べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「赤坂氷川神社」

9/14。

日枝神社」を堪能して、そのまま徒歩で行けるところへ。

赤坂ブリッツ(というかTBS)を右手に見ながら、左手へ。

氷川坂方面から、赤坂氷川神社に入ります。

 

◯こちら===>>>


赤坂氷川神社

 

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逆光……。

 

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石柱の文字も読めないくらいな盛りっぷり。

 

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赤い提灯(赤提灯ではない)が下がっており、お祭りの準備がされているのでしょうか。

 

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逆光……。

 

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気を取り直して。

赤坂、六本木に近いのに、これだけの森が残っているのが驚きです。

この時期、ちょうど代々木公園でデング熱感染が話題になっていたので、薮には入らないように気をつけていました。

 

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「苗村翁頌徳碑」。

明治から大正にかけての氏子総代苗村又右衛門氏が、神社再興に尽力されたことを顕彰したものです。

地元の名士だったようで、区会議員、府会議員も勤めた、と(書いてある気がします)。

 

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階段の上にも連なる提灯。

暗がりに映えます。

 

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もう逆光はいいよ……。

 

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だからもう……。

 

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本殿前。

 

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氷川神社社殿

この社殿は、本殿・幣殿・拝殿の三つの建物が一体となった、いわゆる権現造の形式です。

江戸幕府の第八代将軍である徳川吉宗によって享保十五年(1730)に建てられました。吉宗は『享保の改革』と呼ばれる倹約政策をとったことで有名で、社殿にも当時の質実簡素な気風を見ることが出来ます。通常は将軍の寄進するような社寺であれば、軒下の組物を何重にも重ねたり、彫刻や彩色などで飾り立てたりするのですが、この社殿の組物は簡素で、彫刻も目立ちません。しかしただ質素なだけではなく、大きな雲形組物や吹寄せ垂木など軽快な意匠を取り入れる工夫も見られます。また全体は朱漆塗としながら、部分的には黒塗漆や黒色金具を用いることで引き締まった印象となっています。」

 

構造物は好きなのですが、専門用語がまるでわからない私……。

せめて、神社建築の基礎だけでも勉強したいと思っています。

なかなか手が回りませんが。

 

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拝殿。

幡があるということで、実際にお祭り中でした。

どうりで参拝者が多かったはずです(そういえば出店が出ていたような……)。

 

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屋根が非常に私好みの色なんですが、銅なんでしょうか。

 

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本殿を左手に行き廻廊をくぐると、小さなお稲荷様がありました。

 

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額堂には、月岡芳年作の「『ま』組火消し絵馬」が納められているそうです。

 

他にも石灯籠や、九神社、大銀杏など見所があるのですが、何しろお祭りで人も多かったので、御朱印をいただいて立ち去ることに。

 

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帰りは、行きに登った階段の脇にある、別ルートで。

 

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風情があります。

外国の旅行者が、この辺りの石段でしゃがんで黄昏れていました。

絵になるな、と思いながら、もちろん写真はとりませんでした。

 

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下りた先にあるのが、「西行稲荷」。

 

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正一位西行稲荷縁起

文政(1816〜1830)年間、町方書上の赤坂田町四丁目より録写したところによれば、町内自身番屋敷地内に古来からあった祠堂で本社は六尺に七尺五寸、拝殿二間四方で前方に三尺に六尺の向拝がありました。

勧請の由来は、年代不詳(享保年間ともいう)、田町五丁目に西行五兵衛と異名をもつ男あり、榎坂を通行中、甲冑を帯し弓箭を携え、狐の形をしている三寸ほどの鉄像をひろいとったが、稲荷の御神体らしいと云ふので、これを勧請し、五兵衛の異名を以って西行稲荷と唱えられました。

明治以後、町の発展に伴い、大正十年(1921)九月氷川神社境内に移し、別名「火伏せの稲荷」ともいい、火災除の御神徳があると称されております。」

 

……なんだ、西行法師とは関係ないのか。 

根津神社」のときにちらと上げましたが、お上の命令で、各町や神社仏閣の由来等をまとめた「書上」という文書があります(町の場合は「町方書上」)。

そこに上げられていた由来が↑のようです。

「自身番」というのは、

 

◯こちら===>>>

自身番(じしんばん)とは - コトバンク

 

によれば、

 

「番屋ともいう。江戸時代、市中を警戒するために設けられた番所。町内の雑務を処理したり,火の番にあたったりした。初めは家主または地主らが番組を決めて交代でつとめたので,この名で呼ばれたが,のちには番人を雇うようになった。」

 

だそうです。

時代劇を見ていると、ときどき出てきます(最近じゃ、そんな時代劇もないですか……)。

 

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お狐様は、本当に穴、岩穴がお好きで。

品川神社」や「石浜神社」でもそんな感じでした。

 

◯こちら===>>>

品川神社 - べにーのGinger Booker Club

「石浜神社」(浅草名所七福神) - べにーのGinger Booker Club

 

「天の岩戸」に籠ったのは、実はお狐様なんじゃないか、と思ってしまいそうですね。

野趣に富んでいて、とても好きです。

怖いのは「天狗熱」……じゃない「デング熱」なので、あんまり長居していません。

 

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朽ちかけた祠。

 

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突然「布袋」様。

 

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手水鉢。

この神紋は……すいません、神紋までは手が出ません(手が出ないことばっかりだなぁ……やだやだ)。

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こちらは「四合稲荷」。

 

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「四合稲荷神社

・御祭神 宇迦之御魂神—食物の神、殊に稲の神

・御縁起

(1)古呂故稲荷(赤坂一ツ木二番地、古呂故天神社境内に鎮座)

(2)地頭稲荷(氷川神社遷座以前より拠の地に鎮座)

(3)本氷川稲荷(本氷川神社隣接、別当盛徳寺の地内に鎮座)

(4)玉川稲荷(赤坂門外の御堀端、現弁慶橋のあたりに鎮座)

以上、四社を明治三十一年、遷座合祀し、赤坂在住の勝海舟により『四合(しあわせ)稲荷』と称えられる。

大正十四年に、鈴降稲荷神社(赤坂一ツ木町に鎮座)及び、縁起稲荷神社(赤坂丹後坂下に鎮座)二柱を、また昭和九年に、明徳稲荷神社(赤坂新町に鎮座)を、遷座合祀し、現在に至る。

勝海舟翁筆の「四合稲荷社」という扁額が、現存する。

・附記

古呂故稲荷神社は、古呂故天神社境内、氷川神社旧社地(氷川御旅所)に祀られていた稲荷社であって、明治十七年、氷川旧社地を売却した際、現氷川神社境内へ遷座、のちに四合稲荷に合祀された。

地頭稲荷神社は、享保年間、現氷川神社遷座以前より祀られていた稲荷社である。

本氷川稲荷神社は、本氷川神社(昔は溜池付近にあり、のち承応三年に、現氷川神社の隣地へ遷座、今井の総鎮守として、住民から尊崇を受けていた)境内の稲荷社で、本氷川神社と共に明治十六年、現氷川神社境内に遷座、のちに四合稲荷に合祀された。

玉川稲荷神社は、水道方玉川庄右衛門の邸内社だったとする説もあるが、御神体が玉川上水に流れ来た故に、玉川稲荷と称したものと推定される。明治二十一年、現氷川神社境内に遷座、のちに四合稲荷に合祀された。」

 

「赤坂在住の勝海舟翁」とは、久々に大物登場、という感じです。

『氷川清話』ってありましたね。

 

氷川清話 (講談社学術文庫)

氷川清話 (講談社学術文庫)

 

 

幕末を少し調べたことがあるのですが、明治になってからのことはあまり知らないんですよね。

私にとっての勝海舟は、「いつも検討はずれのことを言って推理を間違える、捕物帳の間抜けなご隠居」です(何のことかって?)。

 

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鳥居をくぐったあたりにある橋。

岩山を登ったりできます。

こちらも「デング熱」怖さに近づきませんでした。

 

行きには気づかなかったのですが……

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狛犬さんが明らかに、

 

裏拳で突っ込みを入れられています。

 

何があったんだろう……(木が成長したんです)。

 

 

さて。

神社でいただいたパンフレットによれば、

 

「御祭神 素戔嗚尊 奇稲田姫命 大己貴命大国主命

起源 創立の起源は、古い書物によると、天暦五年(村上天皇951年)武州豊島郡人次ヶ原(俗称…古呂故ヶ岡・赤坂四丁目一ツ木台地)に祀られました。これよりおよそ百年後の治歴二年(後冷泉天皇1066年)、関東に大旱魃が八世、降雨を祈るとその霊験(しるし)があり、以来よく祭事が行われました。

鎮座 江戸時代、幕府の尊信は篤く、八代将軍徳川吉宗公が享保元年(1716年)に将軍職を継ぐに至り、同十四年(1729年)に老中岡崎城主水野忠之に命じ、現在地(豊島郡赤坂今井台)に現社殿を造営、翌十五年(1730年)四月二十六日に、一ツ木台地から現在地への遷宮が行われ、二十八日に将軍直々のご参拝がありました。以後十四代家茂公まで歴代の朱印状(※港区文化財)が下附され、より一層の御神徳を高め、開運・厄除・良縁の鎮守神として尊崇を深められました。

大正以前は山車十三台(現在九台)で御用祭が行われました。」

 

とのことです。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸名所図会. 第2

 

↑の74コマに「氷川明神社」の記事があります(引用にあたって旧字をあらためた箇所有り/判読不能文字は■に置き換える)

 

「氷川明神社

赤坂今井にあり。[此所を世に三河台といふ、天和の頃松平三河守様御屋敷なりし故に名とす。] 別当は聖護院派の触頭にして、大乗院と云ふ。祭神当国一宮に相同じ。赤坂の総鎮守にして、祭礼は隔年六月十五日、永田馬場山王権現と隔年に修行す。[江戸名勝志、惣鹿子等の草紙に、当社元一木村にありしを享保十五年己酉今の地に遷座、社を御造営ありと云々。]

[按ずるに、当社を古呂故宮とし、又享保中一木より今の地にうつし奉るよし諸書に見ゆれども詳ならず、寛文江戸図に古呂故宮と称するものは、今の一木に記して、氷川明神は同絵図に今の地に記したり、しかるときは格別の社なるべし。

江戸名所記に、天暦年間江州甲賀郡に蓮林と号けて天台四明の法灯をかかげ、一念三千の観行を凝す沙門あり、東国遊化の頃、此所に一夜を明し、夢中に霊示を得て土中より十一面観音の像を感得し、ここに安じて一木観音と称す。蓮林化寂の後治暦二年丙午関東大に旱す、萬民当社に雨を祈りて験あり、夫より後氷川明神と崇めまつるとあり。]」

 

うーん、徳川吉宗の業績については大きく触れることもなく(嫌われていたんですかね)。

『江戸名所記』の方では、

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸叢書 : 12巻. 卷の貳

 

↑の70コマから、「入間郡赤坂氷川大明神」の記事があります。

 

「むかし人王六十二代村上天皇の御宇天暦(※947〜957)年中に、近江の国甲賀の郡に蓮林僧正とて、天台四明の法灯をかがげて、一念三千の観行をこらす上人あり、東国修行のついで、この所に一夜をあかしける、その夜の夢にいづくともしらず、老翁一人来りていはく、我はこれこの土中にうづもれて、久しく年をつもれるものなり、いそぎ堀出して安置せしめば、この所の守護神となるべし、その埋もれし所には奇瑞あるべしと見て、夢はさめにけり、上人奇異のおもひをなし、そのあたりをめぐるに一所の壇上に金色の光あり、いそぎほりてみれば、十一面観音の形像おはします、やがてそのところに社をたてて安置せしめらる、一木村の観音と名づけて、諸人まいりつどふ、きわめて利やくおほし、蓮林遷化の後、治暦二年(※1066)ひのえ午にあたつて、関八州のうち夏より秋にいたり大にひでりす、萬民うれへをいたしけるは、当所の土民このやしろに雨をいのるに、たちまちに洪雨ふりくだつて、五こくゆたかにみのり、民よろこびのまゆをひらきけり、これ雨をくだして川をなし、萬民をたすけ賜ふ、故にすなはち神とあがめ、氷川の明神と名付たてまつる、神事は六月十五日也、今に及びてなをこの神徳たかくおはしまして、諸人の願望をかなへ賜ふぞ有かたき。

くみてしる氷川の宮の神こころ、めくみあらたに世をうるふとは」

 

「十一面観音の形像おはします、やがてそのところに社をたてて安置せしめらる」っていうのは、神仏習合とはいえいくらなんでも、という気がします。

普通、観音様を彫り出したら、当然「寺」を建てると思うんですが、何故「社」?

しかも僧侶が彫り出したのに。

浅草寺」では、網にかかった仏様を小さな祠に祀りましたが、最終的には「寺」になりましたよ。

うーん……。

 

◯こちら===>>>

氷川神社 - べにーのGinger Booker Club

 

武蔵国一宮の「氷川神社」は、今の埼玉県大宮にあります。

祭神は「素戔嗚尊」ですが。

それなら「出雲神社」「杵築神社」「牛頭天王社」「須佐神社」などでよかったのに、「氷川神社」という名前が残ったのは、元々の「川の神」信仰が残っているからではないか、などと書いています(誰が?<お前だよ)。

素戔嗚尊」は、恐らく「暴風の神」ではあったのでしょうが、あまり「水神」というイメージはありません。

ですから、「雨乞い」をしたら大雨になって「川」が流れた→だから「氷川」の神様を祭る、という発想はわからなくはありません。

一方、「治水の神」として「素戔嗚尊」を見ると、出雲の「斐伊川」のメタファーとしての「八岐大蛇」を退治しているので、氾濫の多い河川にお祀りして治水を願う、ということはあり得そうです。

でも、「治水」と「祈雨」は別だと思うんですけれど……。

現代の御神徳に「祈雨」がないのは、時代というべきでしょうか。

 

『江戸名所図会』の方は、続きとして、

 

「古呂故(ころこ)天神社 同所一木の地、赤坂田町にあり。或は小六に作る。別当は洞家の禅宗にして清徳寺と号す。

武蔵国風土記残編曰

荏原郡赤坂庄。小六天神。或古呂故。圭田三十五束三毛田。天武天皇三年甲戌十一月。始行神礼。有神戸巫戸。所祭大己貴與少彦名園韓神也。號小六者。以古呂故岡之名也。云云。

[按ずるに、紫の一本に、此大明神もと当国八王子の辺に木呂子と云ふ所あり、其所の氷川明神を此所へうつす、道灌の書に木呂子の某など云ふ事ありと云々、又同書及び江戸名所話等の書に、慶長の頃、関東の小六とて美貌の聞えある馬追ありて此赤坂に住す、常に氷川明神を尊信し後其家福富めり、依て社の破壊を再修す、故に後に小六の宮とあれども證となしがたし、江戸めぐりに、小六明神は日本武尊の垂跡なりとあり、諸説紛々として詳ならず、站く風土記の説を用ふべき歟、猶可考のみ。」

 

とあります。

「所祭大己貴與少彦名園韓神也。」という記述が気になりますね。

「天神」といいながら「大己貴神」が主祭神なのはともかく(「少彦名神」は天神ですから)「園韓神」がこんなところで出てくるとは。 

この「園韓神」、「園神(そのかみ)」と「韓神(からのかみ)」という二柱の神なんですが、記紀神話(『古事記』)としては「園神」は出てこないんですね。

「韓神」は、「素戔嗚尊」の孫神にあたる「大年神」の御子神とされています。

また、その兄弟神に「曾富理神(そほりのかみ)」がおり、あるいはこれが縮まって「ソノカミ」=「園神」になったのではないか、と。

いずれにしろ、半島と関係がありそうな神なのですが……根っこが深いのでこの辺りで。

 

結局、起源に関しては、よくわからん、というのが実際のところのようです。

何しろ、東京(武蔵国)は「氷川神社」が多く。

赤坂氷川神社」の公式HPでも、

 

◯こちら===>>>


赤坂氷川神社 | 由緒

 

↑のページで『望海毎談』という書物からの引用として、

 

「望海毎談に云、氷川明神、江戸の中に七所有、赤坂御門外の社、江戸にては年久し、元大宮の近くに小呂子と云所、氷川を祀りたりし社なり、此所より遷したる所なれば、赤坂の宮居を小呂子の宮と呼びたるを、誤て小六の宮といふ、素盞男尊根の國に追せられ、手摩乳足摩乳が家に入給ふ所を、日の川上といふ所なれば、日の川上といふ詞を以て氷川と呼で素盞男尊を祭りたる神なり、大貴己命は素盞男の御子なりと申より此神は此地神の祖なるを以て、氷川の神靈には相共に祠る、世人大貴己命計を祠り申と覚へたり、(―中略―) 此外今井の盛徳寺の内の氷川の社、麻布一本松の市中の社、羽根田村にて新堀近き所の社、下渋谷にて羽根田の屋敷の社、又北の方にては上水のはたなる萬年寺山の社、巣鴨の入口なる氷川の社頭は坂より上へ見上ぐる所にして、いとかうかうしく何も氏子多く賑ふなり」

 

と、いわゆる「江戸七氷川」を紹介しています。

基本、埼玉県大宮の「氷川神社」から勧請されている、というところは間違いないようです。

駆け足でお参りしてしまいましたが、そういえば前回訪れたときもお祭りの頃だったような……。

今回の収穫は、「突っ込みを入れられる狛犬さん」、でしょうか。

いずれ、木を切ってしまうと、あの見事なお姿が見られなくなりますので、お早めに。

狛犬さんが「どんなボケをかましたのか」、想像してみましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あ、出ませんでした。

大喜利の得意な芸人さんではないので。

 

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前回の「日枝神社」と併せて、「東京十社」もこれで5つ目です。

ちょくちょく上京するはずなので、「東京十社」制覇を目指します。

 

 

 

日本の神様読み解き事典

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