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べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「津島神社」(再)(津島市)

12/30。

年の瀬も迫ったこの日、年末年始は年越しイベントがあるので上京する予定だったのですが、つつがなく新年が迎えられるように、と思い参拝。

「津島神社」です。

 

○こちら===>>>

tsushimajinja.or.jp

 

津島神社(前編) - べにーのGinger Booker Club

津島神社(中編) - べにーのGinger Booker Club

津島神社(後編) - べにーのGinger Booker Club

津島界隈(1) - べにーのGinger Booker Club

津島界隈(2) - べにーのGinger Booker Club

 

↑ブログを始めた頃に参拝しています。

この頃は、ブログのコンセプトがふわふわしていたので、文献の引用なんかがありませんが、ひとまずご参考に(恥)。

 

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今回の写真はこれだけです。

 

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あ、カテゴリーに「御朱印」を増やすことにしました。

特に意味はないです。

 

というわけで、引用してみたいと思います(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第9編尾張名所図会

 

↑138コマです。

量が多いので、いくつかに分けます。

 

正一位津島牛頭天王社

同村向島に鎮座。[本国帳]に正一位津島牛頭天王と見え、元亀二年書写の[国府宮本]に正一位上と載せたり。
当社は人皇七代 孝霊天皇四十五年、素戔嗚尊の和魂、韓郷の島 [書紀集解]に、韓郷の島は新羅国を云ふと見えたり。 より帰朝ましまし、先西海対馬に留り、此所に年を経給ひ、其後 欽明天皇元己未年、此神島に光臨し給ふ。 [鹽尻]に社記を引きて、嵯峨帝の御宇、社を建つとあり。しかれば弘仁年中の造営なるべしとしるせり。されどこは修造をいへるなるべし。 故に旧名の藤波里を改めて津島と号せり。対馬と津島と、古通ひて用ふれば、しか名付けしなり。始は居守の地に鎮座ありしが、 [浪合記]に、欽明天皇の御宇海郷郡中島に光を現す、これを見れば柳竹に白幣あり、神託に、我は素戔嗚尊なり、此處に坐して日本の総鎮守となるべしと。これによつて社を建てて崇め奉る。始めて柳竹に現じて鎮座し給ひし所を、居守と号するなるべし。 村上天皇の天暦二戊申年 勅使ありて、柏森の地に社を建て給ひ、後村上院の建徳元庚戌年正月、正一位の神階を授けられ、日本総社 素尊は則皇国の本主なり。故に日本総社と崇め給ひしなり。 と称し給ふ。又 亀山院の弘和元辛酉年の冬、勅を奉じて大橋三河守定省、社を造進せり。 社伝諸説多し。今参考略抄して爰に挙ぐ。 然ありしより以来、弥増の神威日々に著く、永禄・天正の頃、織田信長公殊に当社を尊信ありて、神領若干を附し、宮殿を造営し給ひしより、本社・末社及び神門・銅瓦に至るまで、丹塗にして善美をつくし、荘麗なる事目を驚かせり。今天王社の神器に瓜の紋を付くるは、此時当社よりはじまりけるとぞ。元来尊神は文武兼備の始祖神にましまして、霊験多かる中に、疫癘を除き、痘疹を守り給ふ事、普く世に知る所なれば、其神徳を仰ぎ、遠近の国々より、寒暑をいとはず、貴壮賎老郡参し、詣人常に絶ゆる事なし。
本社 素戔嗚尊を祭る。しかれども、神主家の説には、今内陣に十七座在す、則素戔嗚尊をはじめ、大己貴命、左に八王子、右に七名の神いませり。ここをもつて古を考ふれば、おそらくは[式]の神名帳に見えたる国玉神社ならんか祭神を一座と唱へ初めしは、古き事にあらざるよしいへり。しかればむかしの神名は失せて、中世已後今の如くとなへ初めしにや国玉神社ならんといへる説も、暗推の論なれば、慥なる證とはしがたし
瑞牆・祭供殿・拝殿・御供所・楼門・南門・神厩・文庫・絵馬所・神庫・篝臺 仁寿の年号見ゆ。 鳥居・御井館・手水館等あり。」

 

由来と本社に関する部分です。

 

「当社は人皇七代 孝霊天皇四十五年、素戔嗚尊の和魂、韓郷の島 [書紀集解]に、韓郷の島は新羅国を云ふと見えたり。 より帰朝ましまし、先西海対馬に留り、此所に年を経給ひ、其後 欽明天皇元己未年、此神島に光臨し給ふ。 [鹽尻]に社記を引きて、嵯峨帝の御宇、社を建つとあり。しかれば弘仁年中の造営なるべしとしるせり。されどこは修造をいへるなるべし。 故に旧名の藤波里を改めて津島と号せり。対馬と津島と、古通ひて用ふれば、しか名付けしなり。始は居守の地に鎮座ありしが、 [浪合記]に、欽明天皇の御宇海郷郡中島に光を現す、これを見れば柳竹に白幣あり、神託に、我は素戔嗚尊なり、此處に坐して日本の総鎮守となるべしと。これによつて社を建てて崇め奉る。始めて柳竹に現じて鎮座し給ひし所を、居守と号するなるべし。 村上天皇の天暦二戊申年 勅使ありて、柏森の地に社を建て給ひ、後村上院の建徳元庚戌年正月、正一位の神階を授けられ、日本総社 素尊は則皇国の本主なり。故に日本総社と崇め給ひしなり。 と称し給ふ。」

 

仮に「素戔嗚尊」が実在したとしても、七代目の孝霊天皇の時代に半島から戻ってきた、という話は首肯できません。

むしろ、これを首肯したら話が面白くなるのはわかっているのですが……ひとまずそこは置いておきまして、「孝霊天皇」の時代に「牛頭天王」信仰がやってきた、くらいに捉えておきましょう。

社伝に基づいた話なので、どこまで正確なのかは不明ですし。

というのも、不思議な話として、これだけ大きなお社にもかかわらず、「古を考ふれば、おそらくは[式]の神名帳に見えたる国玉神社ならんか」というように、『延喜式』の神名帳にはその社の名前が見えていません。

「津島神社」はもちろん近世の呼び名で、「牛頭天王社」も「牛頭天王」信仰が広がってからの呼び名ですので、「むかしの神名は失せて、中世已後今の如くとなへ初めしにや」ではないか、と。

延喜式』に見える「国玉神社」がそうではないのか、という説がありますが、「国玉神社ならんといへる説も、暗推の論なれば、慥なる證とはしがたし」と判断されています。

何しろ「社伝諸説多し。」なので、なんだかよくわからない、というのが正解でしょうか。

そんな神様が伝わったのか発生したのか、それから流行りだして、今にも残っている、というのがなかなか謎です(神様の由来の古さと、今の信仰の度合いは、あまり関係のないパラメータです)。

「永禄・天正の頃、織田信長公殊に当社を尊信ありて、神領若干を附し、宮殿を造営し給ひしより、本社・末社及び神門・銅瓦に至るまで、丹塗にして善美をつくし、荘麗なる事目を驚かせり。今天王社の神器に瓜の紋を付くるは、此時当社よりはじまりけるとぞ。」……このあたりの時代の資料となると、多少は信頼できそうです。

「瓜」の神紋を使用した由来が、「織田信長」の家紋による、という話です。

 

神紋総覧 (講談社学術文庫)

神紋総覧 (講談社学術文庫)

 

 ↑こちらの資料がどれほど信憑性に足るのかはわかりませんが、この中の「窠(か)(木瓜(もつこう)紋」の記事では、

 

「……(略)平安のはじめ都に悪疫がはやったとき、退散の行事として行なったのが祇園祭のはじまりという。この木瓜は、そのときも模様として用いられていた。原型は、すでに奈良朝以前からあった伝統あるパターンだったのである。

八坂神社(祇園社)では、祭神牛頭天王と申しあげる。日本ではスサノオノミコトにあて、「祇園牛頭天王縁起」にはわが国に垂迹し、人民の苦を救うとある。朝鮮建国の神・檀君牛頭天王で、もとは中国の神農であるという。「牛頭人身にして、五穀と百薬もって救民した」ので、諸国で勧請したらしい。木瓜が中国わたりの、官服や、御簾の帽格(もこう)模様から来たというのも、やはり、牛頭信仰に付随して広まったものと思う。

八坂神社では、神官紀氏の紋から出たといっているが、神も社家も同様に用いたに違いない。(略)

八坂神社でなくとも、スサノオノミコトを祀っている神社では多くこれを用いる。さらに、織田氏の祖は福井の劔神社の神官であったから、五瓜を用いている。織田信長がこれを用いるのはそのためで、織田瓜と呼ぶ人もいる。(略)……」(p102)

 

とあり、紋自体を古いものと位置づけ、また祇園の「八坂神社」で古くから用いられていたのではないかと推測しています。

ということは、同じ「牛頭天王」信仰の「津島神社」も、同じ神紋だった可能性が高いわけで(本家・元祖争いをするなら同じでないといけません)、実は「織田信長」がきっかけで使い始めたのではなく、たまたま同じ紋だった、というだけのことを、これ幸いと時風に乗って喧伝したのかもしれません(「織田信長」が、同じ紋だったからいろいろ寄進した、とだっていうことはできます)。

……まぁ、↑の本は、神紋に知識のない私などには重宝しますが、檀君とか真面目に書いてるからなぁ……怪しい気もします。

 

末社
居守社 本社の南一町にあり。祭神三座。素戔嗚尊の幸魂、左に疹神(はしかのかみ)、右は大日孁貴命(おおひるめむちのみこと)の幸魂なり。天王始て来臨し給ふ時、神船を高津の湊の森に寄せ奉りけるに、蘇民が裔孫なりといへる老女、霊鳩の託によりて森の中に居ゑ奉りければ、里民参拝して森に居給へりといひける故、今社号となりたるよし。社伝に見えたり。
柏宮 本社の南にあり。祭神素戔嗚尊の奇魂なり。天暦二年神託によつて居守の地より爰に移す。社のうしろに古柏樹一株あり。故に社号とせり。
一王子社 本社の東にありて、奇稲田媛命を祀る。俗にうつくしの御前と称す。
八王子社 本社の西にあり。五男三女の神をまつる。
大國社 本社の東にあり。大國霊神を祀る。
若宮御前社 同所にあり。事代主命をまつれり。
蛇毒神社 同所にあり。八岐大蛇の霊を祭る。
当下御前社 同所にあり。五十猛神を祀る。
瀧御前社 同所にあり。彌豆麻岐(みずまき)神を祭る。
王御前社 同所にあり。秋比咩神を祀る。
熱田社 本社の東南にあり。日本武尊を祀る。
米御前社 同所にあり。倉稲魂神を祀る。
矢御前社 同所にあり。大歳神を祀る。
蘇民社 同所にあり。蘇民将来を祀る。[公事根源]に、素戔嗚尊の童部にて、牛頭天王とも武塔天神共申すなり。昔武塔天神、南海の女子をよばひにし出でます時に、日くれて道の側に宿をかり給ふに、彼所に蘇民将来・巨旦将来といふ二人の者あり。兄弟にてありしが、兄は貧しく、弟は富めり。爰に天神宿を弟の将来にかり給ふに許し奉らず。兄の蘇民にかり給ふに、則かし奉る。粟がらを座として、粟の飯を奉る。其後八年を経て、武塔天神八はしらの御子を引具して、彼兄の蘇民が家に至り給ひて、一夜の宿をかしける事を悦ばせ給ひ、恩を報ぜんとて、蘇民に茅の輪をつくべしと宣ふ。其夜より疫癘天下に發りて、人民死する事数をしらず。其時只蘇民ばかり残りけり。後武塔天神、我は速須佐雄神なりと宣ふ。今より後疫癘天下におこらん時は、蘇民将来の子孫なりといひて、茅の輪をかけば、此災難をのがれんとのたまひけりと見えたり。
兒御前社 同所にあり。若王神を祀る。
大社御前社 同所にあり。大山咋神を祀る。
船附御前社 同所にあり。庭高津日神を祀る。
内宮外宮遥拝所 南門の内、東西にあり。
多度社 南門の内、西の方にあり。天目一箇神を祀る。
彌五郎殿社 本社の南西の方にあり。武内宿禰を祀る。[浪合記]に、左太彦宮は今の彌五郎殿是なり。武内大臣と平定経と二座なり。 定経は地主神なり。 後村上院正平元年七月十三日、夢想ありて堀田彌五郎正泰これを祀る。時の人願主の名によりて、世に彌五郎殿といふよし見えたり。
星宮 本社の西南にあり。天恩穂耳命を祀る。
屋根御前社 同所にあり。庭津日命を祀る。
塵宮 本社の西にあり。聖神を祀る。俗に山神といふ。
弁財天社 同所にあり。
稲荷社 同所にあり。
経塚社 同所にあり。
千手社 同所にあり。
一切経社 同所にあり。
毘沙門社 彌五郎殿の北にあり。
橋守社 石橋の南にあり。
愛宕社 同所にあり。

神宮寺 彌五郎殿の北にあり。慈覚大師作の薬師、及び十二神将を安ず。
鐘楼 本社の北東にあり。銘に曰く、『尾張国海東郡津島牛頭天王鐘。応永十年癸未十月二十七日。願主沙彌道叟。大工沙彌道忍』と見えたり。」

 

末社が列記されています。

現代あるものとあまり変わりません。

 

蘇民社 同所にあり。蘇民将来を祀る。[公事根源]に、素戔嗚尊の童部にて、牛頭天王とも武塔天神共申すなり。昔武塔天神、南海の女子をよばひにし出でます時に、日くれて道の側に宿をかり給ふに、彼所に蘇民将来・巨旦将来といふ二人の者あり。兄弟にてありしが、兄は貧しく、弟は富めり。爰に天神宿を弟の将来にかり給ふに許し奉らず。兄の蘇民にかり給ふに、則かし奉る。粟がらを座として、粟の飯を奉る。其後八年を経て、武塔天神八はしらの御子を引具して、彼兄の蘇民が家に至り給ひて、一夜の宿をかしける事を悦ばせ給ひ、恩を報ぜんとて、蘇民に茅の輪をつくべしと宣ふ。其夜より疫癘天下に發りて、人民死する事数をしらず。其時只蘇民ばかり残りけり。後武塔天神、我は速須佐雄神なりと宣ふ。今より後疫癘天下におこらん時は、蘇民将来の子孫なりといひて、茅の輪をかけば、此災難をのがれんとのたまひけりと見えたり。」

 

いわゆる「蘇民将来」伝説の概略です。

内容としては、「備後国風土記逸文とほぼ同じ。

備後国風土記逸文では、「蘇民将来」伝説の起源とも考えられる、「武塔の神」の来訪及び「素戔嗚尊」の名乗りの時代を設定していません。

逸文自体は、『釈日本紀』という、『日本書紀』の注釈書で取り上げられています。

 

○こちら===>>>

釈日本紀 - Wikipedia

 

著者は、卜部兼方とされており、正安3(1301)年には成立していたと考えられています。

日本書紀』から600年近く、『風土記』の編纂からも400年は後世の書物に、逸文として掲載されているということをどこまで信用していいものやら……という疑念もあるようです。

「津島神社」の社伝では、「牛頭天王」は「対馬」から、なんらかのルートで尾張までやってきたということですので、その途中に備後国があっても不思議ではありません(瀬戸内海ルートを通ったとするならば)。

 

「例祭
(略)
御戸開(みとびらき)神事 同晦日 小の月は二十九日なり。 の夜深更に開扉あり。但し神正軆を拝するにはあらず、世にかくれなき神祭にして、内陣にこめ置ける幣帛を改め、替へ納むる祭なり。社壇には献燈あまた掛け列ね、社輩出仕の道をてらせる大松明の大造なる事は、一束を大勢にて釣り運ぶ程の事にして、実に壮観なり。
(略)
神葭(みよし)流神事 同十五日夜これを修行す。前に記せる神葭を今宵天王川へ流し、其着岸せし所にて是と祭る事なり。此式至つて神秘なれば、諸人の拝する事を許さず、社輩とても其家ならぬは、絶えてしる事なし。されば此夜津島中、家毎に門戸を閉ぢて、宵より静り居る事なり。猶も町々を吟味に廻る者ありて、もし門戸を開きたる家あれば、白瓜を投げ入るるに、必ず其家凶事ありとて、人々深く慎みて是を恐るるとぞ。

 

 祭事の中で、二つばかり取り上げてみました。

「御戸開神事」のほうは、真夜中に(おそらく)本殿の扉を開く、というものです。

「但し神正軆を拝するにはあらず」……そもそも、神の正体には「見るなの禁忌」がかかっている場合が多いですから、あまり珍しい話ではないのかもしれません。

次の、

「神葭流神事」というのは、「津島神社」では一番重要な祭事とされているようです。

「此式至つて神秘なれば、諸人の拝する事を許さず」……ということなので、実際のところはよくわからないのですが、「流す」対象は「何らかの悪いモノ」であることが多いと思います。

しかも、「されば此夜津島中、家毎に門戸を閉ぢて、宵より静り居る事なり。猶も町々を吟味に廻る者ありて、もし門戸を開きたる家あれば、白瓜を投げ入るるに、必ず其家凶事ありとて、人々深く慎みて是を恐るるとぞ。」……祭の夜は、家の戸を閉めて静かにしていろ、というのは、「見るなの禁忌」であると同時に、「疫病神」に侵入されないようにするためでもあるのでしょう。

往古、その「葭(あし)」が、疫病を抑えるための「疫病神」=「牛頭天王」を祀っていた、あるいは憑依した「人柱」だったのかもしれません。

ま、妄想ですが。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 9 海東郡,海西郡

 

↑こちらは明治31年発行の、尾張地方の史書です。

9巻の37コマから、「津島神社」の記事がありますが……

 

牛頭天王社
津島の向島にあり素戔嗚尊なりといへり 社記曰日本惣社神位正一位人皇七代孝霊天皇四十五年乙卯降臨西海道對馬州欽明天皇即位元年己未自對馬遷坐今地故因本洲之名自是称對馬 今云津島 凡以当社称日本惣社者載在当社講式及七種問答奥書按素戔嗚尊則我國本主也故称日本惣社素戔嗚尊初鎮坐今居森地而後天平元年己巳移今柏宮嵯峨天皇弘仁九年戊戌秋遷坐今本社 右の文は元禄年中尾張風土記残編眞野時綱吉見幸和の稿本に見えたるまま也 又云一乗院長徳元年乙未夏天下流疫是以奉幣 勅使闕名 即授天王号云々 社家舊記 など見えたり 社の地を往古藤波の里といへるよしいへれとたしかなる證も見えずおぼつかなし藤波の里といふ名により藤島神社也などいふ説は附會也 天野信景の牛頭天王辨にいはく牛頭天王ハ乃武塔天神也巫祝爲素戔嗚尊陰陽家天道神爲泰山府君又曰牛頭天王出仏説秘密心點如意藏王陀羅尼経 義浄三蔵所譯也 凡天王有十種反身曰武塔天神曰牛頭天王曰鳩摩羅天王曰蛇毒氣神曰摩耶天王曰都藍天皇曰梵王曰玉女曰薬實明王曰疫病神王 以牛頭天王爲疫病神者出于此矣 又云天刑星秘密儀軌三巻 不空三蔵之所譯也 有牛頭天王縛撃癘鬼■除疫難之事 牛頭天王ノ修法在此儀軌凡以牛頭天王或爲法界自在國王或爲婆斯亭廻國之王或爲都跋國王尾張國津島縁起爲豊饒國王亦盖依■氏之書歟牛頭ハ梵語也■曰妙香乃天部也 又云夫牛頭天王者西域所祭之神而薬師如来之教令輪身有衆病悉除功徳故我國昔日傳其修法禳除疫癘者與吉祥天女改過法并行之遂宣流諸州在々崇之修之皆浮■家之祭法也其配素戔嗚尊者盖依備後風土記也 風土記和銅延長両度撰皆以土俗傳説記之問又附會漢土胡竺之故事事信不可爲我神代之事也 意備後國沼隅郡鞆浦有疫隅ノ社俗云鞆天王社傳云武塔天王通南海神女地也然不載神名式則是亦依風土記説建祠設説者乎凡異域神我國自古祭之者多矣所謂摩多羅神金毘羅神 摩多羅一作曼■羅金毘羅一作倶毘羅天竺ノ神也此二神異名同躰見阿含羅頂不空羅■等ノ経渓嵐拾葉集山家要畧日書ノ記及二荒山神傳互有異説云々 及叡山ノ赤山 漢神 三井寺新羅 韓神 等ノ祠共爲素戔嗚尊其他妙見吉祥辨天陀吉尼大黒等皆強爲我國ノ神者不一二夫牛頭天王ノ祠延喜以前建之者多矣所謂広峰 播磨 祇園 京師 津嶋 尾張 大■牛頭 近江 等也然式撰之日不載之於神名帳也若祭素戔嗚尊則朝家豈除之乎云々など見えて猶くさくさ論辨せり 津島社といふ事東鑑にはしめて見えたり此社の事舊史実録に其由来見えされは暫く社傳をあけて後人の考へを待のみ 天野信景の信濃宮傳に後亀天皇の弘和 南朝年号 元年辛酉の冬直をうけたまいりて大橋参河守定省社頭を造進す其後永禄天正の間織田信長公ことに尊信し給ひ屢造営を加へ神領をも寄附せられ宮殿をはしめ神門末社まて悉く美麗を盡せる事世人の知る處也 もろもろの神器に瓜の紋を用る事は信長公の御寄附の品より起りて今は神紋のことくなれりとそ六月の神祭は申に及はす平常にも参詣の人絶る間なく殊に関東の国々よりあゆみをはこびまうつる事夥しく比類なき繁昌の御社なり。
本社 素戔嗚尊をはしめ大己貴命又左に八王子右に七名の神等すへて十七坐ましますよし祠官家の説なり 拝殿 祭供殿 御供所 瑞牆 楼門 南門 神庫 文庫 神厩 絵馬堂 篝臺 鳥居 御井館 手水館 
末社 居守社 本社の南にあり祭神三坐素戔嗚尊の幸魂左疹神右は大日孁貴尊幸魂也天王始て来臨し給ひし時船を馬津の湊によせて森の中へ居奉りし故居森の社と名つけしよし社傳にいへり
柏社 本社の南にあり祭神素戔嗚尊の奇魂也天暦二年神託によりて居森の地よりここに移す社のうしろに古柏樹一株あるゆへ社号とす
一王子社 本社の東にあり奇稲田媛命を祭る故うつくしの御前とも申す
八王子社 本社の西にあり五男三女の神也以上二社は寛文の頃まで本社の相殿にましまししよし神社啓蒙に見えたり
大國社 本社の東にあり祭神大國霊尊なり
若宮御前社 同處にあり祭神事代主命
蛇毒神社 同處にあり八岐大蛇の霊をまつる
當下御前社 本社の東にあり祭神五十猛神
瀧御前社 同處にあり彌豆麻岐神をまつる
王御前社 同所にあり秋比咩神をまつる
熱田社 本社の東南にあり日本武尊を祭る
米御前社 同處にあり倉稲魂神を祭る
矢御前社 同所にあり祭神大歳神也
蘇民社 同處にあり蘇民将来をまつる素戔嗚尊牛頭天王とも武塔天神とも申すむかし武塔天神南海の女子をよばひに出給ひし時日くれて道の側に宿をかり給ふ彼處に蘇民将来巨旦将来といふ兄弟のものありしが兄の蘇民は家貧しく弟の巨旦は家富り天神弟に宿かりむと宣ひけるにかし奉らず兄にかりむと宣ひければ則かしまゐらせつ扨貧しければ栗がらを坐として栗の飯を奉る其後八年を経て武塔天神八柱の御子を引具してかの兄が家に渡らせ給ひ一夜の宿をかり給ひし事を悦はせたまひて其恩を謝せんと宣ふ我は速須佐雄神也天下に疫癘はやるへし茅の輪を門にかけて災を免るへしと教へ給ひしかはくして其災をまぬかれけり今より後蘇民将来が子孫なりといひて茅輪をかけは疫癘の災難をのがるへしと宣ひしよし公事根源簠簋内傳等に見えたり
兒御前社 同處にあり若王子神を祭る
大社御前社 同所にあり大山咋神をまつる
船着御前社 同處にあり庭高津日神を祭るといふこの神名詳ならず
外宮 南門のうちにあり祭神豊受太神宮
内宮 同所にありともに遥拝所也
多度社 南門の内西の方にあり天目一神を祭る
彌五郎殿社 本社の南西の方にあり武内宿禰を祭る平定経の霊神をも祭りて二坐とす後村上天皇の正平元年七月十三日夢想の告ありて堀田彌五郎正泰其祖神武内宿禰を祭る時の人其願主の名によりて彌五郎殿の社と申けるよし浪合記に見えたり
星宮 本社の西南にあり祭神天之忍穂耳尊也
屋根御前社 同所にあり庭津日命を祭る
塵宮社 本社の西にあり聖の神を祭る俗に山神といふ
辨才天社 同所にあり
稲荷社 経塚社 千手社 一切経社 ともに本社の西にあり
毘沙門社 彌五郎殿の北にあり
橋守社 石橋の南にあり
愛宕社 同處にあり
神宮寺 彌五郎殿の北にあり慈覚大師作の薬師并十二神将の像を安置す
鐘楼 本社の北東にあり銘に尾張国海東郡津島牛頭天王鐘応永十年癸未十月廿七日願主沙彌道叟大工沙彌道忍と見えたり
境外摂社 三宝荒神社 社家町にあり中央に天知迦流美豆姫左右に奥津彦奥津姫を祭る
姥社 本社の北の方うばがふところといふ所にありむかし岩崛ありて蘇民将来が裔孫といへる老翁と老女がすみし處也素戔嗚尊営地に光臨し給ひしとき其老女に神託し給ひてとどまり給ひし故社を立て其姥を祭りける由社傳にいへり
山神社 米の坐町の西にあり大山祇神を祭る
金燈籠社 堤下金燈籠町にあり
市神社 米の坐町にあり大市姫を祭り左右に大歳神宇賀魂神を祭る
土御前社 今市場町にあり祭神は大土御祖神也
八劔社 下搆の橋の東にあり
(略)
神主氷室氏
むかしより紀氏にて神主職をつとむ仁治三年十二月津島社神主文章生紀範長法師法名西行其子息右近将監範廣事父の西行に対して不孝たるにより義絶し神主職を十歳の幼子牛王丸に譲度段言上に及ひしかは御免許ありて牛王丸彼職に補せられし義絶の執逹状一通今尚氷室家に書蔵す古書の文体雅趣たぐひなく筆跡見事なる事世に稀なる古状なり其後後醍醐天皇の皇孫尹良親王御子正二位大納言良王君乱をさけて尾張に来り給ひ永享七年十二月廿九日津島天王の神主が家に入らせ給ひしよし浪合記に見え其弟良新君神主職を継れしとぞ

 

……読んでわかる通り、ほぼ『尾張名所図会』と同じ内容だったりします。

元禄年中尾張風土記残編眞野時綱吉見幸和の稿本に見えたるまま也」……社記を『尾張風土記』から引用したと書いてあるのですが、これはもちろん、10世紀の『風土記』(『古風土記』)ではなく、近世になって編纂されたものです(『尾張国風土記』は散逸して、逸文しか残っていません)。

「社の地を往古藤波の里といへるよしいへれとたしかなる證も見えずおぼつかなし藤波の里といふ名により藤島神社也などいふ説は附會也」……とまたばっさり切っています。

尾張の生んだ博覧強記・天野信景が書いた(らしい)、

 

「天野信景の牛頭天王辨にいはく牛頭天王ハ乃武塔天神也巫祝爲素戔嗚尊陰陽家天道神爲泰山府君又曰牛頭天王出仏説秘密心點如意藏王陀羅尼経 義浄三蔵所譯也 凡天王有十種反身曰武塔天神曰牛頭天王曰鳩摩羅天王曰蛇毒氣神曰摩耶天王曰都藍天皇曰梵王曰玉女曰薬實明王曰疫病神王 以牛頭天王爲疫病神者出于此矣 又云天刑星秘密儀軌三巻 不空三蔵之所譯也 有牛頭天王縛撃癘鬼■除疫難之事 牛頭天王ノ修法在此儀軌凡以牛頭天王或爲法界自在國王或爲婆斯亭廻國之王或爲都跋國王尾張國津島縁起爲豊饒國王亦盖依■氏之書歟牛頭ハ梵語也■曰妙香乃天部也 又云夫牛頭天王者西域所祭之神而薬師如来之教令輪身有衆病悉除功徳故我國昔日傳其修法禳除疫癘者與吉祥天女改過法并行之遂宣流諸州在々崇之修之皆浮■家之祭法也其配素戔嗚尊者盖依備後風土記也 風土記和銅延長両度撰皆以土俗傳説記之問又附會漢土胡竺之故事事信不可爲我神代之事也 意備後國沼隅郡鞆浦有疫隅ノ社俗云鞆天王社傳云武塔天王通南海神女地也然不載神名式則是亦依風土記説建祠設説者乎凡異域神我國自古祭之者多矣所謂摩多羅神金毘羅神 摩多羅一作曼■羅金毘羅一作倶毘羅天竺ノ神也此二神異名同躰見阿含羅頂不空羅■等ノ経渓嵐拾葉集山家要畧日書ノ記及二荒山神傳互有異説云々 及叡山ノ赤山 漢神 三井寺新羅 韓神 等ノ祠共爲素戔嗚尊其他妙見吉祥辨天陀吉尼大黒等皆強爲我國ノ神者不一二夫牛頭天王ノ祠延喜以前建之者多矣所謂広峰 播磨 祇園 京師 津嶋 尾張 大■牛頭 近江 等也然式撰之日不載之於神名帳也若祭素戔嗚尊則朝家豈除之乎云々」

 

……とにかく「牛頭天王」の正体についていろいろと列挙されています。

例えば、牛頭天王ハ乃武塔天神也巫祝爲素戔嗚尊陰陽家天道神爲泰山府君」……「牛頭天王」は「武塔天神」で「素戔嗚尊」で「天道神」で「泰山府君」だと……なるほど、飛○昭雄氏の好きそうな話ですね(ということは『ムー』っ子の私も好きだ、ということですが)。

あるお経(たぶん、「仏説秘密心點如意藏王陀羅尼経」がお経の名前)では、「凡天王有十種反身曰武塔天神曰牛頭天王曰鳩摩羅天王曰蛇毒氣神曰摩耶天王曰都藍天皇曰梵王曰玉女曰薬實明王曰疫病神王」と、「梵天」の化身が挙げられているそうです。

「天刑星秘密儀軌三巻」では、牛頭天王縛撃癘鬼■除疫難之事」……と、「牛頭天王」は、「癘鬼(疫病を流行らせる鬼)」を縛り、撃ち、疫病の難を除くとされているようです。

その後にもいろいろと書かれていますが、「凡異域神我國自古祭之者多矣」

わが国には、異なる地域の神が祭られているものが多いとして、摩多羅神」「金毘羅神」「叡山ノ赤山(※比叡山の赤山明神)」「三井寺新羅(※三井寺新羅明神」「妙見」「吉祥」「辨天」「陀吉尼」「大黒」などがあり、「牛頭天王」が仏教の神なのに昔から信仰されているのもこの類と考えられたようです(天野翁には、ですが)。

牛頭天王ノ祠延喜以前建之者多矣所謂広峰 播磨 祇園 京師 津嶋 尾張 大■牛頭 近江 等也然式撰之日不載之於神名帳也」……「牛頭天王」の祠は、延喜より前に建てられているものが多いのに、「延喜式神名帳には掲載されていない、といった意味でしょうか。

天野翁は博覧強記ですが、必ずしもその知識が正確とは言えないので、面白い話、程度に受け取っておくべきでしょうか。

 

蘇民社 同處にあり蘇民将来をまつる素戔嗚尊牛頭天王とも武塔天神とも申すむかし武塔天神南海の女子をよばひに出給ひし時日くれて道の側に宿をかり給ふ彼處に蘇民将来巨旦将来といふ兄弟のものありしが兄の蘇民は家貧しく弟の巨旦は家富り天神弟に宿かりむと宣ひけるにかし奉らず兄にかりむと宣ひければ則かしまゐらせつ扨貧しければ栗がらを坐として栗の飯を奉る其後八年を経て武塔天神八柱の御子を引具してかの兄が家に渡らせ給ひ一夜の宿をかり給ひし事を悦はせたまひて其恩を謝せんと宣ふ我は速須佐雄神也天下に疫癘はやるへし茅の輪を門にかけて災を免るへしと教へ給ひしかはくして其災をまぬかれけり今より後蘇民将来が子孫なりといひて茅輪をかけは疫癘の災難をのがるへしと宣ひしよし公事根源簠簋内傳等に見えたり」

 

この「蘇民社」に関する内容も、『尾張名所図会』とほぼ変わりませんが、最後に出てくるのが、『三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集』です。

単に『金烏玉兎集』というほうが馴染み深いでしょうか。

 

 

兵法秘術一巻書・〓〓内伝金烏玉兎集・職人由来書 (日本古典偽書叢刊)

兵法秘術一巻書・〓〓内伝金烏玉兎集・職人由来書 (日本古典偽書叢刊)

 

 

↑なんと、活字になって出版されてますから。

この本の100ページの解題から、

 

「【成立】安倍晴明清明)作と信じられて来たが、晴明について述べた説話集や『本朝書籍目録』にその名が見えないことをはじめとして、現存諸本が中世後半以降の書写に限られることと、中世独特の仏教色に彩られた内容の上からも、その可能性は否定される。それぞれ別個に成った各巻が室町の比較的早い時期に編纂されたと考えられるが、その過程においては真言・天台の密教僧、祇園感神院周辺の宗教者、土御門家の人物等の関与が想定される。」

 

とあり、

 

 

↑のような漫画では(漫画だからいいのですが)「安倍晴明」作の秘伝書として出てくるものの、残念ながらいわゆる「偽書」と考えられます。

まあ、「安倍晴明」作ではないからといって、内容までも偽りとは限らないのですが。

それを差し引いても、大陸や仏教の影響を受けすぎていて、現代風に言えば「トンデモ」な本です(だからこそ、『ムー』っ子の私は面白いと思うのですけれど)。

面白い本ですし、註も多いので、楽しめると思います。

 

尾張名所図会』では、

 

「彌五郎殿社 本社の南西の方にあり。武内宿禰を祀る。[浪合記]に、左太彦宮は今の彌五郎殿是なり。武内大臣と平定経と二座なり。 定経は地主神なり。 後村上院正平元年七月十三日、夢想ありて堀田彌五郎正泰これを祀る。時の人願主の名によりて、世に彌五郎殿といふよし見えたり。」

 

と書かれている「彌五郎殿社」、以前のブログ記事を見ていただけばわかりますが、境内にあってかなり大きな社です。

これが『尾陽志』では、

 

「彌五郎殿社 本社の南西の方にあり武内宿禰を祭る平定経の霊神をも祭りて二坐とす後村上天皇の正平元年七月十三日夢想の告ありて堀田彌五郎正泰其祖神武内宿禰を祭る時の人其願主の名によりて彌五郎殿の社と申けるよし浪合記に見えたり」

 

となっています。

まあ、『浪合記』という書物(※こちらも偽書説あり)から引用しているので内容は同じなのですが、「平定経」が誰かわからないんですよね……さくっと検索しても引っかからないし、地主神とまでされているのに、何も伝わっていないのは何故なのか……謎です。

 

最後に神主家の記事がありまして、

 

「神主氷室氏
むかしより紀氏にて神主職をつとむ仁治三年十二月津島社神主文章生紀範長法師法名西行其子息右近将監範廣事父の西行に対して不孝たるにより義絶し神主職を十歳の幼子牛王丸に譲度段言上に及ひしかは御免許ありて牛王丸彼職に補せられし義絶の執逹状一通今尚氷室家に書蔵す古書の文体雅趣たぐひなく筆跡見事なる事世に稀なる古状なり其後後醍醐天皇の皇孫尹良親王御子正二位大納言良王君乱をさけて尾張に来り給ひ永享七年十二月廿九日津島天王の神主が家に入らせ給ひしよし浪合記に見え其弟良新君神主職を継れしとぞ」

 

というものなんですが、いやぁ「十歳の幼子牛王丸」という作為の匂いがぷんぷんする内容で……まとはいえこの「義絶状」なるものは「津島神社」に伝わっていたようなので(現代もあるのか、までは調べていません)、ひょっとするとこのあたりでは、神に近い子供には「牛王丸」と名付ける習慣でもあったのかもしれません。

 

ふう……あれ、続くらしいです……。