べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「品川神社」

8/3。

「荏原神社」の参拝を終えまして、続いて「品川神社」へ。

 

◯こちら参照===>>>品川神社|東京十社、品川区北品川の神社、郷社、東海七福神の大黒天

 

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祭神は「天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)」。

天太玉命」の后神とされています。

 

今からおよそ八百年程度前の平安時代末期の文治三年(1187)に、

源頼朝公が安房国の洲崎明神(現・千葉県館山市鎮座 洲崎神社)の天比理乃咩命を当地にお迎えして海上交通安全と祈願成就を祈られたのを創始とします。」

 

だそうです。

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先の「荏原神社」と同様に、「東海七福神」に選ばれており、

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大黒様が奉られています。

奉られているというか、入り口にどんといらっしゃいます。

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石造りの鳥居には、

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龍の彫刻が施されていました。

意匠の意図はよくわかりませんが、珍しいのではないでしょうか。

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「新東京百景」にも選ばれた、景勝地でもあります。

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結構な石段を上りました。

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逆光逆光……。

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葵の御紋、ということで、徳川家と関係が深かったことが伺えます。

由緒書にも、

「慶長五年(1600)、徳川家康公が関ヶ原の戦いへ出陣の際に当社へ参拝し戦勝を祈願され、その後、祈願成就の御礼として仮面(天下一嘗の面)、神輿(葵神輿)などを奉納されました。」

とあります。

……「天比理乃咩命」という神様は、戦勝にご利益ありとは思えませんが。

「祈願成就」のご利益あり、ということですが、そんなもん神の基本的属性でしょう。

わざわざこの社に立ち寄った(ことにした?)のには何か意味があるでしょうか。

うーん、源氏の棟梁の威光によった、ということでしょうか。

実際、徳川家は清和源氏の血筋を自称するわけですし。

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さて、本殿への参拝を済ませまして、お次は、

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「阿那稲荷神社」。

 

「鎌倉時代末期の元応元年(1319)に二階堂道蘊(にかいどうどううん)公が「宇賀之売命(お稲荷様)」を、さらには室町時代中期の文明十年(1478)には太田道灌公が「素戔嗚尊(天王様)」をそれぞれお祀りしました。」

 

ということで、二階堂道蘊という人が(武蔵国守護職だったようです)、どこかから勧請したのがこの「阿那稲荷神社」なのでしょうか。

この神社の見所はこちらではなく、実はここから階段を降りていくと、

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薄暗い中に、こんな建物が。

一粒萬倍 阿那稲荷社」。

一粒萬倍……

 

え、「グリコ?」

 

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「一粒萬倍の泉」というのがあるのです。

先ほどのが「上社」「天の恵みの霊」を、こちらは「下社」「地の恵みの霊」と「霊泉」をお祀りしている、そうなのです。

「米は一粒の種より萬倍の稲穂となる」から、「一粒萬倍」なんですね。

これは、裏返せば、「そうだったらいいなぁ」という思いの現れなので、実際には「一粒萬倍」になることがどれほど困難だったのか、ということの現れでしょう。

いくら米を収穫したところで、江戸時代なんて農民は基本「生かさず殺さず」ですから自分たちの口に入るでなし。

かといって、豊作になってくれないと年貢を納めるのが大変。

切実な、執拗なと言ってもいい願いが込められている、ような気がします。

中には、

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「大國主恵比須神社」、「天王白龍辯財天社」、「八百萬神社」、が祀られています。

「大黒様」と「恵比須様」は、合わせて祀られることが多く、「恵比須大黒」なんて言われますが、「大國主」と「恵比須」、という具合に祀っているのはなかなか珍しいかと。

「天王白龍辯財天」は、もちろん「弁天様」です。

水の神である「弁才天」は、日本に入ってくると音が似ているからと「弁財天」となり、白い蛇の姿を持つとされた「宇賀神」とも習合し(夫婦だと言われたりもします)、「宇賀神」と「宇賀之売命(お稲荷様)」が似ているからと習合されると、これまた一緒にされて……と、もう何だかよくわからない神様になっております。

「稲荷神社」に「弁天様」がいるのは、こういったわけだと考えるといいかと。

しかし、基本的には水の神であり、霊水の守護神と考えられているので、ここのように「霊泉」が湧くところでお祀りされている、ということのほうがしっくりきますね。

もともと「弁天様」はインドでは河の女神です。

大雑把に考えて、河の神様は「蛇」か「龍」ですので、一周回って白い蛇(白い龍)の姿を与えられた、というのも面白い気がします。

頭に「天王」がついているのが珍しいですが、多分この神社で「牛頭天王素戔嗚尊)」が祀られていた名残りではないかと思います。

八百萬神社」は……もう、なんか、思い切ったな、と。

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また、やはり建物の中に「祠」がありまして。

かなり雰囲気のある「稲荷祠」になっていました、

元々、岩をくり抜いて作られた祠に、後から建物を足したのではないか、という感じです。

東京にあって、なかなか異界な感じがしますので、興味深いです。

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社務所脇の由緒書。

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神楽殿……だと思います。

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末社の「御嶽神社」。

山の上に立てられていますから、「御山」信仰と結びつきやすいんでしょうかね。

御嶽講もかなり盛んだったのでは。

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金網で守られちゃってる狛犬

多分、表面の陶器の部分が壊れやすいんんでしょうねぇ。

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謎の建物。

小さいです。

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「東海七福神めぐり発祥の碑」。

よく考えると、「阿那稲荷」だけで、「大黒様」、「恵比須様」、「弁天様」の三柱をお参りできるわけで……いっそここに全部集めた方が早かったんじゃない?

まぁ、大人の事情もありましょうが。

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「包丁塚」。

世の中には、「メガネ塚」だの何だのと、道具の数だけ塚があるんじゃないでしょうか。

日本人のアニミズム的思想が抜け切らないことの証拠でしょうか。

昔、カリフォルニアシリコンバレーが日本にあったら、絶対に「パソコン塚」ができていただろうなぁ……と妄想したのを思い出しました。

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昭和初期、「東京八名勝」に選ばれた記念の碑。

小高い場所から、往時は品川宿天王洲などが見られたでしょうから、名勝と呼ばれるのもうなずけます。

景色の写真、取り忘れましたけどね。

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さて、もう一つの見所は、「富士塚」です。

 

富士塚は、富士信仰の集団、冨士講の人々が、富士山の遥拝場所として、あるいは実際に富士山への登山ができない講員のために造った築山である。

品川神社の冨士講は、明治二年(1869)、北品川宿丸嘉講社の講中三百人によって造られた。神仏分離政策で一時破壊されたが、明治五年に再建し、大正十一年(1922)第一京浜国道建設の時現在地に移築された。」

 

元々、それなりの標高のある神社に造られているので、富士塚としても結構な規模なのではないでしょうか。

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富士塚」なので、もちろん近くには「浅間神社」があります。

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こじんまりとした妻入の造りで、一見倉庫のようにも見えました。

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狛犬の下、富士山が描かれています。

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富士塚」の麓に「ぶじかえる」……どうした品川神社

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近所のお子達が遊んでいたので、登らずに、周りを巡るだけにしました。

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逆光。

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珍しいものを見つけました。

「二合目」、恐らく「役行者」と「前鬼・後鬼」です。

八丈島(だっけな)に流された「役行者」が、夜の間は富士山まで飛んでいって修行をした、という伝説があります。

わかった方がお納めしたのでしょう。

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こちらも珍しい、足神様としての「猿田彦神社」。

嚮導の神、道案内の神、というところから足神として祀られたのでしょうか。

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結構高いんです、というのを撮影したかったのですが、時間帯のせいか、まぁ逆光で逆光で……。

「荏原神社」と同様に、「准勅祭社」に指定された「品川神社」。

やはり、東海道の最初の宿場町、往時は相当ににぎわったことでしょう。

ところで、主祭神の「天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)」。

よく正体がわかりません。

記紀神話には登場しません。

忌部氏の祖とされた「天太玉命」の后神ですから、初期朝廷ではかなりの力を誇ったのではないか、と思われるのです。

が、逆に考えると、記紀神話が編纂された時代(天武帝期)には、既に忌部氏の力はそれほどでもなく、遠祖であり「天の岩戸開き」や「天孫降臨」で重要な役割を果たした「天太玉命」はともかく、その后神なんて載っけてやるもんか、ということになったのかも知れません。

神武天皇の時代、阿波(あわ)国から東国にやってきた忌部氏の末裔達。

彼らが勢力を誇った「安房(あわ)国」では、祖神「天太玉命」と「天比理乃咩命」は、まだまだ力を持った神だったのでしょう。

だからこそ、源頼朝がわざわざ勧請したのです。

にしても、どうして海上交通安全にご利益があったんでしょうね……。

忌部氏の、祭祀一族としてではない、別の側面が関係あるのかもしれません。

阿波国、瀬戸内海を航行するための優れた操船技術……とか。

 

 

ま、妄想ですが。

 

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日本の神様読み解き事典

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