べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「石浜神社」(浅草名所七福神)

8/2。

前回、「橋場不動院には観光客はいなかった、と書きましたが。

記憶を辿れば、幾人かは檀家さんではなさそうな人達が。

中には若い男性もいらっしゃり、どうやらご同好の士らしく、次の目的地でも遭遇しました。

若い男性にも御朱印ブームが起こっているのでしょうか。

 

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次の目的地に向かって隅田川沿いを行くと、右手に見えてきますのが。

 

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「白鬚橋」。

 

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「橋場の渡し

対岸の墨田区寺島とを結ぶ、約160メートルの渡しで、「白鬚の渡し」ともいわれていた。

『江戸名所図会』によると、古くは「隅田川の渡し」と呼ばれ、『伊勢物語』の在原業平が渡河した渡しであるとしている。しかし、渡しの位置は、幾度か移動したらしく、はっきりしていない。

大正三年(1914)に白鬚木橋が架けられるまで、多くの人々に利用された。」

 

と案内板にありますが、江戸時代初期においては防衛上の理由から、隅田川に橋を架けることを禁じていたそうです。

そこで、人の移動には渡し舟が使われていました。

時代劇等でよく見るあれです。

時代が下ると、様々な理由から橋がかけられることが許可されます。

まあ、いざ(戦時)となったら、

 

 

橋なんか落としますけど。

 

 

 

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「対鴨荘跡

隅田川畔の橋場一帯は、風光明媚な地であり、かつては著名人の屋敷が軒を連ねていたという。対鴎荘もその一つで、明治時代の政治家三条実美(1837-91)の別邸であった。

征韓論」をめぐって、政府内に対立が続いていた明治六年(1873)の十月、太政大臣の要職にあった実美は心労のあまり病に倒れ、この別邸にて静養していたが、同年十二月十九日明治天皇は病床の実美を気使いこの邸を訪れている。

隣の碑は、この事跡を顕彰して、のち対鴎荘の所有者となった一市民の努力によって建立されたものである。高さ三メートル余。側面に「昭和六年歳次辛未五月建之石井久太郎」、裏面に「多摩聖蹟記念館顧問中島利一郎謹撰 上条修徳謹書」の碑文が刻まれている。

対鴎荘は、昭和三年(1929)、白鬚橋架橋工事に伴い、多摩聖蹟記念館(多摩市連光寺)に移築された。」

 

◯こちら===>>>

旧多摩聖蹟記念館(平成26年度 施設案内)|多摩市

 

↑のことのようですが、残念ながら「対鴎荘」は現存しないそうです。

現存してたら今頃明治村にあったかもしれません。

と、歴史の息吹を感じながら(という耳障りはいいが内容のない感想とともに」、次の目的地「石浜神社」に到着。

  

◯こちら===>>>


石浜神社|東京都荒川区南千住

 

こちらは「寿老神」です。

 

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露出を間違っていますね……。

 

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ちょっと階段を上がります。

 

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二の鳥居。

 

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拝殿。

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並んで摂末社

 

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「眞先稲荷神社」

 

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右から、「宝得大黒天」、「寿老神」、「妙義・八幡神社」、「北野天満宮」、「江戸神社」

 

境内はかなりの素敵空間でした。

 

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読みづらいところにあるんですよね、案内が。

本社

石浜神社 元郷社 別称朝日神明 石浜神明 橋場神明 真先神明 石浜皇大神宮

祭神 天照大神  日本國の大祖神

豊受姫神 天下万民の衣食住の守り神

由緒 聖武天皇神亀元年(724年)九月十一日勅願によってご鎮座 文治五年(1189年)源頼朝 奥州藤原泰衡征伐の折当社に武運を祈り「神風や 伊勢の内外の大神を 武蔵野のここ宮古川かな」と詠み 勝利に恵まれし後 社殿寄進したるが 創建の基礎 神地十石一斗を領し 伊勢参宮にかえ庶民当社に献幣す。

摂社

江戸神社 別称八雲神社 牛頭天王

祭神 素戔嗚尊 天照大神の弟神 疫病退散 産業振興の神

由緒 天文年間(1532〜1554)本社神職鈴木家一門の江戸太郎重長の勧請 元橋場村の鎮守 汐入の押合い祭は 当社の事なり。大正九年末社疱瘡神社(祭神 素戔嗚尊)を合祀一社とす。

麁香神社(あらかじんじゃ) 別称本朝大工祖神

祭神 手置帆負命 彦狭知命 工匠守護 家屋守護の神

由緒 「『みあらか』は宮殿を謂う 古 宮殿を作るに 材を御木に採り 匠を麁香に召す。共に紀伊國名草郡に在り。」と社伝にあり。安永(※1772〜1781)八年八月八日鎮座 わが國木匠の始祖。幕府普請方(御触書寛保集成三十四諸職之部に記載)により当社に勧請す。

末社

真先稲荷神社

祭神 豊受姫神 別名豊宇加之売神 倉稲魂神 大宜都比咩神 宇賀神 家業繁栄の神

由緒 後鳥羽天皇在位の折(十二世紀末)千葉之介兼胤 家伝の神璽を身に帯し数々の戦に先馳けの功を得 その子季胤神璽を己の身に持するは恐れ多しと 新に霊璽を鋳造 これを戴き戦功あり

後 天文年中 兼胤の孫 守胤 石浜城主となり 宮殿を造営 鋳造せる霊璽を前立として安置真先稲荷と崇敬す。江戸期 延享年間一橋宗尹(吉宗の三男)篤く信仰 社殿を再建 同家の祈願所とす。宝暦七年 境内に茶店出店 社運隆昌し 隅田川畔の名社として江戸市民の崇敬を集む。隅田川名勝八景に「真先夜雨」と賞され 地唄「紀伊国」にも詠まれ 縁結びの神として親しまる。

招来(おいで)稲荷神社(御出稲荷神社) 成長稲荷神社 御園生神社 長久稲荷神社等境内稲荷五社を合祀

由緒 もと真先神社の奥宮として祀らる。かって真先社 徳川家の祈願所たりし時 一般庶民の参拝かなわぬ為 多くこの奥宮に詣ず。

北野神社 別称北野天満宮 北野天神

(略)

由緒 昭和四年六月五日菅原氏の末裔二十七代高辻大納言家長 当社に勧請 吉原「仁和尚」は勧請を祝いたるが起源という。

妙義 八幡神社

祭神 日本武尊 誉田別命(應神天皇)外二柱(略)

由緒 鎮座の年代不詳 大正九年妙義神社 八幡神社を合祀一社とす。

粟島 水神社

祭神 大己貴命 少名彦名命 水象女神(略)

由緒 鎮座の年代不詳 大正九年粟島神社 水神社 合祀一社とす。

その他

霊舎 日本武尊の従臣勝人見命の末孫 力麿 当社の神官として奉仕せる時以来六十五代の神職祖先を祀る。

富士遥拝所 宝暦八年(1758年)造営の 富士信仰を象徴する遥拝所

白狐舎 招来稲荷大神の使 白狐(尊像昭和五年作)を祀る。油揚を供し、白狐これを喰えば 願い叶うと。

大黒天 福徳円満 財宝守護の神

寿老神 浅草名所七福神の一。不老長寿の神。(以下略)」

 

ふう。

素敵空間でも、なかなかここまで解説してくれないので、ありがたいことです。

豊受姫神 天下万民の衣食住の守り神」というのは嘘ではないですが、基本的に「豊受姫神」は、「天照大神」にお仕えするためにうつってきた方です。

「麁香神社」の「手置帆負命 彦狭知命」は、あまりなじみがないかと思いますが、「日本書紀』の国譲り神話の中に登場します(一書)。

そこでは、

 

「即ち紀国の忌部の遠祖手置帆負神(たおきほおひのかみ)を以て、定めて作笠者(かさぬひ)とす。彦狭知神(ひこさちのかみ)を作盾者(たてぬひ)とす。」

 

と書かれています。

また、『古語拾遺』では、岩戸隠の部分で、

 

「手置帆負・彦狭知(ひこさしり)の二はしらの神をして天御量(あまつみはかり[大小き斤の雑の器等の名なり]を以て大峡・小峡の材を伐りて、瑞殿(みづのみあらか)[古語に、美豆能美阿良可といふ]を造り、兼御笠又矛・盾を作らしむ。」

 

とあります。

同じく『古語拾遺』の、神武天皇が橿原に入った後の部分で、

 

「天富命[太玉命が孫なり。]をして、手置帆負・彦狭知の二はしらの神が孫を率て、斎斧・斎鉏を以て、始めて山の材を採りて、正殿(みあらか)を構り立てしむ。(略)故、其の裔、今紀伊国名草郡御木・麁香の二郷に在り。[古語に、正殿は麁香と謂ふ。]材(き)を採る斎部の居る所は御木と謂ふ。殿を造る斎部の居る所は麁香と謂ふ。(略)」

 

とあります。

↑の案内で紹介されていた社伝は、明らかに『古語拾遺』から引っ張ってきているようです。

で、幕府普請方(御触書寛保集成三十四諸職之部に記載)により当社に勧請す。」なんですが、寛保年間の将軍って、徳川吉宗なんですよね。

ええ、紀州出身の

 

 

 

 

それから、粟島 水神社」……あれ、ありましたっけ?

日本武尊の従臣勝人見命の末孫 力麿 当社の神官として奉仕せる時以来六十五代の神職祖先を祀る。」……江戸時代以前からある神社は、「日本武尊」にまつわるものがかなりあるようです。

東国は、蝦夷討伐が(ひとまず)終わるまで最前線でしたので、東征を行った「日本武尊」がお祀りされるのは、分かる気がします。

武士が力を持ってこれば、その背景は基本的には武力なので、やはりもてはやされたのでしょう。

 

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「招来稲荷神社」。

鳥居の足下に、「宇賀神」の碑が埋まっています(?)。

 

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「白狐神」。

祠の上に石碑があります。

かなり雰囲気がある、と思います。

その上は、「猿田彦大神」なので道祖神、向かって左は御嶽講の碑、でしょうか。

 

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「富士遥拝所」。

富士塚」ですね。

登れないです。

庚申塔もあります。

 

◯こちら===>>>

品川神社 - べにーのGinger Booker Club

 

↑昨年の同じ時期に訪れた「品川神社」に似た感じがします。

一定の地域単位で、こういった場所があったのでしょうか。

稲荷信仰、富士講、御嶽講、庚申講が、江戸時代にどれほど流行っていたのか……という証拠なのかも知れません。

それにしても、そんなことはあまり時代劇ではやりませんよね(あれは「時代」劇で、「歴史」劇ではないからだ、と謂われればぐうの音もでませんが)。

 

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「麁香神社」や「天満宮」、「真先稲荷」等の資料群。

「麁香神社」が見あたらないな、と思っていたら、どうやら中庭にあるようです。

残念。

「真先稲荷」の奥宮には実際に「狐穴」があって、そこから狐が「お出狐」することがあったようです。

なるほど、そうですよね、狐が人里近くに住んでいたっておかしくなかった時代です。

今でも、狸なら、いるんですけれどね……。

 

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謎の方位石。

 

他にも境内には、

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亀田鵬斎詩碑」や「都鳥歌碑」、

 

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ご鎮座の由緒の碑、

 

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「浅草七福神巡り寿老人尊像復活の碑」などがあります。

↑には、

昭和八年の頃を発祥に、かつて浅草(大黒天)より石浜神社(寿老人)に至る七福神詣での巡路があった。人も知る浅草という土地柄信徒縁者の寄せる関心も極めて高かった。しかるに後第二次大戦の戦雲たちこめ国情不穏を招くに及びやがて巡路は廃れ、石浜神社安置の寿老人尊像も戦火の陰に焼失の憂目に遭ったと聞く。こうした事情に鑑み江戸当初以来石浜神社ゆかりの氏子としてお仕えした鴈豆屋こと当鈴木家ではかねて赤誠の敬意を捧げる折あらばと念じていたところ昨年末関係寺社の間に旧巡路復活の機運あることを耳にし新たに深く感銘を得た。ついてはここに昭和五十一年東京都改良住宅事業執行に際し当社先祖伝来四百余年の地橋場を去るに当り寿老人尊像を奉納し永代の神恩に感謝を捧げ、あわせて浅草七福神の復活を祈り申し上げるものである。

 昭和五十一年十一月二十一日 鴈豆屋二十一代 鈴木正徳」

 

◯こちら===>>>

橋場地域の生活資料(鈴木家資料) 台東区ホームページ

 

↑によると、

 

「鈴木家は橋場地域の旧家で、屋号を鴈豆屋(かりまめや)といいます。中世から渡し・馬具調整・休憩宿泊などを家業として、元禄(1688~1704)頃から煙草の販売を始めたと伝えます。明治以後は、煙草の他に線香・灯明・熱帯魚・菓子などを販売しました。

関東大震災の後、道路拡張のため敷地を一部整理されました。のち昭和51年に、東京都改良住宅建設のため現在地に移転しています。」

 

ということだそうです。

今の「寿老神」の像は、氏子さんから奉納されたものだったようです。

不思議なのは、「浅草七福神」は、江戸末期には始まっていたというのが定説のようですが、こちらの碑では、昭和八年の頃を発祥に」となっていることでしょうか。

ううむ……。

 

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本殿遠景。

 

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横から。

 

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そして、が。

 

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非常に珍しいのですが、神社で墓地を所有されているようです。

神式の葬礼というのは、仏教が入ってきてから廃れていったのですが、行われるところでは行われていたようで。

元々、自然信仰と祖霊信仰が神道の根本のようなものですから、葬礼を行わないわけがないんですね。

ただ、それがどんなものだったのか、現在はどのようなものなのか、については存じません。

例えば、京極夏彦氏の小説の中で、そういった場面が出てきますので、何かの参考になるのかもしれません。

神式葬礼は「大変だ」と聞いたことがあります(何がどう、ということは覚えていません……)。

 

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で、最初に戻る、と。

 

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「ここより北方に石浜神社がある。石浜神社は聖武天皇神亀元年(724)に創祀され、中世においては千葉氏などの崇敬を集めて大いに栄えたと伝えられている。また朝日神明宮とも称し、伊勢詣でのかわりに参詣する人々が絶えなかったという。

隅田の渡しは、平安時代の編纂物の『類聚三代格』や、歌物語である『伊勢物語』にも記されている渡しで、この辺りは古くから交通の要衝の地として賑いをみせていた。

石浜神社境内には、隅田の渡しを背景にした歴史と光景を偲ばせる「伊勢物語の歌碑」や「亀田鵬斎の詩碑」(区指定文化財)が残る。」

 

さて。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸名所図会. 第3

 

↑の274コマから「石浜神社」の記事があります(引用に当たって旧字を改めた箇所あり/判読不明文字は■で置き換える)。

 

「朝日神明宮

橋場にあり。石濱神明とも、(或人の説に、此地に神明宮ある故に、上古伊勢濱と唱へし云々)或は俗に橋場神明とも號く。祭神伊勢に同じく、内外両皇太神宮を斎きまつる。社伝に云ふ、人皇四十五代聖武天皇の御宇、神亀元年甲子九月十一日鎮座と、云々。

牛頭天王社 (本社の左の方にあり、橋場の鎮守にして、祭礼は毎歳六月十五日なり。世に汐入の押合祭とて、神輿今戸橋をわたらせらる。氏子の輩ことごとく神輿昇きに出づるに、其神輿に手を附くることなく、各肩ばかりにて押合い押合い行く事なり此故に押合祭といふよし、事蹟合考に見えたり。当社に古き神輿一基あり、屋根の裡に、天正十五年丁亥四月山城住人高須美作拵之、又同棟札に、同年鈴木三郎冠者家平とあり。是は則ち当社神主の名にして、代々鈴木氏なり。

天満宮(本社の右の方にあり。神像は菅神の眞作にして、明和四年丁亥六月五日、高辻前大納言家長御勧請ありしとなり。額は天満宮とありて、高辻式部大輔世長朝臣の筆也。其余末社多けれど)

当社は、建久正治の頃、繁昌の地なりしとぞ。其頃は大社にて、関東の諸民、伊勢に参宮せん事なりがたき輩は、当社に詣で、祓を受けたりといへり。殊に千葉、宇都宮等の輩尊信し、神田等を寄附す。此地昔は奥州街道にして、文治の頃は、鎌倉右大将家も当社に参詣ありしとなり。境内樹木多く、鬱蒼として上久たり。毎歳六月晦日、名越祓を修行す。祭礼は九月十六日なり。(此日、社地において生姜を■ぐ。故に俗間是を生姜祭と唱へたり。)」

 

「眞先稲荷明神社

同所隅田河の流に臨む。祭神倉稲魂一座なり。社伝に云ふ、久代千葉介兼胤の家に霊珠伝ふ。此霊珠の加護にや、数度の戦場に先登の誉れあり。同守胤の代に至り、此石濱の城主たりしかば、城内の鎮守として、彼宝珠をもて稲荷に勧請し、眞先稲荷明神と號すと、云々。(往し年本社造営の頃、此軒端神木の榎に支へられて、心の儘ならざりしかば、後の方の地を穿ちけるとき件の霊珠を得たりといへり、依て今は神殿に収め、有信の輩には、毎月午日此神宝の霊珠を拝さしむ。)本社の額に、眞崎稲荷大明神とあるは、神祇伯卜部朝臣兼雄卿の筆なり。神木榎(本社の前にありて軒を覆ふ中間の虚より、霊泉湧出す。病あるもの服飲してしるしを得るといへり。)」

 

また、269コマには図絵があります。

「朝日神明宮」の方は、本文では触れられていませんが、「麁香神社」(「手置帆負命彦狭知命」という表記です)がしっかりあります。

「眞先稲荷」の方では、「茶屋」も描かれています。

それぞれ、かなり広い社地を誇っていたことを偲ばせます。

 或人の説に、此地に神明宮ある故に、上古伊勢濱と唱へし云々」 という説があるようです。

「伊勢浜」がなまって、「石浜」になった、と。

なかなか面白いと思います。

ただ、それなら「伊勢浜」のまま残っているんじゃないか、と思うんですよね。

あんまりなまる理由がなり、というか。

それにしても、ここまではっきり「伊勢神宮」と同じ神を祀っていることを大々的に押し出した神社って、あまりない気がします。

いえ、「神明社」といったら、「稲荷」「八幡」に続くくらいに存在するんですが(そして、基本的には「伊勢神宮」の御祭神をお祀りしているのですが)。

「村の鎮守」レベルの、小さなお社であることが多いんです。

「伊勢」には行けないから、地元でもお祀りしよう、っていうもので、それで満足しなければ「伊勢」に行くのではないか、と思うのです(「お伊勢参り」は、江戸時代に大流行するのですが、基本的には一生に一度行けたらいい、というくらい大変なもので、町内でお金を積み立てて、代表者が参拝するというのが一般的でした)。

勅願で創建されているそうですので、この場所に「伊勢」を持ってくるだけの理由が、その当時にはあったのでしょうか……。

うーん。

 

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そして、「寿老神」

特別、神社との関係性は見えてこないですよね。

「大黒天」もお祀りされていますし。

やっぱり、「七福神」って「流行神」だったような気がしてきました。

 

 

ここまでは順調でしたが、これからが……。

 

 

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