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神社仏閣ラブ(弛め)

不定期「熱田」考(4)

さて。

あ、テキストばかりですので苦手な方は回避してください。

 

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久々「熱田神宮」(名古屋市熱田区) - べにーのGinger Booker Club

「松姤社」「鈴之御前社」「姥堂」「裁断橋」(名古屋市熱田区) - べにーのGinger Booker Club

「秋葉山円通寺」(名古屋市熱田区) - べにーのGinger Booker Club

 

↑この辺りについて文献をあさってみます。

なにしろ「熱田神宮」なので、資料は膨大ですが。

まずは、いつも通り『尾張名所図会』からいってみようかと(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑302ページより、今回は摂社に関して。

 

「摂社
一御前社 御本社の北にあり。祭神大伴武日命は、日本武尊東征の御供せし副将。[日本書紀]の景行紀に見えたり。
龍神祠 御本社の北にあり。祭神吉備武彦命にして、大伴武日命と同じき副将なり。
左王祠 御本社の東にあり。東国三十三箇国の諸神を祭り、左神祇社とも稱す。
右王祠 御本社の西にあり。西国三十三箇国の諸神を祭り、右神祇社とも稱す。
御田祠 鎮皇門の内にあり。祭神保食神。[延喜式]に御田神社、[本国帳]に従三位御田天神とある是なり。今宝田社とも稱す。
楠御前祠 右王祠の西にあり。祭神 伊弉諾伊弉冊尊。[神名帳]頭注に西伊弉諾尊とあるは、此神をいへるなるべし。今も神社なく古楠一株あるゆゑに號す。[大和本紀]に『熱田神劔入楠宮奉納』とありて、楠は当社に由緒ある樹木なり。俗に子安神と稱して、婦女の参詣殊に多し。
清水祠 龍神祠のうしろにあり。祭神罔象女神。傍に清泉湧出づる故社号とす。俗に御手洗と称し、又弘法の清水ともいふ。
内天神祠 海蔵門のうちにあり。祭神少彦名命にして、京都五條天神に同じ。孫
孫若御子祠 御田祠の西にあり。祭神は[続日本後紀]に「孫若御子熱田大神御兒神也』とありて、日本武尊の第七の皇子稚武彦王なり。瓊瓊杵尊応神天皇をも合せ祭れり。[延喜式]に孫若御子社(名神大)[本国帳]に従三位孫若御子天神と録せり。
乙子祠 御田祠の西にあり。祭神弟彦連は天火明命十四世の孫。[本国帳]に正二位乙子天神とある社なり。
今宮 孫若御子祠の西にあり。祭神藤原季範朝臣は、右大将頼朝公の外祖父にして、藤原公定が[十四巻系図]に、『藤原季兼康和三年十月七日。尾張国目代間卒。年五十八。其子季範熱田大宮司従四位下。依霊夢之告。外祖父閤一流子孫譲奥社官。久寿二年十二月二日卒。年六十六。』と記せる是なり。[大宮司系図]及び[玉葉集]にのする所も大むねこれに同じ。
土神祠 一御前祠の東にあり。[伊勢大神宮儀式帳]に度会郡山田の土宮祭神大年神・土御祖神・宇賀御魂神とあるに據るべきを、ここのは埴山媛命を祭る。
愛宕祠 右王祠の北にあり。
王若宮 神庫の北にあり。祭神 仁徳天皇
浅間祠 王若宮の北にあり。
山祇祠 土御祠の東にあり。
宇賀祠 浅間祠の北にあり。
金神祠 龍神社の西にあり。山田郡金神社を勧請せし社なるべし。今金山彦命を祭るといふ。
立田祠 御本社の東にあり。
二若宮宮 立田祠の南にあり。
賀茂祠 立田祠の北にあり。安居院の[神道集]の熱田大明神の條に大宮御宝殿の傍に、賀茂大明神の社ありて、或女無実の難にあひて、身の徒に成るべき事を歎き、其社に祈念しければ、夢幻ともなく賀茂の御神『我頼む人いたづらになしはてば又雲わけてのぼるばかりぞ』と御示現ありしが、其後事ゆゑなく、終に大宮司の妻となりて栄えるより記せり。此歌は[新古今]及び[袋草子]等其外の歌書どもに、只かもの御歌とのみ記したれば、山城の賀茂の御歌を皆人思へど、此[神道集]に確に其女が大宮司の妻になりなる由までを誌したれば、当社の摂社なる賀茂の御示現なりしこと疑ふべからず。
月宮 金神祠の西にあり。
赭祠 王若宮の北にあり。
稲荷祠 宝蔵の北にあり。
三輪祠・籠守祠・風祠・国霊祠・八王子祠・須原祠・雨祠・角宮・神明祠・油部屋祠・兒祠 以上十一社今廃す。其餘の二十四社を合せて三十五社は、総て御門内の摂社にして、是より末は皆御門外の末社なり。
外天神祠 鎮皇門の外にあり。祭神内天神に同じ。
姉子祠 海蔵門の外東西に二祠あり。祭神宮簀媛命貞治三年及び元亀二年の[本国帳]に従三位氷上姉子名神とあるは此社にて、彼大高村火上姉子神社と混すべからず。
今彦祠 同所東西に二祠あり。建稲種命を祭る。[本国帳]に正三位今孫名神とある是なり。
水向祠 同所東西に二祠あり。日本武尊の妾、穂積忍山宿禰の女、弟橘媛命を祭る。[本国帳]に正三位水向名神とある是なり。
日長神祠 同所東西に二祠あり。天照大神御魂神を祭る。天照御魂は、度会延佳が説によれば、則天火明命にして、尾張氏の祖神なり。
素盞烏祠 同所東西に二祠あり。[本国帳]に従一位素烏名神とある是なり。
青衾祠 同所東西に二祠あり。西を白衾とかけり。[本国帳]に正一位青衾名神としるせり。姉子祠以下を海蔵門外東西十二社と稱す。白衾社は田中町にあり。
山王祠 海蔵門外神厩の南にあり。」

 

ふう……

江戸時代末、境内外の摂社がこれだけあったということです。

図絵もありますので、ご確認のほどを。

廃絶したものも含めると、いろいろ謎の摂社が並んでいるのですが、元々の信仰に「牛頭天王」信仰が混ざってきているように思います(「八王子」や「籠守」(=「居森」)なんか)。

 

お次は、364ページから。

 

「補陀山圓通寺 田島小路の南の端にあり。曹洞宗遠江の普済寺末。明徳二年権宮司家建立して、浜松普済寺の誓海義本和尚を以て開山とす。
禅堂 本尊薬師仏なり。
鎮守辨財天社。
秋葉社 尤も大社にして、羽休秋葉と稱す。例祭十一月十六日十七日、参詣人群をなし、こもり堂もありて、十六日夜籠なすものも甚多し。又当社にて鉄火打を請けてこれを用ふれば、火災の恐なしとぞ。羽休の文字を其火うちにしるせり。」

 

やはり、元々の山号は「補陀山」だったようでs。

それで本尊が「薬師如来」なんですね……確か「薬師如来」って西方浄土で、補陀落浄土「観音菩薩」じゃなかったでしたっけ。

その意味で、現在、「十一面観音」を本尊としている(らしい)ほうが合っている、と思います。

ただ、「羽休秋葉」というのも結構な大社だったようで、図絵もあるのですが、そこを見ると本堂と「羽休秋葉」の大きさがさほど変わりません。

 

続いて、365ページ。

 

「南新宮天王社 御所の前町、清雪門のむかへにあり。天照大神素盞烏尊を祭る。毎年六月五日の大山車は、此社の神祭なり。末社居守社・八王子社、境内にあり。
御蘆御池はやしろの裏にあり。新宮坂は南の道筋にあり。みな此社によりたる名なり。
例祭 山鉾祭禮、熱田の内八箇所より、山一輌・車二輌を年番にて出す。大瀬子山出づる年に宿・今道・中瀬より車楽を出し、田中山出づる年には、市場・神戸より車楽を出す。大山休の年は、東脇・須賀より車楽のみ出すなり。寛弘年中男女悉く疫癘を悩む。所の者旗鉾を以て、天王の社にて疫神を祭りしが、其後文明年中、佐橋兵部といふ者祭式を定むといへり。大宮司家より太刀を贈り、又市馬町の橋下氏よりも太刀を贈るの故実あり。市馬車楽の伎童、葵御紋の衣裳を着す。東照神君より賜ふ所なり。又東脇車楽の幕は、慶長九年四月、台徳院殿の御台所崇源院君の御寄附、須賀車楽の幕は、東照神君の御伯母ど常滑君のご寄付なり。
大福田社 南新宮の南に隣れり。もと神宮寺の境内にありしを、元禄十六年ここにうつせり。熱田摂社七所の其一社にして、[本国帳]に大福田大菩薩とあるこれなり。朱雀院の御宇、相馬将門叛逆せしかば、追討使を下され、勅して熱田社に御祈願あり。神輿を星崎にふり出し奉りて祈祭す。故なくして忽神輿血に染みしが、将門其時刻に秀郷・貞盛が為に誅せらる。是大神の示し給へる先兆なり。然るに其輿地に汚れて、本宮に還座なしがたく、新に一祠を建てて是を収め、大福田社と號す。祭神は正哉吾勝命なり。
日割御子神社 大福田社の南隣にあり。熱田摂社七社の其一社なり。[延喜式]に愛智郡日割御子神社、[本国帳]に正二位日割御子天神と称し、[続日本後紀]に『承和二年十二月壬午尾張国日割御子神。孫若御子神。高座結御子神。惣三前奉預名神。並熱田大神御兒神也』と見え、[神名帳]頭注に『尾張国年魚市郡日割御子日本武五男武鼓王也』としるせり。
境内南の方に氷上神社遥拝所の鳥居あり。本社は知多郡大高村にあり。」

 

「南新宮社」の記事は、

 

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「津島神社」(再)(津島市) - べにーのGinger Booker Club

 

↑「津島神社」の祭礼「御蘆流し」に関係していそうな話ですし、まあ距離的に近いので、「津島神社」系「牛頭天王」なのでしょう。

「大福田社」は……今回参拝したのかな……。

「日割御子神社」は、現在地なのかどうなのか……。

うむ、わからんことだらけ。

 

まだ続いて、371ページから、

 

正一位劔神社 本社の南三丁にありて、日割御子社の西に当れり。即下の宮と称し、熱田摂社七所の一社なり。[延喜式]に八劔神社と見え、[本国帳]に正一位八劔大名神としるせり。和銅元年(略)九月九日(略)の御鎮座にして、多治見真人池守・安倍朝臣(略)を勅使とし、新造の宝劔を納め給ひて八劔宮と称し奉り、別宮として年中の祭祀本社のごとしと、[熱田正縁起]に見えたり。
本社 祭神十座。神秘にして其何れの神たる事をしらず、故に謹んで私意を加へず。細川玄旨の[東国陣道記]に熱田に居陣、社務惣検校の家にとまりけるに、あるじ又社僧法蔵坊出でられて雑談の次、当社の八劔宮は、日本武尊たるよし物語ありて(略)
末社八子社 本社の西にあり。八子・八口同調にて、[延喜式]に、出雲国大原郡八口(やこ)神社と同例の神なるべし。其国の杵築社記に、大原郡斐伊郷中簸川辺に杉八本ありて蛇頭(をろちのかしら)を祭り、仁田郡尾原村に蛇尾(をろちのを)を祭りて、石壺大明神と號するよりいへり。其八口神社は此蛇頭なるべし。[日本紀]に『有大蛇頭尾各有八岐云々。斬其蛇云々。覗之中有一剣。此所謂草薙剣也』とある合せ考ふれば、八口といへるは頭に八岐あるの義、八剣とは、尾に八岐あるを表せしなるべければ、ここに八子の社を建てしも故ある事なり。
徹社(とほすのやしろ) 八子社の南にあり。建御名方命を祭れり。[延久元年記]に水内明神とある是なり。其外住吉社・春日社・霧社・八幡社等東西にあり。」

 

そういえば、別宮「八剣社」について、過去の文章をきちんと読んだのは始めてだな……今では境内にあるのは、「えびすだいこく」で、他の摂社は廃絶したのか……あいや「えびすだいこく」は「上知我麻神社」の摂社か……。

こちらも図絵ありますので確認を。

 

380ページに、

 

「松姤神社 同町にあり。建稲種命を祭る。もと命の陵墓なりしを、のち神社とすといへり。」

 

 

……なるほど、何か盛り上がっていると思ったら、どうも古墳だったらしいと……でもいつまでそうだったかはわかりませんし、しかも「建稲種命」の陵墓だったかどうかは怪しい……「建稲種命」といえば、記紀神話にも登場するような古代尾張の大物ですから、陵墓ももっと大きかったんじゃないかと思うのです。

うーむ、謎。

 

まだまだ387ページ、

 

「鈴御前社 正覚寺の東にあり。祭神天鈿女命。六月晦日の夏越の祓は大宮の祭なるが、此社の川岸にて修する故、人々当社の祭事の如くおもへり。則熱田社人一統爰に出て茅の輪を餝り、五串に五色の幣をさし、各汀の蘆の葉に白木綿つけて解除す。奇観にして、見物するもの羣をなせり。又此夜伝馬町宿・今道等の家々には、数多の作物をなして大なる賑合なり。」

 

なるほど、「鈴之御前社」は、「天鈿女命」を御祭神にしていましたか……。

 

続いて、

 

「裁断橋 伝馬町の東、精進川に渡せる橋なり。今さんだが橋ともよべり。むかし此所に裁断所ありて、政務を行ひし故名づくとも、或はさうづが橋の転じてさんだとなりたるかともいひ、精進川は彼夏越の祓するより起れる名なりといへるはさもあるべし。又[日本霊異記]及び旧本の[今昔物語]にのせたる尾張宿禰久玖利、聖武天皇の御宇、中島郡の太領にて、其妻は愛智群片◼︎里の出生、道場法師の孫なるが、夫に従ひ従順にして、又女工に精しく、よき絹を織り夫にきせける。時の国司若桜部某、其絹の美しきを見て太領に所望し、乞取りて返さず、其妻夫に向ひ、其絹を惜しとおもひ給ふやと問ふに、久玖利甚をししと答へければ、さあらば我取りかへさんといひつつ、国司が館に行きて、強く衣を返されよとこふ。国司怒りて、下人に命じ追出さんとすれども女動かず。はてには国司が居れる床を両手にもち、さし上げて国司をのせながら、門外へ持出で乞ひければ、国司おぢ恐れて衣をかへしつ。扨太領が父母、国司の怒り怨む事を恐れて、其妻を離別させければ、女舊里に帰りけり。或時女草津川にて衣を洗ひけるに、商人ども大船に物つみて漕行くとて、此女を見て嘲哢するを、女黙してありけるが、餘り煩はしければ、我を犯さんとせばしや面打たんといふ。商人怒りて女をうたんとす。女船にとりつき、水より上へ半町ばかり引き揚げぬ。船主せんかたなく、あたりの人を雇ひ、荷物をおろし船を水に浮べ、荷をのせ去らんとす。其時女、禮なきが故にかくしつるを、何故に雇はれ助くるぞといひさま、今度は其船を陸地へ一町許引きあげて置きければ、船中の人々こぞりて嘆嗟し、恐れわびけるにぞ、女心やはらぎ、宥して船を押戻し、水に浮かべてけり。其女が力を試んとて、此船を五百人押さしめけるに、終にうごかざりしよし見えたり。さて草津川とあれば、僧都川・三途川などの音訓草津川に通へば、其◼︎をここに挙げて童稚の一奇観に備ふるのみ。又欄干の擬宝珠に、漢文と仮名文字の銘彫付けたり。其銘に曰く、

熱田宮裁断橋。右檀那意趣者。堀尾金助公、去天正十八年六月十八日。於相州小田原陣中逝去。其の法名號逸岩世俊禅定門也。慈母哀憐餘。修造此橋。以充三十三年忌普同供養之儀矣。

と。此名に依りて見れば、裁断橋と書きしにや。又

てんしやう十八ねん二月十八日におだはらへの御ぢん、ほりをきん助と申す十八になりたる子をたたせてより、又ふためとも見ざるかなしさのあまりに、いま此はしをかける事、ははの身にはらくるいともなり、そくしんじゃうぶつし給へ、いつがんせいしゆんと、後のよの又のちまで、此かきつけを見る人念佛申したまへや、三十三年のくやうなり。

と斯くかなにて彫付けしは、不学の人にたよりする老母の心中、見るにつけてもいと哀なり。

姥堂 裁断橋の西詰南側にあり。時宗、亀井山圓福寺の末派なり。堂中安阿弥作の奪衣婆の坐像を安置す。いはゆる三途川の姨子是なり。又[熱田旧記]に、永禄の比、幸順僧都といへる沙門、此川を歩行渡せしに、折ふし水高ければ、過つて溺死せり。故に僧都川と呼初めしよし。其比此辺に貪欲の老婆ありて、彼僧の衣類をも剥取りしに、老婆程なく命終せしが、慾心深き老婆なれば、霊魂よなよな此あたりをさまよひけるに、其縁類是を憐み、罪障消滅の為、三途川の姥の像を安置すともいへり。」

 

「裁断橋」と「姥堂」について。

日本霊異記』『今昔物語』ともにお話なのですが、何かに取材した結果生まれたお話、の可能性があるわけで。

「奪衣婆」の属性と、「尾張宿禰久玖利の女」の属性が、ともに「衣をとる」だというのがちょっと面白いですよね……もともと「姥堂」の姥像が、「尾張宿禰久玖利の女」だったのが、いつのまにか「奪衣婆」になっちゃった……てなことは多分ないと思います、はい。

にしても、「奪衣婆」だけを祀る、というのも聞いたことないですよね……普通、「十王堂」の中に、「懸衣翁」と一緒にいる、くらいだと思います。

次回は別の文献を〜。