べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「酒見神社」(補)

あ、テキストばかりですので、お暇な方だけ。

 

前回、

 

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「酒見神社」(一宮市)〜高速初詣その4〜 - べにーのGinger Booker Club

 

↑「酒見神社」の記事を書きましたが、その中で『文徳天皇実録』に触れておきながら引用していませんでしたので。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 六国史. 巻八

 

↑『六国史』という全集から『文徳天皇実録』。

神社の由緒で触れられていた年代を探してみると、81コマでした(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える/返り点等は省略した箇所あり)。

 

「◯辛亥、造酒司酒甕神、従五位下大邑刀自、小邑刀自等、並預春秋祭」

 

神社の由緒を改めて見てみますと、

 

「第五十五代文徳天皇斎衛三年九月(紀元一五一四年)当村は上質の米が取れる事から遣唐使でもあったと言われる大邑刀自、小邑刀自二人の酒造師が皇太神宮より大酒甕二個を携帯され当宮山に遣わされ伊勢の翌年の 祭に供える酒を造らしめ給うた、と文徳録にあります、」

 

……あれ、何か内容が一致しているのかしていないのか……。

『文徳実録』の注によれば、

 

「◯造酒司酒甕神、神名式に載せず大邑刀自、小邑刀自、次邑刀自神の三座にて大酒壺を雛形とす此酒壺の事績古事談に見ゆ」

 

とあります……『古事談』も見なきゃいけないですか……いずれの宿題ということにしていただいて……。

神社の由緒とのずれも置いておいて、そういえばご祭神の「酒弥豆男命(さかみづおのみこと)、酒弥豆女命(さかみづめのみこと)」にも触れていないな、とまた思いまして、

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

↑『神社覈録』でさらっと見てみました。

56コマです。

 

造酒司坐神六座 大四座小二座
造酒司は美幾乃都加佐  また佐氣乃都加佐  と訓べし、
(略)
酒殿神社二座 並小
(略)
酒彌豆男神
酒彌豆女神
(略)◯祭神明か也 ◯神皇実録に、造酒司坐神、黒御酒白御酒■腹作満奉饗也  酒彌豆女神、黒御酒作神  酒彌豆女神、白御酒作神  件二神根倉神子也、大年神苗裔大土祖孫也  
連胤按るに、神楽歌の中に、酒殿の歌といふあり、こはもと酒を醸す時に、謡へる歌なるが、竟に神楽歌ともなれるならん、酒は清浄潔白に製するは更にて、酔てはかなてうちたはるるまでになるものなれば、神にささけいさむるにも、此歌を加へて謡ひ上げたるが、後世まで佳例とはなりしなるべし、歌は爰に要なければ挙ず、(略)」

 

↑「酒彌豆女神」が二つ並んでいますが、多分前の方が「酒彌豆男神」の誤記ではないかと思います。

ついでに、

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 特選神名牒

 

↑『特選神名牒』も見ておきましょう。

40コマです。

 

酒殿神社二座 並小
祭神 酒彌豆男神
酒彌豆女神
今按姓氏録に酒部公大足彦忍代別天皇皇子神櫛別命三世孫足彦大兄玉之後也大鷦鷯天皇御代従韓国参来人兄曾々保利弟曾曾保利二人天皇勅有何才白有造酒之才令造御酒於是賜麻呂号酒看都子賜山鹿比咩号酒看都女因以酒看都爲氏とあるにて、酒彌豆男神は酒部公麻呂、酒彌豆女神は山鹿比咩なること明けし(略)」

 

……うん、『神社覈録』と『特選神名牒』の解釈が違っていることは往々にありますし、『新撰姓氏録』をそのまま信用するのもいかがなものかとは思いますが……いろいろな説がある、としておきましょうか(妄想するには材料が足りませんもので……)。

尾張国神社考』(原題:「尾張神名帳集説本之訂考」、津田正生、ブックショップ「マイタウン」発行)の41ページ、

 

従一位酒見神社名神 神戸村三輪山神明とよぶ杜是也。世俗は北大門神明とも呼。社家伊藤氏
[正生考]此みやしろ、中古は一の宮村に属たり。後世鎌倉の末歟、または室町の末歟に、神戸邑に属けりとおほしく、集説云[皇字沙汰文云]尾張国酒見御厨[度会延経案]酒見は酒美豆之略語。而外宮酒殿座宇賀乃咩命也[天野信景曰]いま神明之社境古大甕存焉、実古代之賜也[正生考]酒見神社は戦国に一旦廃れて、北大門の神明とのみ呼たりとおほしく然るに天野翁の集説本以後、ふたたび酒見明神の社号にかへり給ふ成けらし[又案に]此杜の辺を宮山とよび、川を宮川と呼るは三輪山三輪川の転聲なるべし。中古の時此川水をもて神人等酒を醸なして真清田の神社竝びに大神、赤見、於保、国府宮の諸社に神酒を備るをもて、酒見の神を斎ひ奉るものにこそ。」

 

書名を見ていただけばわかりますが、津田翁の『尾張神名帳集説本之訂考』は、天野信景翁の『尾張神名帳集説』という本に対する訂正や考えを書いたものなので、

 

「酒見神社は戦国に一旦廃れて、北大門の神明とのみ呼たりとおほしく然るに天野翁の集説本以後、ふたたび酒見明神の社号にかへり給ふ成けらし」

 

というようなツッコミが入ります(天野信景翁は博覧狂記ではありましたが、その書かれたものが全て正しいわけでもなく、ということですね)。

同じ津田翁の『尾張国地名考』でも、「神戸村」の記事で似たような内容が書かれています。

ところで、記紀神話でいえば、神酒で有名なのは、

 

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「大神神社」(続)摂社→「狭井神社」〜奈良・京都めぐり〜 - べにーのGinger Booker Club

 

↑奈良の「大神神社」の摂社に祀られている「高橋活日命」ですね。

日本書紀』(岩波文庫)の引用を再掲しますと、「崇神紀八年条」に、

 

「八年の夏四月の庚子の朔乙卯に、高橋邑の人活日を以て、大神の掌酒(略)とす。
冬十二月の丙申の乙卯に、天皇大田田根子を以て、大神を祭らしむ。是の日に、活日自ら神酒(みわ)を挙げて、天皇に献る。仍りて歌して曰はく、
此の神酒(みき)は 我が神酒ならず 倭成す 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久
如此歌して、神宮に宴す。即ち宴竟りて、諸大夫等歌して曰はく、
味酒(うまさけ) 三輪の殿の 朝門にも 出でて行かな 三輪の殿門を
茲に、天皇歌して曰はく、
味酒 三輪の殿の 朝門にも 押し開かね 三輪の殿門を
即ち神宮の門を開きて、幸行す。所謂大田田根子は、今の三輪君等が始祖なり。」

 

という記事があります。

酒の起源、というのはそれこそ人類の文化文明と等しくなるようなものでしょうから、「高橋活日命」が日本における造酒の元祖とはいっても、「より上手い、より美味い酒を造った」という意味ではないでしょうか。

で、もちろん「倭姫命」が「天照大神」と一緒に遷幸するのよりも前の逸話です。

そう考えると、「酒見神社」、近くに「大神神社」もあったりするので、奈良「大神神社」の摂社「活日神社」のような存在だったのかもしれませんね。

 

 

 

 

いや、妄想するのが面倒だとか、そういうわけではないですよ……。

 

 

 

もうちょっと勉強します……ジカンガアレバ……。 

近況

8/29〜30と、盆休みをとって、大阪〜京都へ行ってまいりました。

メインは銀キツネ祭りだったのですが、大阪一泊した後、のんびりぶらりと昼過ぎまで巡ってみよう、ということで。

まず、ホテルから近くの露天神社へ。

 

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「露天神社」〜大阪巡り(続) - べにーのGinger Booker Club

 

本当は「住吉大社」か「四天王寺」に行こうと思ったんですが、体が思いの外根性なしで……起きられず……。

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あれ、お初・徳兵衛ってこんな感じでしたっけ……。

 

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なんか、球がくるくる回っていましたよ。

 

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社殿は修復中〜。

どこも平成の(ラストイヤーかもしれませんが)大修復なのですねぇ。

 

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こんなキャラもいたかな……。

 

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御朱印

あれ、下の方が切れていた……申し訳ないです。

 

続いて、「蓮華王院(三十三間堂)」

 

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京都駅から歩いたもので、南大門から入る、と。

「養源院」とか華麗にスルー(申し訳ない……)。

 

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逆光で……。

 

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御朱印

「蓮華王院」大好きなんですが、子供の頃の記憶と「二十八部衆」の置かれている場所が違っているんですよね……裏に置いてませんでしたっけ?

外国からの観光客も多く(平日でしたので、ぎゅうぎゅう詰めではありませんでした)、西洋系の女性が御朱印(書き置き)をいただいていたのがちょっと印象的でした。

あとは、修学旅行生が元気で……羨ましい(?)。

中学生かなぁ……高校生のときは、遠足みたいな感じで嵐山に行き、◯◯◯を飲み、帰りに腹が痛くなるというバチが当たった記憶があります……。

「蓮華王院」に関しては、私が何か書くようなこともなく、いろんなところで説明されていますので、各自ご確認を。

 

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「蓮華王院」をあとに、「豊国神社」まで歩く途中の、国立京都博物館裏門。

いい……入ったら何時間か出てこられなくなりそうだったので、スルーしましたよ。

 

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「豊国神社」は、また別で書きましょうかね。

この四日くらい前に、名古屋の「豊国神社」に行っており、今度は大阪城の「豊国神社」でコンプリート、でしょうか(大阪にいたんだから行ってこいって話ですけれど……)。

 

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そして、京都と言ったら宇治、宇治と言ったら萬福寺です!

 

◯こちら===>>>

「黄檗山萬福寺」〜奈良・京都めぐり〜 - べにーのGinger Booker Club

「黄檗山萬福寺」(補) - べにーのGinger Booker Club

 

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いやあ、いい。

天気が不安定だったせいか、涼しげな風が吹き抜けて、絵馬のカラコロなんて音もして、いい空間です。

 

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御朱印

しまった……前回と同じものをいただいてしまった……「萬福寺」では5種類の御朱印がいただけます(全部、と言うだけの根性はなかった……)。

 

ちょっと途切れ途切れではありますが、神社仏閣巡り、続けています。

本当は北陸とか行きたいんですけれどね……なかなか……。

 

次回は、「高速初詣その4」に戻ります……もう九月ですね(さすがに筆が遅い……が、ネットの遅さとBABYMETALさんとさくら学院さんのせいってことにしておきましょう……)。

「酒見神社」(一宮市)〜高速初詣その4〜

1/7。

そういえば、一宮に今伊勢っていう地名があったな、と思ってぐりぐり検索していると、神社が見つかったので移動。

「酒見神社」です。

 

◯こちら===>>>

https://www.facebook.com/sakamijinjya/

 

↑公式Facebookがありました。

 

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社標。
「酒造祖神」とあります。

 

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「酒見神社
倭姫命十五番目御聖蹟)由緒
祭神「天照皇大御神倭姫命、酒弥豆男命(さかみづおのみこと)、酒弥豆女命(さかみづめのみこと)」
第十一代垂仁天皇の王女倭姫命が伊勢の地を求めて旅される途中、垂仁天皇の十四年(紀元六四六年)六月一日当村に渡来された際、村民の奉仕により矢代が建設せられたのが酒見神社の始めであり出来上がった社は総丸柱で草屋根にて高く後世に吹抜きの宮と呼ばれたと言います、現在に伝えるのが本殿裏に祀る倭姫神社であります。
第五十五代文徳天皇斎衛三年九月(紀元一五一四年)当村は上質の米が取れる事から遣唐使でもあったと言われる大邑刀自、小邑刀自二人の酒造師が皇太神宮より大酒甕二個を携帯され当宮山に遣わされ伊勢の翌年の 祭に供える酒を造らしめ給うた、と文徳録にあります、当時はどぶ酒等は各地で醸造されていましたが、清酒醸造は酒見が最初とあり、酒見神社は清酒醸造の元祖の神社という事になります。
第七十一代後三条天皇延久元年(紀元一七二九年)伊勢内宮より式典等に明るき神宮神主の伊勢守吉明に神宮神主と兼任の体にて二百石を与え、従来の本神戸、新神戸、新加神戸に馬寄を合わせて今伊勢の庄の名を賜り、以来九百年間、平安時代より明治時代を通じて代々世襲をもって尾張今伊勢の庄本神戸神主たりと定められたのです。」

 

なんとも……「倭姫命」絡みで、しかも清酒の元祖と名乗っておられる、と。

なかなかな格、ですね。

 

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社標その2。

 

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皇大神宮聖蹟」。

 

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正面鳥居。

 

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手水舎。

 

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蕃塀。

 

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こちらにも由緒が。

末社倭姫命社、八幡社、稗社、水神社、熊野社、秋葉社、天王社」だそうですが……あれ、本殿に相殿で「倭姫命」じゃないんですね。

そういえば、さっきの由緒にも、「現在に伝えるのが本殿裏に祀る倭姫神社であります。」とありました。

由緒から抜粋しますと、

 

「当時神戸村は四十戸くらいで一戸平均五人とみて、二百人ほどの村民が挙って建設に当たり出来上がった社は総丸柱、草屋根にて高く、下より見れば恰も天井の如く、梯子をかけて御神体を其のなかに祀る、下は腰板を付けず吹抜にて只下に板敷を張るのみで後世に吹抜の宮と呼ばれ、土地の者は宮山と呼び、氏神として村民の崇敬厚く、その後等神社に一時この地方で醸造された酒の検査所があった事から酒見神社と尊称せられました。現在に伝えるのが本殿裏に祀る倭姫神社であります。」

 

ということで、創建当時の姿を残した「倭姫神社」が本殿裏手にある、と……見たのかな、私。

 

倭姫命世記によれば、命等が当村に来られる際に使用せられた御船は、美濃の国造が一艘を、美濃の県主が二艘の御船を献った、と記してあり明治の始め当村の宮後の南の畑から掘り出されたそうで、楠の木の大木を刳り貫いた船でした。」

 

倭姫命世記』に記述がありますか……探せたら探そう……。

 

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御祭神……あら、「倭姫命」がいらっしゃらない、ということは相殿ではないのですね。

 

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菊の御紋。

 

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社殿左手奥にありました、霊水「栄水の井」。

 

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本殿を横から……「倭姫神社」はこの後方でしょうかね……だとしたら全く見えませんね。

 

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「栄水の井
襟足の聖地に古泉あり 栄水の井と伝ふ 上古神戸の民清泉の浄水汲みて白酒黒酒を造り皇大神宮へ進貢せしならむ
中世以降代々の神主清泉に神饌を清め残水を浴びて禊ぎをし除厄招福を祈願せしに瑞兆度々現れたりと古伝にあり
世界第二次対戦時に酒見神社の社殿全焼したるも栄水の井の霊異の守護により井中に御動座の大神の御神体は安泰にましまき
栄水の井の霊水を身に滌ぎかけ邪念を祓ひて除厄招福を祈願せば無病息災延命長寿家内安全商売繁昌に霊験あらたかなるべし
茲に霊泉を聊か改組して広く世人に開放する(略)」

 

なるほど、御神体は井戸の中に沈めておけば、戦火を免れることができる、というわけですか……。

 

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皇大神宮」の遥拝所もあります(まあ、当然でしょうか)。

 

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狛犬さんたら、

 

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狛犬さん。

 

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拝殿を向かって右手前から。
えらく屋根が白いですが、銅葺で、ちょうどいい感じに日が射す時間帯だったもので。

社殿右手奥に進みますと、

 

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「石槽(いわふね)
上古皇大神宮に進貢の神酒を醸したる器なり、尚本殿裏地中に白酒黒酒に用いたる大斎甕二個現存す。」

 

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ちょっと見辛いですが……明日香には「亀石」とか「酒船石」とか、謎の巨石が残っていますが(「亀石」は謎でもないか)、こちらも古代からの巨石信仰の残滓と考えられる、のかもしれません。

昔からあるけど、お酒造りにちょうどいいやってんで、使ってみたとか……。

 

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石標もありました。

 

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「天王社」。

 

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熊野権現社」。

 

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神馬。

 

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江戸時代に発見された鏡が伝わっているそうです。

うーん、古代史+考古学好きであれば、ここで食いつかないといけないのでしょうけれども……私はその域には達しておりません。

 

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拝殿、向かって左手前から。

いい感じで日射しが(以下略)。

 

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狛犬さんたら、

 

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狛犬さん。

 

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瑞牆(?)の外に出まして、神馬越しの拝殿。

 

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このまま神社右手に向かいますと、「秋葉社」。

 

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「殉国之碑」。

 

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「稗神社」。

 

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「山王社」。

あれ、「稗神社」は社標だけだったっけ……。

 

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明治百年を記念して、「天王社」と「熊野権現社」は勧請されたようです。

 

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蕃塀越しに遠景。

 

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こちら、参道入口近くにあります、「水神社」。

御朱印はありません〜。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 国史大系. 第7巻

 

国史大系』の中に『倭姫命世記』を発見したので(いや、いい時代)、引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

255コマです。

 

「活目入彦五十狭茅天皇( 垂仁 )即位二年壬巳。遷于伊賀国敢都美惠宮。二年奉斎矣。
四年乙未。遷淡海甲可日雲宮。四年奉斎。于時淡海国造進地口御田。
八年己亥。遷幸同国坂田宮。二年奉斎。于時坂田君等進地口御田。
十年辛丑。遷幸于美濃国伊久良河宮。四年奉斎。次遷于尾張国中島宮座  。[三箇月奉斎]倭姫命国保伎給。于時美濃国造等。進舎人市主。地口御田。並御船一隻進  。同美濃県主角鏑之作而。進御船二隻。捧船者。天之曾己立。抱船者。天之御都張  白而進  。采女忍比賣又進地口御田。故忍比賣之子継。天平瓫八十枚作進。」

 

……あ、返り点等は省略しています。

とりあえず、「尾張国中島宮」のちょっと前、「垂仁天皇」の御代に入ったあたりから。

尾張国中島宮」というのが、今の「酒見神社」の辺り、ということだということでしょうか。

倭姫命世記』自体は、検索していただくとわかりますが、13世紀の成立だと考えられています。

 

◯こちら===>>>

「倭姫宮」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑過去の記事ですが、ここで『日本書紀』「垂仁紀」からの引用として、

 

「(在位)二十五年 天照大神を豊耜入姫命から離して、倭姫命に託す。大神の鎮座するところを求めて、菟田(うだ)の筱幡(ささはた)に行く。そこから近江国、東美濃を巡って、伊勢国に到る」(※筆者要約)

 

というのを紹介しています。

日本書紀』成立時点では、「倭姫命」があちこち巡って伊勢に至った、という伝承はあったようですが、明確に「尾張国中島宮」に立ち寄ったということは書かれていません。

皇大神宮儀式帳』はちゃんと調べていないのですが、ともかく『倭姫命世記』では、地元(尾張国中島)の主張が通ったのか、「とにかく、倭姫様大変だったんだよ」ということを主張したい神宮側の都合なのか、美濃国の次にするっと尾張国に立ち寄ったことになりました。

ただ、ここで引用した分でもお分かりかと思いますが、他所では結構何年も奉斎しているのに比べると、尾張国中島宮では、「三ヶ月」となっているんですね(ただ、これも写本によって違ったりするかもですが……)。

その短い期間にもかかわらず、それ以前の場所に比べると、記事が多い(というか、このあともどんどん記事が増えていくんですけど)。

実際に「倭姫命」に比定されている人物が放浪した時代のことではもちろんなくて、後世(『倭姫命世記』成立の頃)に挿入された伝承で、『倭姫命世記』を撰んだのは「外宮」の神官のようなので、成立時点の「外宮」の勢力範囲のほうが情報をどうこうしやすい、ということもあるのではないでしょうか。

結果、伊勢に近づくほど記事が多くなっていった、と。

ただ、『倭姫命世記』に記事が載っている神社というのも少ないですので、それはそれでありがたいことでもあるかと。

 

さて、『文徳天皇実録』にも記事があるようなのですが……今回はそこまで手が伸びず。

代わりに、いつも通り、

 

◯こちら===>>>

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959912

 

↑『尾張名所図会』より(211コマ)。

 

「酒見神社
本神戸村にあり。今神明社と称す。又俗に北大門大明神といふ。[延喜神名式]に酒見神社としるし、[本国帳]に従一位酒見名神とある大社なり。[神鳳抄]に尾張国本神戸・内宮御神酒三缶と見え、[皇字沙汰文]に、尾張国酒見御厨とある如く、むかし伊勢の神宮へ神酒を奉りし御厨の地なる故。社号をかく称す。酒見は酒彌豆(さかみつ)の略語にて、外宮の酒殿にまします宇賀乃咩命を勧請して祀りし社なり。境内にむかしの酒甕のこりて、此古記どもにいへるによく合へり。
末社 倭姫命・八幡社・山王社・秋葉社。(略)」

 

珍しく図絵もありますので、江戸末期にも大社と考えられていたことがわかります(ちゃんと甕も埋まっている様子が見られます)。

しかも、江戸末期からきちんと倭姫命社」はあるというのに、何故かそのことにはほとんど触れられていない。

「北大門大明神」って、どこの「北」の「大門」なんでしょうね……この辺りは、一宮市郷土史を当たらないといけないかな……。

「外宮」に酒殿なんてあったかなぁ……と検索してみたら、参拝者は見られないそうです。

そのほか『尾張志』『神社覈録』『特選神名牒』も、内容としては(引用しているのも『神鳳抄』だったり)似ていまして、『神社覈録』では「祭神詳ならず」、『特選神名牒』は一番新しいせいか天照大神」「酒彌豆男命」、「酒彌豆姫命」となっており、また「倭姫命」に言及しているのも『特選神名牒』だけでしたね。

うーん、元々の「倭姫命」に関する伝承が、13世紀に『倭姫命世記』に掲載されたとして、戦国〜徳川時代にはそれが表立つこともなかったものが、江戸末期の国学とか、維新の影響なんかで表面に出てきた、ということなんでしょうか。

延喜式』に神社名があることから、かなりの古社だとは思われますが、かといって「倭姫命」の時代にあったものと同一なのかはなかなか証明が難しいところですけれども。

個人的には、なかなかなワンダーランド(神社のたたずまいも含めて)でしたので、機会があればまたご参拝したいと思います〜。

 

「大神社」「八龍社」(一宮市)〜高速初詣4〜

1/7。

大神神社」をあとにして、検索していた「大神社」へ。


……公式HPとか見当たりませんでした……。

 

駐車場も見当たらなかったので、ちょっと離れたところに止めて、結構歩きました。
ううむ、名古屋市内でも、コインパーキングの分布にかなり偏りがあるのですが、一宮市はもっとひどいですな……公共交通か自転車での移動をおすすめしたい、が私には無理。

 

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遠景。

 

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社標と鳥居。

 

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拝殿……舞殿?

様式としては、尾張造でしょうか。

 

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ああ、拝殿が奥にありました……これは門なのでは?

「猿投神社」なんかと似た感じですね。

 

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別角度から。

立派な松。

瓦葺屋根ですね。

 

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戻ってみたところ、蕃塀がありました。

この並び、尾張造ですよね(多分)。

 

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もっと下がってみました。

 

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社標その2。

参道途中にあります。

外を向いているということは、ここも入り口なのか……。

 

あれ、これだけか……御朱印をいただけるという情報を得ていたのですが、松の内の休日、何かそんな雰囲気でもないので、御神職宅を訪ねることもしませんでした。

 

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ぶらぶら歩いているうちに、こんな碑にぶつかりました。

 

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稲島城、というのがあったようですが……この石灯籠の基部に、「廟前」って書いてあるけどいいのかな……誰なのかは検索してもよくわかりませんでした。

 

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で、先ほどの碑の隣に神社がありまして、豊和工業を誘致したら、神社の境内が工場用地になっちゃったので、移転して社殿を鉄骨鉄筋で作りましたよ」とのことです。

 

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正面。

 

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「八龍社」です。
扁額下の龍が勇ましい。

 

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うん……何というんでしょうか、新しく建てたのなら銅葺屋根とかにしたほうがいいのに……でも昭和四十年代といえば瓦屋根がまだまだイケてたのかな……。

 

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蕃塀も新しい感じでしょうか。

 

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ちょっと離れてみました。

 

一宮市やその周辺(稲沢市など)の歴史にはさっぱり疎いもので……勉強する機会があれば……。

 

さて。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第9編尾張名所図会

 

↑『尾張名所図会』からいってみます(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
228コマです。

 

「大(おほの)神社 於保村にありて、天王社と称す。[延喜神名式]に中島郡大神社と見え、[同臨時祭式]に多神社としるし、[本国帳]に従一位名神とある官社なり。祭神は[新撰姓氏録]にいへる多朝臣祖神神八井耳命なるべし。是神武天皇第二の皇子なり。今相殿に八王子を配享するは、いつの頃よりか天王社と誤れるより起りしなり。
末社 大明神社・神明社。(略)」

 

本来、「神八井耳命」が祭神なのに、なぜかどこかで「天王社」になってしまった、と。

うーん、古社だとすれば、いつの時点でそのようになってしまったのか、調べたいところです。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 8 中島郡

 

↑『尾張志』はどうでしょう。
37コマです。

 

「大神社
於保村にありて今は天王社と申す  延喜式印行本の神名帳に中島郡大神神社名神大)とあるは神の一字かさなりたるに依て今ここにけづりて大神社とす 本国帳に従一位名神と記し延喜臨時祭式に多神社とあるに従ふへきなり (略) 新撰姓氏録に多朝臣出自神八井耳命神武天皇第二皇子)と見えたれは其命を祭りし古社なるへし」

 

うん、特に違いはない感じです。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

式内社ということで『神社覈録』も。

386コマです。

 

「太神社 名神大
太は於保と訓べし◯祭神多臣祖歟◯丹羽庄於保村に在す、今天王と称す(略)」

 

『特選神名牒』も見てみましたが、だいたい↑の記事と同じような内容でした。

「多朝臣」の氏族、「多氏」がこの辺りにも勢力を持っていた、という名残でしょうか。

尾張国神社考』(津田正生/ブックショップマイタウン発行)を見てみますと(p35)、

 

従一位太神神社(略)
[集説云]美和庄於保村 [出口延経按]姓氏録云多朝臣、出自神八井耳命云々 [古事記云]神八井耳命者、意保臣(略)尾張丹羽臣、島田臣等之祖也 (略) [天野翁曰]如斯正史載当社之事、者非一ー二。然自氏人散亡、而以降。神祠荒廃。後誤称於保村天王」(略)
[正生考]後世室町の頃よりおほむら天王と呼ならむかし。」

 

うーん、どうやら神社は荒廃してしまって、そのあとから「天王社」と呼ばれるようになった、と津田翁はお考えのようです。

前回の「大神神社」と「大神社」、紛らわしいのですが、かたや「ミワ」で、かたや「オホ」ですから、別系統の神社だったと考えるべきでしょう。

神八井耳命」は、「意冨(おほ)臣」だけでなく、多くの氏族の祖先として位置付けられていますが、尾張の「丹羽臣」なんかもその中に含まれています。

地方豪族がそう主張したのか、あるいは地方を平定していく過程で系図の中に取り込んでいったのか、その辺りのことは何とも言えませんが、「神武天皇」の皇子でありながら、皇位につかなかった「神八井耳命」は、系図的には便利な存在だったのかもしれません(もちろん、記紀神話と違って、地方豪族をバッキンバッキン従えた強者だった可能性も、兄弟との確執から一族が地方に流れていった可能性もあるわけです)。

何だかいろいろ面白いですよね……みんな尾張の歴史にもっと興味を持ってもいいんだよ、と言いたくなりますね(お前もな)……。

「大神神社」(再)(一宮市)〜高速初詣その4〜

1/7。

「真清田神社」でのご参拝を済ませ、ひょっとしたら……というくらいの気持ちで、もう一つの一宮大神神社へ行ってみました。

近くに駐車場がないので、結構歩いたなぁ……それもまた心地よし。

 

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一宮駅周辺〜「大神神社(おおみわじんじゃ)」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です。

 

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いきなりですが、招魂社。

 

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狛犬さんたら、

 

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狛犬さん。

 

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本殿を横から。

美しい流造のラインが写真に収められますよ、と関係者らしき方に教えていただきまして、確かに見事な。

 

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御神馬。

 

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大灯篭。

 

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狛犬さんたら、

 

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拝殿を挟んで、

 

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狛犬さん。

 

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狛犬さんたら、

 

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狛犬さん。

 

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蕃塀。
社殿正面ではありますが、今は参道が曲がっています。

 

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遠景。

 

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正面。

 

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蕃塀を外から。
この右手に、先ほどの鳥居があります。

 

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手水鉢。
嘉永四年」とありますから、わりと新しい。

 

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おまけ。
駐車場に戻る途中で発見した、「白山社」。

 

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御朱印をいただけるのかな、と思ってうろうろして、先ほどの関係者らしき方にお声がけしたところ、何と瑞牆の内でご参拝を……と言われてしまい、恐縮しきりでお邪魔することに。
写真がないのが申し訳ありませんが、本殿と、境内社にもお参りさせていただきました。

 

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ついでに、おさがりのタオルまでいただきまして……僥倖僥倖、有難や有難や。
何となく、いい年になりそうな気がしました(ここに来て?)。


さて。
まずは、神社でいただいた由緒書から。

 

「神社のご由緒・沿革
ここ尾張地方は、木曽三川の河口部に開けた、広大な沖積平野。川が入り乱れて、網の目のような低湿地。葦の生え茂った、大きな梁から転じて大梁・尾治・尾張になったとも言われている。
人が住み着き集落ができ、弥生時代から古墳時代にかけて、邪馬台国から大和の国の頃、次第に東に「開拓」が進み、ここ「花池」にも大和系(三輪族)の人々が大物主神を祀る「大神神社」を建て、祖先を祀り日々の安泰を祈り、団結のシンボルとして神社を中心にして部族を発展させた。
一方、神武系の人々は、真墨田神社(後の真清田神社)を相殿という形で建てて「天火明命」を祀った。
また、奈良時代国司が赴任して、国中の神社を代表として国府宮の「尾張大国霊神社」を尾張の「総社」に指定、次いで花池の「大神神社」と「真清田神社」をまとめての「相殿・対の宮」と言うことで「尾張一の宮」に指定した。
嘉祥三年(八五〇)「文徳実録」「尾張国帳」には、従一位名神とあり、三宮明神・三明神(神宝として珠・鏡・矢と三種の御証印があった)と称せられ、延長五年(九二七)延喜式神名帳には式内社とあり、勅祭神社であったことが判る。
(略)
昔の花池村は「三輪氏」一族の地方だった故か?三輪郡・大神郷・熱田の庄蓮池と言われ、各所に白蓮が咲いていたとかで「蓮池」そして「華池」「花池」となり今日に及ぶと、伝えられている。」

 

むむ、なるほど、どうやら奈良の「大神神社」を勧請した(というのか、三輪氏族が移ってきて祀ったからそうなったのか)、との伝承がある、と。

式内社ですから、歴史はかなり古いものと思われます。

「真清田神社」と対になっている、というわりに、ちょっと追いやられている感じが……往時は大きな神社だったのでしょうか。

あ、ちなみに神社公式のご祭神は「大物主神」、境内社に「六所社(豊受皇大神応神天皇、天児屋根神、倉稲魂神武甕槌神、底筒男神)」、「三島社(大山祇神)」、「白山社(伊弉冊神)」、「神明社(天照皇大神)」、「招魂社」、境外社に「素盞嗚社」がある、となっています。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第9編尾張名所図会

 

↑『尾張名所図会』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
219コマです。

 

「大神(おおみわ)神社 同村にあり。今は三明神と称す延喜式内にて、[本国帳]に従一位大神名神としるす。神大美和都禰命(おおみわつねのみこと)は、天火明命の十世の孫なれば、尾張氏同祖の御神なり。当国にまつれるは故ある事にて、大和の三輪とは別神なり。」

 

「今は三明神と称す」……これが気になりますねぇ……と思っていたら、「祭神大美和都禰命(おおみわつねのみこと)は、天火明命の十世の孫なれば、尾張氏同祖の御神なり」ですって。
「大和の三輪とは別神なり」ともありますね。
うむ……。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 8 中島郡

 

↑『尾張志』の「中島郡」より。
36コマです。

 

大神神社
宮地花池村に坐して今は三明神と申す この神社の地なるが故に宮地といへるなるへし 古き郷名は和名抄に中島郡美和と見えたり 是式内の神にて本国帳に従一位大神名神と記せり  神名式に名神大とあるは誤なるへし名神祭式に此神社なきをもて證とすへし  天火明命十世孫大美和都禰命を祀れるか是尾張氏同祖の神也  当村を熱田庄と称し里民鷺を白鳥と呼て食する事なし 昔は七月七日此村より素麺と蓮華を熱田の宮へ献る旧例ありとそ 尾張氏同祖神にましますゆゑかく熱田にゆゑよしあるなるへし 其蓮華の池を村名に呼て花池といへり」

 

天火明命十世孫大美和都禰命を祀れるか是尾張氏同祖の神也」……『尾張志』では、疑問形ですね。
白鳥を神聖視するのは、「日本武尊」神話の影響でしょうか。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

↑『神社覈録』の上巻、384コマです。

 

大神神社
(略)和名抄、 郷名部  美和、◯祭神大物主神◯熱田庄宮地花池村に在す、今三明神と称す(略)
集説云、式録名神大、度会延昌云、式撰之日未名神蓋衍字歟、名神祭式不載之、後来進名神、故追加名神字者乎、按、大和国神大物主神社同神也、 当社一旦荒廃、而以御正体蔵真清田宮別宮故也  私曰、以熱田社或称三宮、当村熱田庄也、且土俗至于今、以鷺呼白鳥、而不食之、又古初秋七日自此村献索麺及蓮華数茎於熱田宮、以此見之、則当村熱田神領歟、今按、火明命十世孫大美和都禰命歟、尾張氏同祖神也、と云り未孰れかしらず、されど大神と号する社、多く大物主神たり、故しばらく延昌が説に従ふ、(略)」

 

『神社覈録』的には、「度会延昌が、奈良の「大神神社」と一緒だよ、一旦荒廃したけど、「真清田神社」の別宮にご神体はあったんだよ、個人的には「熱田社」とか「三宮」と呼ばれていたのは、「熱田神宮」に素麺と蓮華を奉納していたからだよ、「天火明命」十世の「大美和都禰命」って言ってるよ、まあご祭神は「大物主神」ってことにしときます」、という感じでしょうか。
熱田神宮」に漬物を奉納していたといえば「萱津神社」ですが……五条川はちょっと遠いしな……何か関係があるのでしょうかね。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 特選神名牒

 

↑『特選神名牒』はいかがでしょう。
156コマです。

 

大神神社  名神大 称三明神
祭神 大物主神
(略)
所在 熱田庄宮地花池村  古美和郷地 (中島郡大和村大字宮地花池)
今按尾張国式社考に此辺古は美和郷にて和名抄に美和とあるも此所なり 観応元年七月散位長利の寄進状に尾張国中島郡内田地事合二段者在所晴水柳副四至限東大神限南砥墓西阿弥陀寺領限とあり 応永十年浄参の寄進状に畠三反田六反大神云々などありて動なき地なり 此状今は妙興寺にあり 尾張神社記に  本社の事を  一旦荒廃而其爾櫃今蔵一宮神庫と云ひ鹽尻にも近年禅僧天桂彼社地に住みやや祠を営せしと見ゆと云るが如くなるべし故今之に従ふ」

 

うーん……「美和」という地名が、三輪系氏族に由来するのか、「大神神社」に由来するのか、まではよくわかりませんが、とにかく「ミワ」とは呼ばれていたようです。

尾張国神社考』(津田正生、ブックショップ「マイタウン」発行)30pより、

 

従一位大神神社名神大 [集説云]熱田庄花池村三明神。今の社僧薬師堂  禅宗
[出口延経按]大和国大神、大物主神社と同神也 [天野信景曰]当社一旦荒廃而以御正体、蔵真清田宮。別宮故也 [里人曰]三明神の旧地は、今の宮地より乾二町ばかりに。畔名を旧宮とも、大門前とも呼辺也といふ [又曰]薬師堂を一にいせや寺とも呼。是はもと、伊勢の御師の旅宿をする寺なれは也 といへり。
[考證]大神の二字を三輪とよむ[姓氏録に]於保美和とよむは賛称也[公事根元に]於保我を訓有は大神の下略なり[眞野時綱が]於保和とよみしは大三輪の中略也[和名抄に]於保牟和とかなづけ爲たるは、於保美和の転聲にて非言也。一説に於保牟和の和は知の誤にて、大貴(おおむち)にや ともいへり。不取。[眞野時綱曰]大神神社は大穴貴命。並に須佐之男尊少彦名命の三神を祭ること是。旧く伝聞所也ともいへり[正生考]集説に、和名にいへる美和郷是也としるされたれど、中島の郡の美和郷は花池の一むらのことにあらず。美和の親村は一の宮なるべし 一の宮村。宮の地花池村、杉田  今の妙興寺村  戸塚村、於保村、氏永村、国府輪村 などを惣あわせて三輪の郷と呼たるならむ 此外三輪川、三輪山、酒見神社も往昔は美和の曲輪としられたれど今は、神戸村に属たれば、そは酒見神社の條下にいふべし。
[附言]宮の地花池村を、集説に熱田荘と書れたるは不詳。また七月七日花池村より素麺及蓮華数茎とを熱田宮に献爲 といふ事。熱田旧記にも見へず。近年熱田宮祭記といへる絵巻物三冊あり。これに載たれど、祭記は集説本以後のものにて、證據とは爲がたし。」

 

津田翁にしてみると、「熱田神宮」関係の伝承は新しいんじゃないのか、ということのようですね。
神社の伝承については、古くから語り継がれてきたこと、中世以降でっち上げたこと(という言い方はちょっとフェアじゃないですかね)、いろいろとありますが、いずれにしろ事実の根拠とできるのかどうか、疑う必要はあるでしょう(昔から伝わっているから事実か、というとそうではないですから)。
個人的に、「大神神社」にしては、近くに山がないなぁ……と思ったり。
いえ、本家「大神神社」がああだからといって、神社近くに山が必要なのかっていうとそうではないですが、となると神体山としての三輪山って何だろう……ああでも、津田翁が「昔は美和郡も広かったし、三輪山、三輪川もあった」と言っておられるので、山はなくとも地名としての「三輪山」はあったのかもしれないですね。
いえ、近世の勧請ならともかく、古い時代であればこそ、本家に近い環境を再現しようとするものではなかろうか、と思いましたので。
ですので、ご祭神が「大物主神」ではない、という話も案外間違ってないのかな……とも思います。
そうすると今度は「大美和都禰命」って何者なのか……『先代旧事本紀』にも出てこないのですよねぇ……十世といったら「乎止与命」(かその前の「淡夜別命」)ですし……「乎止与命」の義兄弟ですかね……同時代の、この辺りの支配者か……この辺り、妄想がはかどりそうなんですが、うん、ちょっとやめときます(まとまってない)。

 

ふう……さて、もうちょっと一宮周辺をうろうろしてみますよ。

「真清田神社」(再々)(一宮市)〜高速初詣その4〜

1/7。

1/6は、年末の休日出勤の代休を取らざるを得ず、やむなく休んだのでした。

で、1/7は土曜日。

三河国二宮「猿投神社」にご参拝したのに、尾張国一宮には行ってないじゃないか……ということで、「真清田神社」へ〜。

 

◯こちら===>>>

「真清田神社(ますみだじんじゃ)」 - べにーのGinger Booker Club

「真清田神社」(再)(一宮市) - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です。
定期的に、というわけでもないですが、ご参拝しています。
父方の在所が稲沢というところで、一宮も近いものですから……でも子供の頃に行った記憶はないですけどね……なんでだろう……。

 

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初詣で賑わっただろう、コーンの並び。

 

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写真はほとんどなく、狛犬さんとおキツネさまだけです。

 

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おキツネさまは、「三八稲荷」のほうでした。

 

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御朱印
知らない間に、「服織神社」のものまでありました……。
というわけで、高速初詣その4、開幕〜。

「植田八幡宮」(名古屋市天白区)〜高速初詣その3〜

1/6。

本日のラストは、天白区に移動しての「植田八幡宮

 

◯こちら===>>>

www.city.nagoya.jp

 

↑天白区の史跡散策路のHPです。

 

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神社の前にあった、「馬頭観音」の祠。

 

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正面。
すっかり日も傾いております。

 

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いきなり本殿右手の末社

 

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御神馬。

 

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もうちょっと近くから末社
「津島社」「山神社」と……う、見えない。

 

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参道右手にある、ええと、「弁天社」か「厳島社」。

 

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神橋、鳥居、拝殿。

 

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「植田八幡社と古墳
創建年は不詳であるが「尾張志」に、天正八年(一五八〇)」室賀久太夫が修造したと記されて降り、応神天皇を祀る。境内に、植田八幡社古墳があり社殿の改修で削られて、今では社の広報の部分に、わずかにその姿をとどめるにすぎない。
古墳の形式は判然としないが、被葬者は、この地を支配した豪族と考えられる。」

古墳の上に神社が建てられたケース、というのが結構多いことにちょっと驚きます。
こういったことも、学校では教えてくれないですからね……。

 

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東側の参道入り口。

 

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あれ、写真が少ない……氏子さん達が集まっていらっしゃったので、写真も遠慮気味にしたんだったかな。

 

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御朱印

 

さて。

とはいっても、引用するものがないのですが……↑名古屋市の案内板や史跡散策路のHPに書かれているように、『尾張志』に紹介されているのですが、大きな記事ではありません。

一応ですが、

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 5 愛知郡

 

↑の15コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

「八幡社 天正八年室賀久太夫修造す是この村の本居神也社人磯村木工太夫」

 

このくらいのものですので……。
尾張国地名考』もざっと見てみましたが、植田村については特に解説なし。
「村の鎮守」の典型的な神社、ということでしょうか。

 

 

これにて、高速初詣その3も終了。
……ええ、まだその4があるんですけれどもね。