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「根津神社」の参拝を終えて、懐かしいところを巡ってみることに。
というわけで、何年か前にも出かけた、「日枝神社」へ。
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いやぁ、シュールな絵ですね。
ビルの谷間に山王鳥居。
いい天気です。
向かいのビルの窓に写ってみました。
山王鳥居っていいですよね。
「山」と「王」の字が隠れています。
右手にあるのは、エスカレーター。
すごいな天海(いや、天海がすごいわけじゃ……)。
足腰が弱っても参拝出来ます。
結構な丘なんですよね、実際。
赤坂は、名前通りに坂だらけ。
エスカレーターの終点から振り返るとこんな感じ。
神門。
御祭神 大山咋神 相殿 国常立神 伊弉冉神 足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)
御祭神大山咋神は山末之大主神とも称え 古来比叡の山に鎮り京の都の護神として山・水を始め田畑を司り萬物の生成化育を守り給う
由緒
鎌倉の初期 秩父氏の流れ重継は江戸太郎を名乗りその館の中に日吉の大神を勧請した。降って文明年間(1478年ごろ)足利の宰相太田道灌持資が城内に 更に天正十八年徳川家康が入府し江戸城内の紅葉山に新社殿を造営した。
徳川三代家光は一般市民の参拝の便を企るため半蔵門外に遷座 朱印地を六百石に加増 四代家綱の代 万治二年振袖火事のため 永田町溜池に臨む景勝の星ヶ岡に遷座 現在に至る。
歴代の将軍世子の社参絶えることなく 都度 神馬 太刀(国宝)等を献じた(宝物殿に出陳中)
日枝神社の山王まつりは 神田まつりと共に天下祭・御用祭として華麗豪壮 正に天下随一と称えられた。
明治維新 遷都により江戸城は明治天皇皇居(宮城)となり 当神社は皇城の鎮守神として官幣の大社に列した。
(略)」
(※引用にあたって旧字をあらためた箇所有り)
本当に、天海はほとんど関係ない、という書かれ方ですね。
いやお恥ずかしい。
御随身。
これが門をくぐってみると、
お猿さん。
猿は、山王さまの神使です。
「皇城之鎮」。
本殿。
写真のせいなのか、やけにペンキ塗っぽい……。
本殿向って左手にいらっしゃるお猿さま。
賽銭箱の門が何故か「稲」ですが(どこからか持ってきたのでしょう)。
本殿から見た神門。
本殿右手へ進むと末社があります。
「山王稲荷神社 例祭 四月下午の日
祭神 倉稲魂神
稲荷の大神は古来、生成発展・商売繁昌の守り神として全国に祀られ、ここ永田馬場星が岡の地主神として松平主殿頭忠房の邸内に祀られ、特に火伏せの信仰が篤く、万治二年四月本社山王権現が麹町より移遷されるに至り、境内末社となった。」
「八坂神社 例祭 六月七日
日枝大山咋神の祖父神、もと京橋南伝馬町の牛頭天王として、三ヶ町の鎮守で、大伝馬町、小舟町と並び江戸三天王と称された。明治十九年七月、本社猿田彦神社内に相殿神として奉斎された。今に祇園八坂信仰は商業・農業の守護神、病気退散の信仰が篤い。」
「猿田彦神社 例祭 初庚申の日
万治二年、御本社山王権現と共に奉祀されたと伝えられ、御祭神は”道ひらきの神”として、また里俗の説に”山王のお使い”即ち神猿とも言われる。」
「稲荷」なのに「火伏せ」、って何かずれてますな(「秋葉権現」「愛宕権現」はどうした)。
「江戸三天王」の他の二つは、今は「神田明神」にあったりします。
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「里俗の説に”山王のお使い”即ち神猿」ということで、「猿田彦神社」を祀ってしまった……わけではないと思います。
とはいえ、いろんなものを習合させるのが得意な日本人ですので、「猿田彦神」は「道祖神」になり、山王信仰と引っ掛けられ、庚申講の「三猿」にも通じ、何でもありな状態です。
『記紀』の描写を見る限り、どう考えたって「猿」ではないんですが。
天王宮だった頃の名残の石灯籠。
社殿。
鴉は関係ないです。
正面から。
「山王稲荷神社」の本殿は、どうやら「日枝神社」創建時と同時期の建物らしく、一時は「日枝神社の仮本殿」としても用いられたそうです。
もう一度、天王宮の頃の名残の石灯籠。
「山王稲荷神社」「猿田彦神社」の狛犬の来歴が書かれています。
おっと、何と「南伝馬町牛頭天王社」も、文政三年(1820)には神田明神に鎮座していたようです。
明治十八年(1885)に、神田明神附近の火災で天王社が焼失したので、氏子達が「日枝神社」に勧請した、と。
狛犬は、石灯籠等と一緒に、その後移転してきたようです。
燈籠ですが、
気合を入れると、「寛政七年」と読めるのではないか、と。
こっちは何とか、「南伝馬町」。
小舟町と大伝馬町の天王社は神田明神に残ったのに、南伝馬町だけはどうしてこちらに移ったのでしょうね。
……追い出されたの?
ずらり「神輿庫」。
なかなか壮観です。
本殿を裏手から。
境内に戻りまして、再びお猿様。
向って右手のです。
こちらの門は、天王社のものでしょう。
末社の賽銭箱を再利用しているのだと思われます。
本殿正面の降り口。
「御祭神大山咋神は須佐之男神の御孫神で、御父大年神・御母天知迦流美豆比賣神(あめしるかるみづひめのかみ)の御子で山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)とも申し上げる。
比叡(日枝)山麓に鎮まり平安京を守護し給う日吉大社を元宮とし鳴鏑に成りませる神とも申し御神徳は山水を司り萬物の生成化育を守護し給い山王・日吉・日枝の社は全国に三千数百社に及ぶ。
(略)」
簡単に「大山咋神」の解説があったので(他の内容は、前出の由緒書とだいたい同じです)。
帰りにもう一度撮影、山王鳥居。
白く輝いております。
さて、
◯こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸名所図会. 第2
↑の9コマから「日吉山王神社」の記事が掲載されています(引用に当たって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■で置き換える)。
「日吉山王神社
永田馬場にあり。江戸第一の大社にして、別当は天台宗僧正にして、観理院と号す。神主は樹下氏なり。其餘社僧おおよび社家巫女等数多あり。御祭礼は隔年六月十五日なり。その行粧は、初巻茅場町御旅所の條下に詳なり。
本社祭神大宮[比叡の二宮小比叡大明神を勧請す。垂迹は国常立尊にして天地開闢第一の御神なり。薬師如来を本地仏とす。] 二宮[気比宮を勧請す。垂迹は仲哀天皇にして応神天皇の御父なり。聖観世音菩薩を本地仏とす。] 三宮[客人神を勧請す。垂迹は伊弉冉尊にして白山妙理権現なり。十一面観世音菩薩を本地仏とす。江戸名所記に、第三には下の七社の中王子宮、本地は文殊大士なりとあり。]
古鰐口[昔は本社に掛けたりとなり、今は右の方稲荷祠に掛けてあり、径一尺あまりあり、其銘左の如し]
(略)
当社は淳和天皇の天長七年(※830年)庚戌、慈覚大師勅によりて、武蔵国入間郡仙波にある所の、星野山無量寺を再興ありて、圓頓の教法を弘め給ひし頃、仏法王法護持の為、且は和光の利益を普く萬民に蒙らしめんと欲して、我立杣の日吉山王二十一社上中下の内より、一社宛(づつ)を選て、三所の霊神を彼地に勧請し給ひ、かくて星霜を経たり。然るに文明年中、太田道灌此山王三所の御神を、星屋山より江戸に遷し奉る。[其頃の社地は今の梅林坂のあたりにして、菅祠と並びてありしよし大道寺友山翁の説なり。或人云、太田家譜に、文明十年六月十五日於江戸城内建山王権現堂荒神祠菅丞相祠云々。菅祠は今の平川天神の事なり。御国初の頃迄は両社共に御城内にありしを、菅祠は平川口御門の外へ遷され、山王は御城の鎮守として紅葉山に遷座ましましけるなり。]天正よりこのかた、江戸を以て永く御当家御居城の地に定めさせられし頃、紅葉山において新に社を御造営ありて、御産神にあがめ給ふ。その後御城西貝塚の地へ遷され、[其年歴詳ならず 江戸名所記に、後土御門院延徳年中仰の旨ありて道灌結縁の為三所の御社を城西にうつし給ひ再興修造ありと云々。此説未だ考へず。寛永明暦等の江戸国によりて考ふれば、其社の旧地は井伊掃部候の北、今の三宅備後候の第宅の地なり。菊岡沾涼云ふ、山王宮の旧地は三宅備後守殿宅の裏の坂に祠あり、此所元山王の旧地とあるは実にしかり。又事跡合考に云く、井伊掃部頭殿の居館の南、うしろ凡未申の方の小坂の際、巾二間ばかり、長さ十間あまり松杉の少しき繁りたる坂の内に、稲荷の小祠ある除地、是山王一度半蔵御門外にうつされし古跡の由緒と云々。]
又承応三年甲午、回禄の後、溜池の築山勝地たるにより、竟に台命あつて、いまの地へ遷座なし奉り、宮社御造営ありしより、江府第一の宮居となれり。[名勝志に云く、明暦丁酉の歳回禄によつて承応三年当社を貝塚より今の地へ遷し奉るとあれども、承応は明暦より先の年号なれば、此説證とするにたらず。或人云ふ、万治元年今の地にうつると云々。]金殿玉楼は天に輝き、画棟朱簾は地に映ぜり。[名勝志に此地は元松平主殿殿第宅の地なりとあり。]しかありしより己降、和光同塵の利益浅からず、内には円宗の教法を守り、外には鎮国利民の徳を施し給ふ。殊更、御当家の御産土神として御崇敬最も厚く、天下泰平、国家安鎮の御祈祷、永世に怠る事なし。」
図絵もあるのですが、↑のは見づらいので、
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国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸名所図会 7巻. [7]
↑の8コマの図絵が綺麗で見やすいです。
図絵では、薬師堂、観音堂、不動堂の他に、右奥に「稲荷」、薬師堂の手前に「庚申」の文字が見えます。
現代のものと重ねて見ると、「稲荷」と「庚申」は、「山王稲荷神社」と「猿田彦神社」に引き継がれているのかもしれません(「天王社」は後付けですから)。
何度か言及されている、
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国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸叢書 : 12巻. 卷の貳
↑『江戸名所記』ではどうなっているのかというと(70コマ)、
「永田馬場山王権現
江府の山王権現は、叡山第二代の座主慈覚大師の開基也。これすなhち日域守護の神として、和光同塵の利やくあさからず、内には円宗の教法をまもり、外には鎮国利民の徳をほどこし賜ふこと、さらに当家の御産土神として、武威の鎮守とあがめまつり賜ふ、しかるに慈覚大師、弘法弘通のために、武蔵国川越にいたりて、今の星野山をひらきそめて、圓頓の教法をひろめ賜ふとき、かつうは仏法ながくつたへんがため、且は和光の利やくをあまねく、東国のあひだにほどこさんがためにとて、比ゑいざんの山王権現、上の七社、中の七社、下の七社のうち、おのおの一社ずつを抜いで、三所の霊神をかの地に勧請し賜ひけり、かくて星霜をかさね、後花園院の御宇長禄三年に、太田道灌すでに文武両道の才知をもつて、天下長久の勝利をかんがみ、この江府の城を築おはりて、文明年中にはじめて、此山王三所の御神を星野山より城内に勧請し奉りて、当城の産土神とあがめらる、しかりしよりこのかた天下一統して四海おだやかなり、抑当社三所権現と申すは、第一に上の七社のうち、二の宮の権現本地薬師如来、東方浄瑠璃世界の教主也、十二願の惣勅はひろく一切衆生の望みをかなへ、衆病悉除の別意はあまねく、参詣のともがらをすくひ賜ふ、第二は中七社のうち気比の宮、本地はすなはち聖観音なり、七難三毒の春の霞は、十九せつぼうの風にきえ、三十三身の秋の月は、二求両頭の空にかがやく、濁世末代の能化除災與樂の薩埵なり、第三には下の七社のうち王子の宮、本地はすなはち文殊大士なり、三世覚母の智剣は、三障四魔の軍をやぶり、濁歩無為の妙用は四徳三昧の光りをほどこし賜ふ、ここをもつて国家豊饒のことぶき、理世安民の唱は近くは関東八州のちまたにみち、遠くは五畿七道の末にいたれり、後土御門院延徳年中に仰せのむねありて、道俗結縁のため三所の御やしろを、山の手の城の西にうつし賜ひて、再興修造あり、その奇麗なる事、善つくし美つくせり、又承応三年回禄の後、いまの溜池の築山無双の勝地たるによりて、上命をかうふりて、このところにうつし奉る、月日いくばくならずして、造営の功をたてらる、金殿玉楼天にかがやき、画棟朱簾地に映ぜり、神事は六月十四日なり、江戸中の大神事として、諸大名がたは産土神にておはしませばをろそかならず、いづれももてはやし賜ふ、まことに大造の神まつりとなればとて、隔年にとりおこなはる。
ねり物にさはらはひやせ山王のまつりはひえの山の手の宮」
……『江戸名所図会」は、こちらからかなり引用していますね。
それにしても。どちらも「秩父重継」さんのことにはまったく触れず。
何か理由があるんでしょうか。
「比叡山」の「上中下二十一社」については、いつか「比叡山」を訪れたときに……(いつだ?)。
「回禄」というのは、大陸の火の神のことで、転じて「火事」のことのようです。
「和光同塵」は、自分の才覚を隠して、巷にまぎれて暮らすこと、らしいです(意訳)。
「江府第一の社」というわりには、何となく扱いが微妙な気がしますが……当時は寺の方が勢力があったからでしょうか。
ともかく、太田道灌以来の山王信仰が、後に「南光坊天海」の活躍する土壌を作ったと言えるかもしれません……し言えないかもしれません。
さてさて。
お猿様について、公式HPでは、
「当社の神使は古来、猿(申)といわれ、神門及び向拝下に夫婦猿の像が安置されています。
神使とは神の使いの意で、主神の顕現に先だって現れ、主神の意を知る兆しとしてその行動を見ますがその多くはその神に縁故のある動物です。大山咋神は、山を主宰(うしは)き給う御神徳を持った神であり、この猿と比叡の山の神としての信仰とが結びついて山王の神使「御神猿」として信仰されるようになりました。
猿は古くから魔が去る「まさる」と呼ばれ、厄除・魔除の信仰を受け又農業の守護神とする信仰が強く、俗に「さるまさる」といわれ、繁殖の獣として人々に愛され、犬と共に分娩の軽き 安産の神として信仰されます。猿は集団生活をして特に子供への愛情が強く、母猿はどの子猿にも乳を与えるという性質があるといわれ、その姿が当社の神猿像に表されており、夫婦円満・安産・家門繁栄の徳を称え安産・子育・厄除のお守りとして参拝者に神猿(まさる)の守土鈴、他に縁(猿)結びのお守りが授与されています。
(略)
また、末社の庚申(こうしん)社の祭神、猿田彦神社も山王の本社に由縁深き神社です。」
と書かれています。
また、
↑という雑学本には、「「日の出を迎えるように鳴き騒ぐ猿」は「太陽神」として考えられていたのではないか」、とあります。
また、『日本書紀』の「皇極紀」には、「サルのうめくような声を聞いた人々が『伊勢大神』のお使いです』といった」とあるそうです(岩波の『日本書紀』の四巻だけが手元に無いので確認できません……)。
うーん、なるほど……「伊勢大神」というのは、当たり前に考えれば「天照大神」で、太陽神ですが、あの辺りには「天照大神」より前から太陽神がいた、という説があります。
その候補の一柱として、「猿田彦神」がいらっしゃいます。
「猿」が「太陽神」と考えられていたとすれば、名前に「猿」が使われたことも理解できるような気がします。
外見は全く「猿」ではないですからね(属性としての名前)。
「山王一実神道」については勉強しないと、と思ってはいるのですがなかなか……。
とにかく、「山王」さまは、
「山王鳥居」のかっこよさ
につきる、と思います(罰当)。
いや、それにしても天気がいいし、わりと暑い……まだまだ歩きますけども。