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そういえば、一宮に今伊勢っていう地名があったな、と思ってぐりぐり検索していると、神社が見つかったので移動。
「酒見神社」です。
◯こちら===>>>
https://www.facebook.com/sakamijinjya/
↑公式Facebookがありました。
社標。
「酒造祖神」とあります。
「酒見神社
(倭姫命十五番目御聖蹟)由緒
祭神「天照皇大御神、倭姫命、酒弥豆男命(さかみづおのみこと)、酒弥豆女命(さかみづめのみこと)」
第十一代垂仁天皇の王女倭姫命が伊勢の地を求めて旅される途中、垂仁天皇の十四年(紀元六四六年)六月一日当村に渡来された際、村民の奉仕により矢代が建設せられたのが酒見神社の始めであり出来上がった社は総丸柱で草屋根にて高く後世に吹抜きの宮と呼ばれたと言います、現在に伝えるのが本殿裏に祀る倭姫神社であります。
第五十五代文徳天皇斎衛三年九月(紀元一五一四年)当村は上質の米が取れる事から遣唐使でもあったと言われる大邑刀自、小邑刀自二人の酒造師が皇太神宮より大酒甕二個を携帯され当宮山に遣わされ伊勢の翌年の 祭に供える酒を造らしめ給うた、と文徳録にあります、当時はどぶ酒等は各地で醸造されていましたが、清酒の醸造は酒見が最初とあり、酒見神社は清酒醸造の元祖の神社という事になります。
第七十一代後三条天皇延久元年(紀元一七二九年)伊勢内宮より式典等に明るき神宮神主の伊勢守吉明に神宮神主と兼任の体にて二百石を与え、従来の本神戸、新神戸、新加神戸に馬寄を合わせて今伊勢の庄の名を賜り、以来九百年間、平安時代より明治時代を通じて代々世襲をもって尾張今伊勢の庄本神戸神主たりと定められたのです。」
なんとも……「倭姫命」絡みで、しかも清酒の元祖と名乗っておられる、と。
なかなかな格、ですね。
社標その2。
正面鳥居。
手水舎。
蕃塀。
こちらにも由緒が。
末社は「倭姫命社、八幡社、稗社、水神社、熊野社、秋葉社、天王社」だそうですが……あれ、本殿に相殿で「倭姫命」じゃないんですね。
そういえば、さっきの由緒にも、「現在に伝えるのが本殿裏に祀る倭姫神社であります。」とありました。
由緒から抜粋しますと、
「当時神戸村は四十戸くらいで一戸平均五人とみて、二百人ほどの村民が挙って建設に当たり出来上がった社は総丸柱、草屋根にて高く、下より見れば恰も天井の如く、梯子をかけて御神体を其のなかに祀る、下は腰板を付けず吹抜にて只下に板敷を張るのみで後世に吹抜の宮と呼ばれ、土地の者は宮山と呼び、氏神として村民の崇敬厚く、その後等神社に一時この地方で醸造された酒の検査所があった事から酒見神社と尊称せられました。現在に伝えるのが本殿裏に祀る倭姫神社であります。」
ということで、創建当時の姿を残した「倭姫神社」が本殿裏手にある、と……見たのかな、私。
「倭姫命世記によれば、命等が当村に来られる際に使用せられた御船は、美濃の国造が一艘を、美濃の県主が二艘の御船を献った、と記してあり明治の始め当村の宮後の南の畑から掘り出されたそうで、楠の木の大木を刳り貫いた船でした。」
『倭姫命世記』に記述がありますか……探せたら探そう……。
御祭神……あら、「倭姫命」がいらっしゃらない、ということは相殿ではないのですね。
菊の御紋。
社殿左手奥にありました、霊水「栄水の井」。
本殿を横から……「倭姫神社」はこの後方でしょうかね……だとしたら全く見えませんね。
「栄水の井
襟足の聖地に古泉あり 栄水の井と伝ふ 上古神戸の民清泉の浄水汲みて白酒黒酒を造り皇大神宮へ進貢せしならむ
中世以降代々の神主清泉に神饌を清め残水を浴びて禊ぎをし除厄招福を祈願せしに瑞兆度々現れたりと古伝にあり
世界第二次対戦時に酒見神社の社殿全焼したるも栄水の井の霊異の守護により井中に御動座の大神の御神体は安泰にましまき
栄水の井の霊水を身に滌ぎかけ邪念を祓ひて除厄招福を祈願せば無病息災延命長寿家内安全商売繁昌に霊験あらたかなるべし
茲に霊泉を聊か改組して広く世人に開放する(略)」
なるほど、御神体は井戸の中に沈めておけば、戦火を免れることができる、というわけですか……。
「皇大神宮」の遥拝所もあります(まあ、当然でしょうか)。
狛犬さんたら、
狛犬さん。
拝殿を向かって右手前から。
えらく屋根が白いですが、銅葺で、ちょうどいい感じに日が射す時間帯だったもので。
社殿右手奥に進みますと、
「石槽(いわふね)
上古皇大神宮に進貢の神酒を醸したる器なり、尚本殿裏地中に白酒黒酒に用いたる大斎甕二個現存す。」
ちょっと見辛いですが……明日香には「亀石」とか「酒船石」とか、謎の巨石が残っていますが(「亀石」は謎でもないか)、こちらも古代からの巨石信仰の残滓と考えられる、のかもしれません。
昔からあるけど、お酒造りにちょうどいいやってんで、使ってみたとか……。
石標もありました。
「天王社」。
「熊野権現社」。
神馬。
江戸時代に発見された鏡が伝わっているそうです。
うーん、古代史+考古学好きであれば、ここで食いつかないといけないのでしょうけれども……私はその域には達しておりません。
拝殿、向かって左手前から。
いい感じで日射しが(以下略)。
狛犬さんたら、
狛犬さん。
瑞牆(?)の外に出まして、神馬越しの拝殿。
このまま神社右手に向かいますと、「秋葉社」。
「殉国之碑」。
「稗神社」。
「山王社」。
あれ、「稗神社」は社標だけだったっけ……。
明治百年を記念して、「天王社」と「熊野権現社」は勧請されたようです。
蕃塀越しに遠景。
こちら、参道入口近くにあります、「水神社」。
御朱印はありません〜。
さて。
◯こちら===>>>
『国史大系』の中に『倭姫命世記』を発見したので(いや、いい時代)、引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
255コマです。
「活目入彦五十狭茅天皇( 垂仁 )即位二年壬巳。遷于伊賀国敢都美惠宮。二年奉斎矣。
四年乙未。遷淡海甲可日雲宮。四年奉斎。于時淡海国造進地口御田。
八年己亥。遷幸同国坂田宮。二年奉斎。于時坂田君等進地口御田。
十年辛丑。遷幸于美濃国伊久良河宮。四年奉斎。次遷于尾張国中島宮座 天 。[三箇月奉斎]倭姫命国保伎給。于時美濃国造等。進舎人市主。地口御田。並御船一隻進 支 。同美濃県主角鏑之作而。進御船二隻。捧船者。天之曾己立。抱船者。天之御都張 止 白而進 支 。采女忍比賣又進地口御田。故忍比賣之子継。天平瓫八十枚作進。」
……あ、返り点等は省略しています。
とりあえず、「尾張国中島宮」のちょっと前、「垂仁天皇」の御代に入ったあたりから。
「尾張国中島宮」というのが、今の「酒見神社」の辺り、ということだということでしょうか。
『倭姫命世記』自体は、検索していただくとわかりますが、13世紀の成立だと考えられています。
◯こちら===>>>
「倭姫宮」 - べにーのGinger Booker Club
↑過去の記事ですが、ここで『日本書紀』「垂仁紀」からの引用として、
「(在位)二十五年 天照大神を豊耜入姫命から離して、倭姫命に託す。大神の鎮座するところを求めて、菟田(うだ)の筱幡(ささはた)に行く。そこから近江国、東美濃を巡って、伊勢国に到る」(※筆者要約)
というのを紹介しています。
『日本書紀』成立時点では、「倭姫命」があちこち巡って伊勢に至った、という伝承はあったようですが、明確に「尾張国中島宮」に立ち寄ったということは書かれていません。
『皇大神宮儀式帳』はちゃんと調べていないのですが、ともかく『倭姫命世記』では、地元(尾張国中島)の主張が通ったのか、「とにかく、倭姫様大変だったんだよ」ということを主張したい神宮側の都合なのか、美濃国の次にするっと尾張国に立ち寄ったことになりました。
ただ、ここで引用した分でもお分かりかと思いますが、他所では結構何年も奉斎しているのに比べると、尾張国中島宮では、「三ヶ月」となっているんですね(ただ、これも写本によって違ったりするかもですが……)。
その短い期間にもかかわらず、それ以前の場所に比べると、記事が多い(というか、このあともどんどん記事が増えていくんですけど)。
実際に「倭姫命」に比定されている人物が放浪した時代のことではもちろんなくて、後世(『倭姫命世記』成立の頃)に挿入された伝承で、『倭姫命世記』を撰んだのは「外宮」の神官のようなので、成立時点の「外宮」の勢力範囲のほうが情報をどうこうしやすい、ということもあるのではないでしょうか。
結果、伊勢に近づくほど記事が多くなっていった、と。
ただ、『倭姫命世記』に記事が載っている神社というのも少ないですので、それはそれでありがたいことでもあるかと。
さて、『文徳天皇実録』にも記事があるようなのですが……今回はそこまで手が伸びず。
代わりに、いつも通り、
◯こちら===>>>
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959912
↑『尾張名所図会』より(211コマ)。
「酒見神社
本神戸村にあり。今神明社と称す。又俗に北大門大明神といふ。[延喜神名式]に酒見神社としるし、[本国帳]に従一位酒見名神とある大社なり。[神鳳抄]に尾張国本神戸・内宮御神酒三缶と見え、[皇字沙汰文]に、尾張国酒見御厨とある如く、むかし伊勢の神宮へ神酒を奉りし御厨の地なる故。社号をかく称す。酒見は酒彌豆(さかみつ)の略語にて、外宮の酒殿にまします宇賀乃咩命を勧請して祀りし社なり。境内にむかしの酒甕のこりて、此古記どもにいへるによく合へり。
末社 倭姫命社・八幡社・山王社・秋葉社。(略)」
珍しく図絵もありますので、江戸末期にも大社と考えられていたことがわかります(ちゃんと甕も埋まっている様子が見られます)。
しかも、江戸末期からきちんと「倭姫命社」はあるというのに、何故かそのことにはほとんど触れられていない。
「北大門大明神」って、どこの「北」の「大門」なんでしょうね……この辺りは、一宮市の郷土史を当たらないといけないかな……。
「外宮」に酒殿なんてあったかなぁ……と検索してみたら、参拝者は見られないそうです。
そのほか『尾張志』『神社覈録』『特選神名牒』も、内容としては(引用しているのも『神鳳抄』だったり)似ていまして、『神社覈録』では「祭神詳ならず」、『特選神名牒』は一番新しいせいか「天照大神」「酒彌豆男命」、「酒彌豆姫命」となっており、また「倭姫命」に言及しているのも『特選神名牒』だけでしたね。
うーん、元々の「倭姫命」に関する伝承が、13世紀に『倭姫命世記』に掲載されたとして、戦国〜徳川時代にはそれが表立つこともなかったものが、江戸末期の国学とか、維新の影響なんかで表面に出てきた、ということなんでしょうか。
『延喜式』に神社名があることから、かなりの古社だとは思われますが、かといって「倭姫命」の時代にあったものと同一なのかはなかなか証明が難しいところですけれども。
個人的には、なかなかなワンダーランド(神社のたたずまいも含めて)でしたので、機会があればまたご参拝したいと思います〜。