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言ってまいりましてございます、美濃の山城「美濃金山城」。
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なにぶん、一昨年のことか……さっぱり出かけられない時期が続いておりまして、過去の記事を何とか書かねばと思いつつもこちらもなかなか時間が……というわけで、たしか、第一駐車場から出かけたと思います。
まだ紅葉が青かったですね……一昨年は紅葉が遅かったかな……。
駐車場から結構登りました……ええと、天気がよかったからか、トレッキングのみなさんが多くいらっしゃり、写真が少なくなっております。
いきなり、城跡、への階段です。
「三の丸門跡」。
礎石が残っております。
この城跡が珍しい、と話題になっているのは、「破城の痕跡」が残っているから、のようです。
こちら、その痕跡……まだまだ城の知識が足りないので、私にはまだその味がわかりません……。
「古城山払下げ記念碑」。
「古城山とはこの山のことで、江戸時代には兼山の地を治めた尾張藩のお留山となって村人の立ち入りが禁止されていました。
明治時代には皇室の御料林になっていたと伝えられ、昭和20年(1945)以降は国有林となりました。(以下略)」
「虎口」の跡。
明治三十八年の従軍の碑、です。
日露戦争ですか。
「二の丸跡」。
礎石から、過去の幻を想像できない自分が情けない限りでございます。
「大手枡形」。
「枡形は、攻め寄せてきた敵の進む勢いを鈍らせるために設けられた正方形の平地である。
普段は、登城する武士たちへの威厳を示すためのもので、ここまで登ってきた武士はここで呼吸を整えながら、本丸へ上るための衣服の乱れなどを整える場でもあった。
犬山市瑞泉寺の表門と裏門は、ここにあった大手門と城門を移したものと伝わっており、ここの大手門の土台石の寸法が全く一致している。」
なるほど……これはあれですか、「瑞泉寺」へ行かねばということですか……。
石垣……と、違和感ないコンクリートのベンチ……。
「枡形虎口」。
お、ちょっと、城の様子を妄想できるぞ……。
「天守台西南隅石」。
これが算木積か……うん、まだよくわかっていない。
別角度から。
これは破城の跡ではないのかな……。
「本丸跡」。
「(略)。
高石垣、建物礎石、豊臣秀吉やその家臣たちが造った城の特徴を語るものです。豊臣秀吉の家臣でもあった森忠政が城主であったことから、この城には天守も存在したと想定されています。
建物が解体され、その材木などを木曽川を下して犬山城建築の材料としたという「兼山城」の伝承も残っています。」
なるほど……天守もあり、とは……おっと、森家……。
「美濃金山城 ー興亡の歴史ー
室町末期天文六年(一五三七)斉藤道三の命をうけ、その猶子斉藤大納言正義はこの山頂(標高二七三メートル)に築城、鳥ヶ峰城と称し、中井戸の庄の地名を金山村と改めた。
豪勇無双近隣に武威をふるった斉藤氏も同十七年(一五八四)久々利城主土岐三河守に討たれた。正義時に三十三才。
時移り永禄八年(一五六五)織田信長は東濃経略の拠点として森三左衛門尉可成を封じ、金山城主七万五千石とした。以来森可成・長可・忠政父子三代の居城として戦国波乱の歴史を彩った。すなわち、可成は元亀元年(一五七〇)九月二十日近江宇佐山で浅井朝倉軍と戦い討ち死(四十七才)、これより先長男可隆も四月二十五日朝倉攻めに初陣・敦賀手筒山で討ち死している(十九才)。天正十年(一五八二)三月九日には甲州武田征伐の途中、信長は金山城に一泊している。同年六月二日未明、明智光秀謀反による本能寺の変で信長(四十九才)とともに討ち死した可成三男蘭丸長定(岩村城主五万石十八才)四男坊丸長隆(十七才)五男力丸長氏(十六才)の三兄弟はともに金山城で出生・信長の側近、近習として仕えていた。
二代城主二男長可はことのほか武勇にすぐれ鬼武蔵といわれた。岩村城主五万石も兼ね信州海津城主でもあった。伊勢長島一向一揆征伐、武田征伐等に偉功をたてた。可成寺を創建、城の改築や城下町づくりにも意を用いたが、天正十三年(一五八四)四月九日、長久手の合戦において討ち死(二十七才)、僅々十五年ほどの間に父子六人もの悲報に接した可成室妙向尼の悲嘆のほどが偲ばれる。
三代城主六男忠政金山城で出生、長可の跡目を継ぎ十五才で七万石を領し豊臣秀吉に仕えた。金山城の整備拡充を手がけたが、九州、小田原等に転戦、智略の将と重んぜられた。
慶長五年(一六〇〇)徳川家康の命により、信州海津城(十三万七千五百石)に移封、金山村及び金山城は犬山城主石川備前守光吉の領有となる。天守諸櫓等一切をとりこわし木曽川を下して、犬山城郭の増築修覆に使われたという。
忠政は慶長八年(一六〇三)美作国十八万六千五百石に国替えとなり以後十三年かけて津山城を完成、現在の岡山県津山市の基をつくった。
斉藤・森両氏を通じ、在城僅か四十数年であったが戦国動乱の世に名将として武威発揚もめざましい一方で、城郭整備「六斉市」をはじめとする商業振興など城下町づくりにも力をつくした。(略)」
なるほど……いや、のぼってくる途中に公園っぽいところがありまして、さかんに「森蘭丸生誕の地」となっていたので……「森蘭丸」ばっか有名になってしまったのは、もちろん「織田信長」の小姓(というのかな、今も)だったからですが、「鬼武蔵」なんて呼ばれたお兄ちゃんの「森長可」もおもしろそうだし、「森忠政」も有能だったっぽいし、森家あなどれず……講談の影響とかもあるんでしょうかね(「森乱丸」が正しい、という話もあるようですが、とりあえず「蘭丸」で)。
天守があった場所からの眺望。
絶景っすな……。
「本丸虎口」。
これはいい石垣だと思う……たぶん……。
「自然岩盤を利用した石垣と集水桝(井戸)跡」。
どれだ……。
これもいい石垣だと思う……角度の問題か。
「石段趾」。
石段を登らないと本丸にはいけなかったわけですね。
さっきみた、「天守台西南隅石」を別角度から。
ここまで、どうやってめぐったのかさっぱりわからない写真になっておりますが、人を避けて撮影してたらこんなになってしまいまして。
これは、確か、「出丸」にあった展望台からの眺望です。
案内図。
ええと、第一駐車場からですね、蘭丸広場のわきをぬけて、物見台も通り過ぎ、まずは本丸跡まで上って、それから出丸に行って、帰ってきましたよ、と。
で、「可児市戦国山城ミュージアム」に行こうとしたんですが、駐車場が空いてなくてね……御城印はいただけませんでしたよ、と。
さて、も何もないですが、美濃の山城もこれで三つ目、そろそろ石垣の遺構だけでなく、堀とか礎石とか、そういうものからも妄想ができるようになりたいものですな……。
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