あ、テキストばかりですので、お暇な方だけ。
前回、
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「酒見神社」(一宮市)〜高速初詣その4〜 - べにーのGinger Booker Club
↑「酒見神社」の記事を書きましたが、その中で『文徳天皇実録』に触れておきながら引用していませんでしたので。
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神社の由緒で触れられていた年代を探してみると、81コマでした(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える/返り点等は省略した箇所あり)。
神社の由緒を改めて見てみますと、
「第五十五代文徳天皇斎衛三年九月(紀元一五一四年)当村は上質の米が取れる事から遣唐使でもあったと言われる大邑刀自、小邑刀自二人の酒造師が皇太神宮より大酒甕二個を携帯され当宮山に遣わされ伊勢の翌年の 祭に供える酒を造らしめ給うた、と文徳録にあります、」
……あれ、何か内容が一致しているのかしていないのか……。
『文徳実録』の注によれば、
とあります……『古事談』も見なきゃいけないですか……いずれの宿題ということにしていただいて……。
神社の由緒とのずれも置いておいて、そういえばご祭神の「酒弥豆男命(さかみづおのみこと)、酒弥豆女命(さかみづめのみこと)」にも触れていないな、とまた思いまして、
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↑『神社覈録』でさらっと見てみました。
56コマです。
「造酒司坐神六座 大四座小二座
造酒司は美幾乃都加佐 また佐氣乃都加佐 と訓べし、
(略)
酒殿神社二座 並小
(略)
酒彌豆男神
酒彌豆女神
(略)◯祭神明か也 ◯神皇実録に、造酒司坐神、黒御酒白御酒■腹作満奉饗也 酒彌豆女神、黒御酒作神 酒彌豆女神、白御酒作神 件二神根倉神子也、大年神苗裔大土祖孫也
連胤按るに、神楽歌の中に、酒殿の歌といふあり、こはもと酒を醸す時に、謡へる歌なるが、竟に神楽歌ともなれるならん、酒は清浄潔白に製するは更にて、酔てはかなてうちたはるるまでになるものなれば、神にささけいさむるにも、此歌を加へて謡ひ上げたるが、後世まで佳例とはなりしなるべし、歌は爰に要なければ挙ず、(略)」
↑「酒彌豆女神」が二つ並んでいますが、多分前の方が「酒彌豆男神」の誤記ではないかと思います。
ついでに、
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↑『特選神名牒』も見ておきましょう。
40コマです。
「酒殿神社二座 並小
祭神 酒彌豆男神
酒彌豆女神
今按姓氏録に酒部公大足彦忍代別天皇皇子神櫛別命三世孫足彦大兄玉之後也大鷦鷯天皇御代従韓国参来人兄曾々保利弟曾曾保利二人天皇勅有何才白有造酒之才令造御酒於是賜麻呂号酒看都子賜山鹿比咩号酒看都女因以酒看都爲氏とあるにて、酒彌豆男神は酒部公麻呂、酒彌豆女神は山鹿比咩なること明けし(略)」
……うん、『神社覈録』と『特選神名牒』の解釈が違っていることは往々にありますし、『新撰姓氏録』をそのまま信用するのもいかがなものかとは思いますが……いろいろな説がある、としておきましょうか(妄想するには材料が足りませんもので……)。
『尾張国神社考』(原題:「尾張神名帳集説本之訂考」、津田正生、ブックショップ「マイタウン」発行)の41ページ、
「従一位酒見神社名神 神戸村三輪山神明とよぶ杜是也。世俗は北大門神明とも呼。社家伊藤氏
[正生考]此みやしろ、中古は一の宮村に属たり。後世鎌倉の末歟、または室町の末歟に、神戸邑に属けりとおほしく、集説云[皇字沙汰文云]尾張国酒見御厨[度会延経案]酒見は酒美豆之略語。而外宮酒殿座宇賀乃咩命也[天野信景曰]いま神明之社境古大甕存焉、実古代之賜也[正生考]酒見神社は戦国に一旦廃れて、北大門の神明とのみ呼たりとおほしく然るに天野翁の集説本以後、ふたたび酒見明神の社号にかへり給ふ成けらし[又案に]此杜の辺を宮山とよび、川を宮川と呼るは三輪山三輪川の転聲なるべし。中古の時此川水をもて神人等酒を醸なして真清田の神社竝びに大神、赤見、於保、国府宮の諸社に神酒を備るをもて、酒見の神を斎ひ奉るものにこそ。」
書名を見ていただけばわかりますが、津田翁の『尾張神名帳集説本之訂考』は、天野信景翁の『尾張神名帳集説』という本に対する訂正や考えを書いたものなので、
「酒見神社は戦国に一旦廃れて、北大門の神明とのみ呼たりとおほしく然るに天野翁の集説本以後、ふたたび酒見明神の社号にかへり給ふ成けらし」
というようなツッコミが入ります(天野信景翁は博覧狂記ではありましたが、その書かれたものが全て正しいわけでもなく、ということですね)。
同じ津田翁の『尾張国地名考』でも、「神戸村」の記事で似たような内容が書かれています。
ところで、記紀神話でいえば、神酒で有名なのは、
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「大神神社」(続)摂社→「狭井神社」〜奈良・京都めぐり〜 - べにーのGinger Booker Club
↑奈良の「大神神社」の摂社に祀られている「高橋活日命」ですね。
『日本書紀』(岩波文庫)の引用を再掲しますと、「崇神紀八年条」に、
「八年の夏四月の庚子の朔乙卯に、高橋邑の人活日を以て、大神の掌酒(略)とす。
冬十二月の丙申の乙卯に、天皇、大田田根子を以て、大神を祭らしむ。是の日に、活日自ら神酒(みわ)を挙げて、天皇に献る。仍りて歌して曰はく、
此の神酒(みき)は 我が神酒ならず 倭成す 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久
如此歌して、神宮に宴す。即ち宴竟りて、諸大夫等歌して曰はく、
味酒(うまさけ) 三輪の殿の 朝門にも 出でて行かな 三輪の殿門を
茲に、天皇歌して曰はく、
味酒 三輪の殿の 朝門にも 押し開かね 三輪の殿門を
即ち神宮の門を開きて、幸行す。所謂大田田根子は、今の三輪君等が始祖なり。」
という記事があります。
酒の起源、というのはそれこそ人類の文化文明と等しくなるようなものでしょうから、「高橋活日命」が日本における造酒の元祖とはいっても、「より上手い、より美味い酒を造った」という意味ではないでしょうか。
で、もちろん「倭姫命」が「天照大神」と一緒に遷幸するのよりも前の逸話です。
そう考えると、「酒見神社」、近くに「大神神社」もあったりするので、奈良「大神神社」の摂社「活日神社」のような存在だったのかもしれませんね。
いや、妄想するのが面倒だとか、そういうわけではないですよ……。
もうちょっと勉強します……ジカンガアレバ……。