかありがたい話です。
あんまり書きませんでしたが、池にいるたくさんの亀、いっときはミドリガメが増えたそうですが、今は相当数が駆除されたとか。
ミドリガメ(ミシシッピーアカミミガメ)も好きでやってきたわけではなかろうに……と、昔ミドリガメを飼っていた身からすれば、ちょっと切ない話でした。
尾張はまだまだ奥深い。
御朱印にも亀。
(※2015/12/8追記)
他の神社を調べていたら、こんなのが見つかったので引用。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 5 愛知郡
2コマです。
「川原神社
川名村に坐今は神明と申す社説に埴山媛命を祭るといへり延喜神名式に愛智郡川原神社本国帳に同郡従三位川原天神 一古本に河原とす とある是なり此社地の東より北の方に■は上古は大河なりけむ形勢見えて田地殊に卑く今も名を川原といへり其大河のあせて残れるならむとおほしきを今は川名川といふ これ石川といふなる川上なり 当社はその河原といふ所に■たれは川原といふ地名混ふへからぬ神社也社号は地名の川原なるに村名を川名といふ事は延喜式鎮火祭の祝詞に神伊佐奈伎伊佐奈美乃命妹背二柱嫁継給氐國能八十國嶋能八十嶋乎生給比八百萬ノ神等乎生給比氐麻奈弟子爾火結ノ神生給氐美保止被焼氐石隠坐氐云々吾名妋命能所知食上津國爾心悪子乎生置氐来奴止宣氐返坐氐更生子水神匏川菜埴山姫四種物乎生給氐此能心悪子乃心荒比曾波水神匏埴山姫川菜乎持氐鎮奉禮止事教悟給支云々と見えたる此川菜より出たるなるへく埴山姫命を祭るといふ社説もこれによしありて聞ゆる伝なりかし摂社に弁才天社あり神主を内藤歓之助と云」
「延喜式」の中の「鎮火祭祝詞」に出てくるところから、「埴山姫命」と「川菜」は関わりがある、だから「川名村」にあって「埴山姫命」を祀っているんだ……というような仮説、のようです。
村の名前が「川名」なのは、「川野辺」なんて言葉から「辺」がとれて……というような、いたって普通の地名なのではないかと思います。
素直に「川名神社」ではいけなかった理由はなんなんでしょう……うーん、「延喜式」の祝詞、全部手に入れたくなりますね……あとは神社名鑑か……神社庁に問い合わせてみないことには。
(※ココマデ 2015/12/8追記)